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2015年4月

幻のケララ 日印の夢

 息子が2歳、娘が生後半年くらいのとき、ニューデリーのわが家から飛行機で真南へ飛んだ。目的地は、インド内部の高原にあるバンガロールだった。荷物があったので、空港からホテルへ直行した。

 フロント嬢は美人ぞろいで、しかもにこやかに迎えてくれた。この「にこやかに」というのは、ニューデリーなど北インドではまずお目にかかれない貴重なものだ。ロビーにあるソファでウェルカムドリンクのトロピカルジュースを出してくれた。気のせいか陽光が明るく、トロピカルドリンクがよく似合った。

 街へさっそく出てみると、空気もさわやかで家々に花がきれいに咲いていた。チョロチョロ走り回るいたずら坊主に気をつけながらも、家族で快適なお散歩ができた。

 夕食は、あえてホテルのレストランではなく、街なかの中華料理店へ行った。地元料理を食べてもいいが、どうせインドだからカレー以外にろくな料理はないのがわかっている。

 ゆったりした半円形のソファに座って注文をしていると、いたずら坊主がソファを乗り越えて隣の席に行ってしまった。だめだよ、そこは別のお客さんの席なんだから。連れ戻そうとすると、中年の紳士が「ああ、いいですよ。可愛い坊やだから歓迎します」と言ってくれた。

 それをきっかけに言葉を交わすことになった。ぼくたちはニューデリーに駐在している日本人だと自己紹介すると、その紳士は隣のケララ州から仕事で来たと言った。自然、名刺交換となった。ぼくたちが泊まっているホテルの名前も聞かれた。

 インドには7つの連邦直轄領と29の州がある。ぼくは、そのうち10くらいは行ったが、ケララ州にはまだ行ったことがなかった。そして、一番行ってみたい土地でもあった。話に聞けば、人びとは穏やかで識字率もインドではダントツに高いそうだ。つまり、民度がインド一番ということになる。

 そのころインドの人口は8億数千万で、そのうちの端数である数千万だけがまともな生活をし、残りの8億人は貧困ラインぎりぎりかそれ以下と言われていた。だから、インドの地方へ行くとき、気分良く過ごせるかどうかは地元の民度が握っているとも言えた。

 中華料理店で知り合った紳士は化粧品会社の経営者だそうで、「ぜひケララへ来てください。大歓迎しますよ」と言ってくれた。インド人でもお愛想でそういうことを言うひとはいるが、紳士は心から言ってくれたように思えた。

 だが、半年後には東京への帰任が決まり、ケララ州は幻の土地となってしまった。

 それから四半世紀が経ち、Uターンした出雲で、島根と鳥取の大視察団がケララ州を訪問したという地元紙の記事を読んだ。いまや人口が12億を超す巨大市場に足場を築こうと、中海・宍道湖圏域の市長会や経済団体が合同視察団を編成したのだという。

 ケララ州は逆三角形のインド亜大陸の南西端にあり長い海岸線に面している。44の川や水郷地帯が広がり、ぼくは知らなかったが「神に抱かれた国」「水の都」とも呼ばれているそうだ。何となく南国版の出雲っぽいところなのだろうか。

 日本政府は、拡張主義の中国を念頭に、戦略的な意味もあってインドとの結びつきをいっそう強めようとしている。2014年9月、両国政府は「特別戦略的グローバル・パートナーシップ東京宣言」に合意した。日本の対インド直接投資と進出日系企業数を5年以内に倍増させるのが目標だ。両国は地方同士の交流、協力も後押ししており、日本のODA(政府開発援助)も活用できる。今回の視察団は、ケララ州最大都市コチ市と水質浄化など10分野の交流に向け協議をはじめることで合意したという。

 日本の自治体でインドと提携し交流しているのは広島県や横浜市など8県市で、中海・宍道湖圏域のように県境を越えて官民で連携するケースは初めてらしい。

 ぼくがケララの紳士と会ったバンガロールは、いまでは「インドのシリコンバレー」として世界的に知られるほどにIT産業が盛んだ。ケララ州も、そこまでではないが漁業や観光のほかIT産業でも伸びつつある。ITと言えば、松江市で誕生したプログラミング言語Rubyを使う企業も多いというから、とっかかりはすでにある。

