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2015年7月

出雲の<なでしこ>たちが走る

 東北地方へ2年前の夏に行ったとき、直木賞作家の高橋克彦氏にロングインタヴューした。出雲へUターンする直前のことだ。古代出雲と東北の関係について詳しく聞いたのだが、話は自然、東日本大震災のことになった。高橋氏は、岩手県盛岡市の在住で、激しく揺れたそうだが、自宅兼オフィスは内陸にあり津波の被害はなく、無事だったという。

 「震災の報道で、どうしてもよく理解出来なかったのが、東北人とか東北人魂という言葉です」。ぼくはそう話し、わが郷里・島根のある中国地方では、「中国人」というくくりとか「中国人魂」という言葉はないことを指摘した。

 もちろん、半分ジョークで、氏も笑いながら「でも、九州人という言葉はありますよね」と言った。

 高橋氏の著作には、蝦夷(えみし)をテーマにしたものがいくつもある。蝦夷は古代出雲とつながりがあるらしいという話で盛り上がった。蝦夷は東北人というくくりのルーツにも深く関係しているようだ。

 出雲へ42年ぶりにUターンし、地元メディアで「中国女子サッカーリーグ」などという表現がふつうに使われているのに、改めて驚いた。故郷を長年離れていたから、他地方のひとならお隣の国を連想するにちがいない「中国」というくくりが、ある意味で新鮮だった。信州出身のかみさんも「中国リーグってどこのことかと思うわよね」と言っていた。

 その中国女子サッカーリーグに所属し出雲市を本拠とするチームがあることを知った。ディオッサ出雲F.C.という。なでしこJAPANの宮間あや主将率いる岡山湯郷BelleのU18(18歳以下チーム)と対戦するというので、かみさんと観戦に行った。

 会場は、前に岡山湯郷Belleと日テレ・ベレーザの試合を観に行ったときとおなじ、出雲市の浜山公園陸上競技場だ。ディオッサ出雲F.C.はまだお金を取って観戦してもらうレベルではないから、入場無料で好きな席に座ることができた。

 午後1時のキックオフの前、どこのチームかはわからないが子どもたちがゲームをしていた。それを観ながら、競技場近くのスーパーで買ってきた弁当を食べた。これが楽しみのひとつだ。日差しは強かったが、メインスタンドには屋根があり風も吹いていたから、観戦にはまずまずの天気だった。

 ディオッサ出雲F.C.と岡山湯郷BelleU18がいよいよ入場すると、エスコートキッズがついているのが本格的だった。キッズ22人全員がディオッサのオレンジのユニフォームを着ている。

 会場入りするときにもらった資料によると、ディオッサの選手は、社会人17人、高校生1人、中学生7人、小学生36人だそうだ。エスコートキッズはその小学生たちなのだろう。

 ディオッサはスペイン語で女神を意味するという。神々の里・出雲の女神というわけで、美しさと優しさ、強さを兼ね備えたチーム作りをめざしている。創立は1991年と意外に古い。中国女子サッカーリーグには12チームが所属し、ディオッサはこの試合前の時点で4勝2敗と3位につけていた。岡山は2勝3敗1分で6位だった。

 キックオフとなり、ゲームの流れをみていると、出雲は全員社会人とみられ、18歳以下の岡山のほうが体が軽やかでスピードもある。開始数分で、ディフェンスの一瞬の隙を突かれヘッディングで先制された。

 スタンドでは、お兄さんが太鼓を叩き大声で声援を送っている。劇団ひとりならぬまさに「応援団ひとり」で、それに合わせて観客がかけ声や手拍子をする。もっと静かな応援風景かと思っていたが、意外に盛り上がっている。これも、なでしこJAPANが世界で活躍しているおかげだろう。

 男子のW杯南アフリカ大会で有名になったブブゼラのような音が、あちこちから聞こえる。その正体は、ハーフタイムにトイレへ行ったときにわかった。通路で声をかけられ誰かと思ったら、同い年のいとこが竹で作った笛を差し出し、吹き方を教えてくれた。出雲市多伎町にある体験学習型施設「風の子楽習館」が出張してきていた。通路に長机を出して笛を並べ、子どもたちにプレゼントしているらしい。

 試合は岡山につづけて3点を取られ、出雲のFW伊藤朱里選手(宮城県出身)が一矢を報いたがおよばなかった。

 女子W杯カナダ大会で準優勝したなでしこJAPANの宮間主将は、会見で女子サッカーを「ブームではなく文化にしたい」と語っていた。2011年のW杯優勝後、日本のサッカー女子は増えつづけてはいる。でもまだ4万8000人で、アメリカの167万人、ドイツの95万人とはケタがちがう。

 ディオッサ出雲のトップチーム選手は、会社員をはじめ主婦、公務員、学生など多種多様だそうだ。2021年までに、なでしこリーグ入りすることを目指す。そのためには、中国リーグで優勝し、他地区優勝チームとのリーグ戦を突破し、なでしこリーグの下部チャレンジリーグを勝ち抜かなければならない。

 2014年5月には、運営母体のNPO法人ディオッサスポーツクラブが設立された。目標ははるか遠いが、出雲の<なでしこ>たちよ走れ。

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GHQマインド・コントロールと集団ヒステリー

 俳優のつるの剛士さん(40)が安全保障関連法案についてツイートした。「『反対反対』ばかりで『賛成』の意見や声も聞きたいなぁって報道やニュース観ていていつも思う。賛成派だって反対派だって平和への想い、戦争反対の想いは同じ」。すると、法案反対派から「反対以外の情報が欲しいということは賛成したいという意味なんですよ」などと猛バッシングにさらされているという。J-CASTニュースが2015年7月17日に伝えた。

 安保法案が衆議院を通過した前後から、いま日本では、戦後何回目かの集団ヒステリーがみられる。1960年と70年の日米安保条約改定、1992年のPKO協力法採択のときにもそうだった。

 集団ヒステリーはどこの国でも起こりうる。日本の特徴は「戦争の過去」がらみにかぎられることだ。なぜ、こうした現象が起きるのか、現代史をふり返ってみる。

 左翼の学者やメディアは「大戦は軍部の暴走によるものだ」とする。しかし、メディア史研究者らによれば、日本放送協会(NHK)や毎日新聞、朝日新聞といった当時の有力メディアが中心となって、国民を軍国主義へと煽りに煽ったのが「先」だった。

 1945年の敗戦後、マッカーサー率いるGHQが日本を占領し間接統治した。東京裁判では、A級戦犯だけでなく日本という国そのものが戦犯国として国際社会から糾弾された。

 朝日新聞をはじめ多くのメディアは、<右から左へ転向>し自称・平和主義者になって、戦争の過去を糾弾する側に回った。戦時中はほぼすべての日本人が軍国主義者だったが、知識人や一般国民の多くも、自らの過去については口をぬぐい、メディアにつづいて左傾化した。つまり、自己保身であり自己欺瞞だった。

 日本人が自発的に転向したようにみえるものの、じつはGHQの綿密な計画が裏にあった。それは”War Guilt Information Program”(WGIP、戦争罪情報計画)という。計画文書を日本人で最初に入手した評論家の江藤淳は、そのタイトルを「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」と大胆に意訳している。

 GHQの戦略は巧妙で、まず敗戦の年末、日本のすべての新聞に『太平洋戦争史』という大型連載を命じ、さらに学校教育の現場でも連載の内容を徹底させた。連載では軍国主義者と国民が区別して述べられ、メディアについてはまったく触れられていない。GHQは、占領統治を成功させるため、日本の指導者や一部の軍人だけを軍国主義者と呼びスケープゴートにした。一般国民は軍国主義の「被害者」のように語られた。それは国民とメディアの自己保身にとっては、この上なく好都合だった。

 GHQは、日本の非軍事化と民主化を占領目的としていた。GHQには左翼勢力がいて、日教組の設立にも水面下でかかわり、いわゆる平和教育を徹底させていまにいたる。2大敗戦国のもうひとつであるドイツにさえ、平和教育という言葉も概念もない。日本の平和教育では「戦争は絶対悪」と教えられるが、そういう考え方は世界では極めてまれだ。