 とはいえ、よくある話ながら、IT産業が伸びるのにごみ処理が追いついていない。3年前に建設されたIT企業151社の集積地「インフォパーク」では、200万人が出すごみを1日300トン処理している。焼却ではなく生ごみにEM菌を混ぜて肥料化するだけだ。隣接の埋め立て処分場はプラスチックごみであふれている。ここで日本企業の出番がくる。廃プラスチックや紙くずを固形燃料に変える技術がすでにある。

 ぼくの独断と偏見だが、島根・鳥取視察団はいい州を選んだと思う。世界銀行と国際金融公社が各国のビジネスのしやすさをランク付けした「ドゥーイング・ビジネス2014年版」で、インドは190か国中134位と96位の中国より悪い。でも、ケララ州はインドで一番つきあいやすいのではないか。

 現地の日本人はわずか52人で、日本語のできるひともほとんどいないようだが、親日的で、「印日商工会ケララ」は日本語教育や技術セミナーを積極的に展開しているという。

 バンガロールの中華料理を味わった翌朝、ホテルフロントに思わぬプレゼントが届いていた。ケララ州の紳士が、わざわざ化粧用パウダーなどを持ってきてくれたのだった。

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AKB48は特大ホームランだった!

 いわゆるアイドルというものに、少年時代からほとんど興味がなかった。歌を聴くにしても歌うにしても、もっと大人の歌手のほうがいい。だから、あの歌手はいいな、と子ども心に思ったのは山口百恵さんくらいだった。彼女は21歳で引退したからいまのアイドルとそう変わらない年ごろだが、ずっと大人びていた。

 アイドルに興味はないと言っても、AKB48などをプロデュースする秋元康さんがどういうひとなのかには関心があった。

 文藝春秋2015年4月号で、秋元さんが伊藤忠商事の岡藤正広社長と異色対談をしている。「今の若者に一番欠けているのは、何が何でも一等賞を取りたいという気持。・・・今の学生は、これぐらいのレベルの大学に行ければいいや、という風に『絶対にここに行く』とならない。行動パターンが偏差値的なんです。これは何も受験に限った話ではなくて、生き方までがそうなっています」

 偏差値的生き方とは初めて聞く言葉だった。知り合いの若者の顔を思い浮かべると、たしかにほとんどはそうかもしれない。思えばぼくの受験時代、偏差値というのは模試ではあったように記憶しているが、大学のランクが輪切りにされることはまだなく、志望校を決めるときにも参考にしなかった。どこそこの大学のなんとか学部は偏差値○○というような情報はなかった。

 それとも、実際にはあったが、ぼくが無頓着でそういうのはまったく気にもしないで自分が行きたい大学を“決め打ち”したのかもしれない。

 秋元康さんの言葉が心に引っかかったので、偏差値とは何か、ちょっと調べてみた。すると、週刊ポスト2013年9月6日号で大前研一氏がこんな解説をしていた。「偏差値とは1960年代から受験業界で学力成績の指標として使用されるようになった。しかし、実は偏差値は単なる学力の物差しではない。“お上”が明確な意図を持って導入したものである。私はかつて、偏差値導入を主導した政治家から話を聞いたことがある」

 ベトナム反戦・第2次反安保、学園民主化などで大学闘争が活発化して東大安田講堂事件(1968~1969年)が起きた後、大前さんが「日本はこのまま行くと若い人達が不満を募らせて、クーデターを起こすのではないか」と懸念を示した。だが、その政治家は「大前さん、その心配はないですよ。国にもアメリカにも逆らわない従順な国民をつくるために『偏差値』を導入したのですから」と答えたそうだ。

 大前さんは「偏差値がそれほど重要な意味を持っているとは思っていなかったので非常に驚いた」と述懐し、こう述べている。

 「世界のほとんどの国には偏差値などなく、学生は自由に学校を選んで受験している。結局、日本で導入された偏差値は自分の『分際』『分限』『身のほど』を弁えさせるための指標なのである。そして政府の狙い通り、偏差値によって自分のレベルを上から規定された若者たち(1950年代以降に生まれた人)の多くは、自ずと自分の“限界”を意識して、それ以上のアンビション(大志)や気概を持たなくなってしまったのではないか、と考えざるを得ないのである」

 日本の若者たちは、偏差値教育行政によって、羊の従順さになるようマインド・コントロールされてきたことになる。

 秋元さんは、だからアイドルを目指す子たちに偏差値的生き方ではないものを要求してきた。AKB48と言えば総選挙が有名だが、秋元さんはこういう考えで導入したのだそうだ。「そもそも芸能界とは、毎日が総選挙みたいなものなんですけど、普通はその部分を見せません。・・・AKBが特別に厳しいというよりは、何か芸能界で成功するためのキッカケを掴んでもらいたいな、と思っています」

 秋元康さん自身、「CMの場合は面白ければいい、ではなく、どれだけ商品の訴求ができたか、どれだけ商品が売れたかというのが最大のポイント。だから、バットを短く持って確実にヒットを打ちにいくんです」。ところが、10年前にAKBをはじめたときは「バットを長く持って完全にホームランを狙っていました」と言う。

 アンビション(大志)を持って芸能界に革命を起こす覚悟ではじめたということだ。

 おなじことを聞いた記憶がある。ベルリン特派員をしていたふた昔前、日本人のある科学者がノーベル化学賞を取るかもしれないという情報を得て、地方都市のワイマールに急きょ出張した。かつてゲーテが活躍した文化都市だ。科学者は隣国オーストリアでの学会に出席したあとワイマールで発表を待つという。

 ホテルへ着いてすぐその先生に電話したら、他にメディアは来ておらず独占で取材できることになった。賞の発表までは半日ほどあったから、先生と同行の奥さまを小さなドイツ・レストランに招き、じっくりと話を聞かせてもらった。研究の内容は難しかったが、先生の言葉が鮮烈な記憶として残っている。

 「いつも若いひとに言ってることがあります。研究は、基礎を大切にしろ。そして三振してもいいからまずホームランを狙えってね」

 先生は、惜しくもノーベル賞は逃したものの、ぼくは人生の大きな教訓をもらった。だから秋元さんが言いたいことはよくわかる。若者には偏差値的人生など歩んで欲しくない。

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“ナイカク打ち”にこだわるメディア

 読売ジャイアンツの長野久義選手は、バッターボックスに入ると、ホームベースから思い切り離れて立つ。根っから内角打ちが苦手のためらしいが、あれだけホームベースから遠いと外角の球はどうやって打つんだろうと思ってしまう。でも、試合で観察しているかぎり、外角球には踏み込んでバットを出しむしろ得意にしている。

 野球の一流選手はそれができるが、頭の固い人たちが政治的にそれをやると、滑稽なことが起きる。自分がホームベースから離れて立っていることに気づかず、真ん中の球をストライクと言われ「外角のボールだ!」と文句を言うのだ。そして、捕手・審判から見て「左」の右打者の内角球こそど真ん中だと信じ込んでいる。

 ホームベースから政治的に離れて立つやからは、日本にたくさんいる。メディアで言えばそのエースで4番が朝日新聞だし、テレビ朝日も3番サードくらいの位置にいる。

 テレ朝の看板番組かどうかは知らないが、毎晩飽きもせず電波で左偏向情報を垂れ流している『報道ステーション』が、このところ物議をかもしている。その発端は、2015年3月27日の番組に出演した元経産官僚・古賀茂明氏の“不規則発言”だった。番組の流れを無視し、テレビ朝日の早河洋会長らの意向で降板に至ったと発言し、「菅(義偉)官房長官をはじめ官邸のみなさんにはものすごいバッシングを受けてきた」と語った。

 「イスラム国(ISIL)」問題について特集した1月23日の放送も波紋を呼んだ。そこでは、古賀氏が、安倍晋三首相は、日本人の人質が犠牲になるかもしれないことを知っていながら、イスラム国を刺激するような中東支援発言をしたと指摘した。そして、イスラム国を空爆しているアメリカやイギリスの仲間に入れてほしいと思っていたのではないかとし、自分だったら、「I am not Abe」というプラカードを掲げて、「日本人は違いますよ」と主張していたとも語った。

 古賀氏は、4月1日、毎日新聞の取材に応じ、「圧力」の内容について、菅官房長官が報道機関の記者らを相手に古賀氏らの番組での言動を批判していた、と主張した。また、昨年末の衆院選前、自民党が在京テレビ局各社に「公平中立」を求めた文書を配布したことについて「(テレビ朝日は)『圧力を受けていない』と言うけれど、局内にメールで回し周知徹底させていた」と批判した。