 戦争のない日々を願うのは世界共通でも、人類の歴史は戦争の歴史でもあり、戦争を仕掛けられる可能性はいつでもある。だから、「立ち上がるべきときには、武器を手に立ち上がらなければならない」と教えるのが一般的だ。永世中立国スイスがその典型だ。

 日本は列島を海に囲まれているため、何となく外敵はやって来ないという心理的な錯覚が生まれやすい。ぼく自身、海外に住み取材をしているとき「国際社会は弱肉強食のサバンナだな」と痛感したが、日本に帰って何年か経つと“平和ぼけ”しそうになる。

 日本国憲法もGHQが草案を書いて強引に制定させたもので、その9条にある戦争放棄と戦力不保持の規定が、“平和ぼけ”に拍車をかけた。

 連載『太平洋戦争史』、平和教育、憲法などは、GHQが極めて意図的に行った日本人に対するマインド・コントロールの手段だった。そうしたマインド・コントロールの“成果”が歪んだ形で表面化するのが、日本の集団ヒステリーだ。その原因は、軍事・戦争アレルギーにつきる。

 かつて戦争を煽った朝日新聞など左翼転向メディアが、安保法案にヒステリックに反対するのは、偶然ではない。自己保身と自己欺瞞が心理の根底にある。

 今回の安保法案審議で、安倍首相は国民のアレルギー反応を怖れ、自衛隊員のリスク増を率直に認めることを避けた。民主党の岡田代表も、東・南シナ海情勢への見解を誤魔化して明言しなかった。いずれも、国民に対し不誠実だ。

 安保法案を国会で審議する際、本来ならば、中国や北朝鮮などわが国をとりまく安保環境がどれだけ悪化しているかで共通認識を固め、そのうえで、政府与党だけでなく野党各党も対案を提示して論戦すべきところだ。

 しかし、現実には、合憲か違憲かなどという空理空論に時間を費やし、「ではどうやって日本の安全を守ればいいのか」という本質的な議論はついに行われない。もともと9条は論ずるに値しないもので、法案が違憲と言うならまず憲法改正を主張すべきだ。

 いま、日本人は、GHQによるマインド・コントロールを歴史的背景として、メディアに煽られ、冷静な判断ができない心理状況に陥っている。しかし、時間が経てば「あのとき、安保法制が出来ていて本当に良かった」と思い知る日が、必ず来るだろう。日米安保条約のない日本の平和はありえず、自衛隊のPKO参加にもう誰も反対しないように。

 【詳しくは、アマゾン電子書籍Kindle版『朝日追撃』(木佐芳男著、2015年5月発売)で。朝日問題を中心に戦後日本の病理を心理学、精神分析などによって分析した。その際、ドイツをはじめとするヨーロッパ取材で手にした知識を“メス”として振るった】

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「負の遺産」をあえて残す島――ハンセン病

 新聞記者になって初めて海外出張したのがフィリピンだった。日本テレビのいわゆる『24時間テレビ』のクルーと同行した。

 テレビクルーの主な目的は、チャリティーで集まった募金の一部を使って医薬品を買い、それをフィリピンの人びとに届けるところを撮影することだった。

 コンテナ1台に詰められた大量の医薬品は、ぼくたちが空路マニラに到着するより早くマニラ港の埠頭に届いていた。フィリピン・キリスト教会のトップである枢機卿に埠頭まで出向いてもらい、そこで24時間テレビの番組を代表してディレクターが、野次馬の見守るなか、目録を手渡すセレモニーをした。

 ぼくたちの次の目的はハンセン病の島クリオンへ行くことだった。あとでわかったのだが、この島の名前はマニラのジャーナリストたちもまったく知らなかった。ハンセン病は、日本ではかつてらい病と呼ばれ、不治の怖ろしい病として世間から遠ざけられ、患者たちは非人間的な暮らしを強いられた。この呼称は差別を助長するとして廃止された。

 島は公共交通機関で行けるようなところではなく、ぼくたち一行は、マニラの国内線空港で小さな飛行機をチャーターし、それで滑走路のあるクリオン島近くの島まで飛んだ。わずか約10人乗りで、簡易ソファーのような座席が機体の両側に設置され、向かい合って座るのだった。まるで、日本の田舎にかつてあった乗り合いバスみたいだった。

 その日、太平洋上は風が強く、マイクロバス並みの機体は文字通り木の葉のように揺れた。ぼくたちが現地ガイドとして雇ったロドリゴという青年は、出発するまでは片言の日本語でだじゃれや冗談を言って、いかにも陽気なフィリピン人だった。でも、飛行機が洋上にさしかかり乱気流に翻弄されると、おしゃべりは消え顔は真っ青になった。いまにも戻しそうなので、ぼくは落ち着かせようと背中をさすり、英語で励ましつづけた。

 テレビクルーもおしゃべりをする余裕はなく、ひたすら“木の葉地獄”が終わることを祈っていた。

 40分余りも飛んで、やっと島の山頂に滑走路が見えると、みんな歓声をあげた。しかし、この滑走路がまたひどかった。舗装などしてあるわけもなく、石ころがごろごろしている昭和初期の田舎の道路みたいだった。

 機体が分解するんじゃないかと恐くなるほど飛びはねながら、それでも何とか着陸に成功した。そんなことには慣れているのか、パイロットは平気な顔をしていた。そこからジープ型車に乗り換えジャングルのなかを港へ向い、クリオン島へ海路いくのが最短コースだった。

 その孤島は、知るひともいないハンセン病の島だった。患者と医療関係者とわずかの島民しか住んでいないという。船着き場では院長と看護師が待ちかねていた。「遠い日本からようこそ!」。院長は最大級の笑顔で迎えてくれた。

 島には、生活物資や郵便物を届ける船がたまに来るだけで、日本人の訪問は初めてだという。

 院長が「クリオンの“ヒルトンホテル”です」とジョークで言う宿舎に案された。部屋はいちおう個室だが、バスタブはもちろんシャワーさえない。ぼくがひと目見て戸惑っていると、院長は「そのバケツに入っている水で髪や体を洗ってください」と言う。常夏の島だから冷たい水をかぶるのはむしろ心地よさそうだったが、これが島の文化レベルかと暗澹たる気分になった。

 スーツケースを部屋に置き、ぼくたちはすぐにハンセン病患者療養棟に案内された。医務室へ通されたが、医薬品を保存する棚はぼろぼろの木製で、昭和の家庭にあった水屋ほどの大きさしかない。日本の学校の保健室がよっぽど充実しているな、と思った。

 病室に一歩入ると、胸の鼓動が抑えられなかった。患者さんたちは鼻や顔のあちこちが溶けている。握手しようとした相手の手の指もすべて溶けていて、巨大な綿棒の先みたいに丸かった。

 感染力は非常に低く、平均的日本人などふつうの体力があるひとなら、患者と接触しても病気が移ることはないとされる。それでも、最初に握手するときはドキドキした。

 クリオン島にハンセン病療養所が開設されたのは1906年という。1934年、患者数は6500人を数え、当時のハンセン病療養所で世界最大だった。

 日本の厚生労働省は、2015年7月、国内各地にある国立ハンセン病療養所のうち、岡山県の長島愛生園「収容所」など6件を、差別と偏見を生んだ「負の遺産」として後世に伝えるため、保存する方向で補修工事を行うことを決めた。

 愛生園は1930年に開設され、入所者らはまず海辺の収容所に入れられ、クレゾールを混ぜた消毒風呂に入れられた。逃亡を防ぐため所持金は園内だけの「通貨」に替えられたそうだ。鉄筋コンクリートの収容所は当時のまま残っているという。

 クリオン島へ行かなければ、ぼくも何の関心も持たないテーマだったかもしれない。

 あの島は1992年、地方自治体になったそうだ。そして、2006年、旧ハンセン病療養所研究棟が資料館として公開された。ぼくが取材したかぎり、あれは療養所でも研究棟でもなく、ただ、患者を隔離するための施設にしか思えなかったが。