 公平中立を求める文書を局内で周知徹底させた、ということは、局幹部がそれまでテレ朝は公平中立ではなかったと認めていることを意味するのではないか。

 古賀氏は、おなじ日、市民団体のネット配信番組に出演し、「安倍政権のやり方は上からマスコミを押さえ込むこと。情報公開を徹底的に進め、報道の自由を回復することが必要だ」と述べた。報道の自由と古賀氏が言うのは、自分たちがど真ん中だと思っている「左」の声をもっと伝えろということだろう。

 左派メディアを中心にこの問題に耳目が集まっているが、どこのメディアも触れてはいない重大なポイントがある。つまり、日本のメディアは、そのタテマエ通り、ほんとに公平中立、不偏不党なのかという根本的な問題だ。

 海外のメディアで公平中立、不偏不党を謳うケースはあまり聞いたことがない。たとえば、ニューヨーク・タイムズが大統領選でどの候補を支持するか旗幟鮮明にするのはよく知られた話だ。

 日本のメディアが不偏不党を言い出したのは、1918(大正7)年にまでさかのぼる。大阪朝日新聞(現・朝日新聞)が、白虹事件によって内務省・警察当局から発禁処分になった。筆禍、あるいは政府当局による言論統制事件だった。これをきっかけに、日本の新聞は権力にひれ伏し横並び報道をするようになった。それは、お互いの報道内容について批判を控えることにつながり、戦前、戦中、戦後を通じてほぼ変わらなかった。

 メディア史研究の有山輝雄氏は、ほとんどの新聞が口先では「不偏不党」を標榜し現在にいたることについて、こう看破している。「天皇制国家に忠良なメディアであることは、不偏不党の基本的前提なのであり、それがなければ不偏不党は成立しない」

 朝日などは、天皇制を本心では否定したいと考えていることが垣間見える。それでも、タテマエでは不偏不党と言い張っている。

 報ステが公平中立なんてとんでもない、という例はいくらでもあげられる。あるJリーグの試合で「JAPANESE ONLY」と書いた差別的な横断幕が掲げられた問題について、2014年3月13日放送では番組トップであつかった。その中で、差別問題と直接関係のない客席の旭日旗にも言及し、問題があるかのように放映した。韓国が「旭日旗は軍国主義の象徴だ」と近年になって叫んでいる。それに尻尾をふるような報道ぶりだった。

 これに反発する意見がツイッターで相次いだ。「ねぇ報ステさん、 旭日旗がなんだって?差別って言いたいの?」「民族差別は良くないことだが、応援の景気付けに国旗や旭日旗振って何が問題?」

 旭日旗を社旗とする朝日新聞に対して報ステが社旗のデザイン変更をうながすなら、いちおう辻褄は合う。だが、報ステは、おかどちがいの番組を作ってその偏向ぶりをまるで認識していなかった。

 左に立つのは、“内閣打ち”にこだわるからにちがいない。

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マスメディアが報じない安保の画期的な動き

 ぼくが小1のころ、アンポハンタイという言葉が流行した。そのころは、どんな意味かよくわからないまま、学校でもみんな口にしていた。何かに反対するとき、アンポハンタイと言うのだった。1960年のことだ。

 ある程度、大人になってから知ったことだが、それは日米安全保障条約の改正に反対する左派の野党や学生のスローガンだった。日本の安全を守るために、与党・自民党は「アメリカと同盟を結んで、その“核の傘”にも入れてもらわなければならない」と一貫して主張し、安保条約の改正・更新を進めていた。左派はそれに猛反対し、アンポハンタイを叫んでいたのだ。

 では、アメリカ軍の助けを借りないでどうやって祖国を守るのか。常識的な答えは、独自防衛能力を高めることだろうが、安保反対派は、「非武装中立」なる空想、妄想イデオロギーを掲げていた。さすがに、国民の多くはそんなイデオロギーを相手にしなかった。

 都市では、大学生や市民団体、野党の党員などによるデモが吹き荒れ、死者まで出たが、自民党政権は、結局、押し切った。それがなかったら、日本はこうして“平和ぼけ”のまま生きてこられたかどうか分らない。

 いま、それとちょっと似たようなことが起きている。アンポホウセイという言葉を、マスメディアが連日のように口にしている。

 自民・公明両党は「安全保障法制(安保法制)整備の具体的方向性」について合意した。政府は「自衛隊法」「周辺事態法」「PKO協力法」「武力攻撃事態法」「船舶検査活動法」の改正案、および他国軍への後方支援のために、自衛隊を随時海外派遣できるようにする新たな「恒久法」の法案を作成し、5月中旬に国会に提出する方針だ。

 アンポハンタイ当時とちがうのは、都市デモが大々的に行われ政権が倒れるかもしれない、というような事態とはほど遠いことだろう。いちおう言論の自由のある国だから、何に反対しようとかまわないが、アンポホウセイという言葉の陰で、画期的な動きが着々とすすめられていることを、大新聞、テレビなどのマスメディアは伝えていない。というか、知りもしなかったようなのだ。

 その水面下での動きを、週刊文春の2015年4月2日号は「極秘レポート」としてスクープした。2014年末、自衛隊の朝霞駐屯地など複数の施設を使い、万一、中国の人民解放軍と戦う場合、日米軍事同盟としてどんな作戦行動をとるべきか、机上合同演習を行ったという。

 日米のあいだで机上演習が行われるのは、以前からよくあることだ。これまでの作戦では、敵軍がやって来たとき、自衛隊は日本本土に対する敵の着上陸侵攻を防ぐだけで、後はアメリカ軍による攻撃で敵を蹴散らしてもらう、というものだった。文春はこう書く。「主権国家とは到底思えない合同演習が、長らく続いていたのである。今更ながら、ではあるが、日米同盟とはアメリカ軍の力に依存することに他ならなかった」

 だが、今回はちがった。1年がかりで綿密に準備され、アメリカ陸軍と陸上自衛隊の幹部合わせて十数名が一堂に会して演習を行った。「天文学的な量のデータが集められ、2週間以上にわたって中国の動きにあらゆるシーンでどう対処すべきか、演習が行われた」 その最大のポイントは、自衛隊が主体となって戦いアメリカ軍は支援を行う、という形がとられたことだった。こうした、いわば戦後日米間の伝統からの主客逆転、180度の転換は、もちろん初めての試みだったという。

 国土と国民の安全を守ることを最大の責務とする安倍政権のもとでこそ可能となった。「今そこにある危機」という言葉はたびたび使われるが、メディアがどれだけリアリティ、切迫感をもっているかはたぶんに怪しい。

 それは台頭著しい人民解放軍の動きをいかに抑止するかということに尽きる。安保法制の整備ももちろん重要だが、日本が日本人の手によって国を守る、という当たり前の考えがこれまでなかったのも事実だ。

 演習で想定されたシナリオは、“佐渡島奪回作戦”だった。日本海にある海底油田の独占を狙った人民解放軍特殊任務旅団の20個中隊が、佐渡島を占領、実効支配したという想定だった。

 日本は、法人救出と国民保護法によって約5万8000人の島民を避難誘導したうえで、島奪回作戦を実行する。防衛大臣は、防衛出動を命じ、陸海空自衛隊に統合任務部隊の編成を命令する。実際の動きは長崎県からはじまる。佐世保港で、巨大輸送艦「おおすみ」とヘリコプター母艦「ひゅうが」に、日本版海兵隊とも呼ばれる西部方面普通科連隊が、水陸両用任務部隊として編成される。この部隊が登場するのも、日米演習では初めてのことだった・・・。

 文春のスクープは、政府筋による意図的な情報リークによるものではないだろうか。目的は南西諸島や尖閣諸島を狙う中国をけん制するためだ。大新聞が大々的に報道すれば中国を刺激するが、かと言って、日本政府が手をこまねいていると思われると、中国は図に乗って本当に手を出すかもしれない。だから、週刊誌で報道させ「その気になるなよ」と。

 中国は、安倍政権を本当に手強いと思っているだろう。

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仏教で女性を救済した親鸞

 梅原猛先生の著作はほとんど読んできたが、2014年10月に刊行された『親鸞「四つの謎」を解く』(新潮社)は、5か月かかってやっと読み終えた。仕事とプライベートの本10冊くらいを同時進行で読むくせがあるので、時間がかかることもある。じっくり楽しみ、なるほどそうかと思いながら読破した。

 文化勲章の梅原猛先生と言えば、ぼくが大学に入った1972年に上梓された『隠された十字架』を読んだのが最初だった。法隆寺は聖徳太子の怨霊を封じ込めるために再建されたというその説は、大胆かつ衝撃的で、おなじ下宿の先輩が口角泡を飛ばして熱弁するのに刺激され、買って読んだ。柿本人麻呂の死をあつかった『水底の歌』(1973年)なども懐かしい。

 梅原先生に接近遭遇状態になったことが一度だけある。ニューデリー特派員をしていた1988年だったか、市内にひとつだけできた名ばかりの日本食レストラン『東京』で、隣の席にいたのが先生だった。名刺を持ってごあいさつしようと思ったが、誰かと熱心に話し込んでおられたので、遠慮した。会話の中身から、たぶん、インドの仏跡を訪ねて来られたらしかった。

 『親鸞「四つの謎」を解く』によると、日本仏教のスターとも言える親鸞は、90歳で没したという。梅原先生も、2015年3月20日、満90歳になられたそうだが、その健筆は衰えていない。「はなはだ」とか「まことに」とかがよく出て来るその文体は、以前の著作と変わらず、流れるようなリズムがある。超一流のひとというのは、文化庁長官を務めた故・河合隼雄先生などもそうだが、深い学識を読みやすい文章で書かれるところが、並みの知識人とはちがう。

 そして、梅原先生の場合は、高齢にもかかわらず、必ず自分でフィールド調査をして思索し、史料を読み込んでまとめられるのがすごい。コチコチの象牙の塔に閉じこもって研究をする凡夫の学者とちがい、定説を打ち破る独創性、破壊力がある。あまりにも大胆なので批判もあるが、その正否は歴史が証明するはずだ。

 先生は、若いころから親鸞の代表作『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』をくり返し読んだのだという。この本は、ぼくにとっても青春の日々がよみがえる懐かしいものだ。あまりにもむずかしそうで読んだことはないが、おなじ下宿には東本願寺が設立した「学寮」を起源とする大谷大学の学生が何人かいて、部屋へ遊びに行くと、本棚には必ずこの本があった。彼らはたいてい真宗のお寺の息子で、『教行信証』は必読書となっていた。でも、梅原先生でさえ「むずかしい」と書いているくらいだから、学生の手におえる書物ではなかったかもしれない。

 『親鸞「四つの謎」を解く』には、なぜ親鸞が、日本の僧侶としては初めて公に妻をめとったかという謎があつかわれている。「そもそも釈迦が始めた仏教では、出家者は妻を娶ることはもちろん、女性に触れることを固く禁じられていた」「そこには深い女人差別の存在がある。女人差別は仏教の伝統であるとさえいえよう」

 先生はこう指摘するが、その謎について「現在のほとんどの親鸞研究者はまったく口をつぐんでしまう」そうだ。「これは仏教の根本問題ではなかろうか」とし、親鸞の教えは「女性差別を否定した新しい女人救済の仏教」だとする。

 親鸞は法然に入門していたころ比叡山にいたが、京の里にある六角堂へ百日参籠し、救世観音から夢のお告げを受けたという。

 「宿命によって、お前が女性を犯すというのであれば、私が美しい女の身となって犯されてやろう。そして一生の間、お前の人生を荘厳に満たし、臨終に際しては極楽へと導こう」。さらに観音は「これは私の誓願であり、このことをすべての衆生に説いて聞かせよ」と命じられた。

 親鸞に結婚を勧めたのは、時の権力者で摂関家当主の九条兼実と親鸞の師である法然だったとの推理を、梅原氏は開陳する。しかも、その妻は兼実の娘・玉日だったとする。

 親鸞の言葉でもっとも有名なのは、その言行を弟子の唯円が書き残したとされる『歎異抄』にあるこの言葉だ。

 「善人なほもって往生をとぐ。いわんや悪人をや」

 善人でさえ極楽往生できるのだから、ましてや悪人だって極楽へ行ける。「実はこの悪人救済の教えである『悪人正機説』は、親鸞の前にすでに師・法然が語った言葉として、今日では認識されつつある」のだそうだ。

 梅原氏が問題にするのは、弟子の唯円への奇妙な問いかけのほうだ。

 「お前は私のいうことを信じるか、信じるならば、人を千人殺してみよ。悪人が救われるというなら、千人殺したら救われるが、どうだ」

 その問いかけへの答えはここでは省く。梅原氏は「このような親鸞の言葉には、明らかに親鸞自身の異常なまでの罪悪感が反映しているように思う」とし、徹底解明している。

 『隠された十字架』のあとがきには、出雲大社の謎についてほんの少し触れられている。出雲大社こそ、大国主命の怨霊を封じ込めた宮であり、再建法隆寺に通じる。先生の体力が残っているなら、その謎についても徹底研究して書き残して欲しい。

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