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真夏の夜の夢――爆買い

 「店が荒れるから、本当は歓迎できないんだけどね」。世界的腕時計メーカーの役員をしている友人がこう語った。中国人観光客によるいわゆる爆買いのことだ。2015年の上半期に訪日した中国人旅行客は、昨年同期の2倍以上に増えた。

 時計店に団体で押しかけて、陳列棚の「端から端まで」買い込んだりする光景がふつうになっているという。その売り上げは会社全体の約13%を占めるそうだが、中国経済バブルによる一時的なものであることは、冷静な関係者なら気づいている。

 「本来は、お客様に丁寧に応対し、きちんと商品説明をしたうえで買ってもらう。そのプロセスをすっ飛ばして端から売れていくので、店員のためにもならない」。そういう状況を「店が荒れる」と呼ぶのだそうだ。

 東京など大都市だけのことではない。ぼくがいま住んでいる山陰でも、その恩恵にあずかっている。中国人約4600人を乗せた大型客船が、7月2日、島根、鳥取両県が管理する境港に寄港した。上陸した中国人らはグループに別れて爆買いツアーにくり出した。松江市のあるショッピングセンターでは、島根大学の中国人留学生約50人を臨時の通訳として雇い、“イナゴの大群”に備えた。

 医薬品と化粧品の売り上げは、わずか2時間でふつうの日の10倍にのぼったという。山陰の地元紙などをみるかぎり、店側は爆買いについて「地域活性化につながる。今後も期待したい」とし、境港管理組合でも「北東アジアを中心に船旅の人気が高まっている。万全の準備で臨みたい」と歓迎している。

 最近では家電や化粧品などの爆買いだけでなく、札びらをはたいて不動産を購入する中国人も増えているようだ。東京では新宿、六本木、赤坂など一等地のほか、2020年の東京オリンピックに向け価格上昇が予想される豊洲などの不動産を先買いするケースが目立つという。

 こうした中国人はバブルに浮かれているのだが、本人はたいていそれに気づいていない。過去1年近くつづいてきた中国の株ブームも終局を迎えつつある。これまで、株の売買などほとんど経験のなかった素人の個人投資家が、銀行からお金を借りてまで株を買ってきた。中国経済の右肩上がりがつづくという幻想があり、銀行はどんどん貸し出し当局もそれを推奨していた。

 だが、幻想は幻想だ。世界の金融ニュース、マーケット情報などを提供する『ブルームバーグ』は、最近、衝撃的な事実を伝えた。「中国株式相場は、3週間で時価総額3兆2000億ドル(約392兆円)を失った。これは本土の取引所で1分間に約100万ドル(約1億2200万円)ずつ吹き飛んだ計算になる」

 中国国営メディアは、中国株の急激な下げの主犯格として、「空売り」と「海外投資家」などをあげているそうだが、それは巨額の株取引の全体からみればほとんど無視できるほどの規模でしかない、とブルームバーグは指摘している。

 別のメディアによると、北京にある長江商学院の副院長は「中国当局は相場急落に歯止めをかけようとしているが、方法が明らかにまちがっている。中国株式相場はすでに世界でもっとも操作された状態にあり、投資家に売りをやめさせることはできない」と述べた。

 読売新聞によれば、中国当局は政府系金融機関に株や上場投資信託(ETF)などを買わせ、株価を下支えしているらしい。経済が崩壊すれば、共産党独裁の終焉にもつながる。

 機関投資家が利益を確定させるため「売り」に転じた6月中旬以降、個人投資家に「もう株は下がりつづける」という悲観論が広がり、売りが売りを呼ぶようになった。ネット上では、巨額の損失を出した投資家が自殺したなどとする噂も飛び交い、混乱が広がったという。7月8日には、約半数の銘柄が売買停止となる異常事態となった。

 日本のバブル経済のことを思い出す。たしかに株価は上昇する一方で、ある同僚に「みんなが踊っているときは踊りゃな損だよ」と誘われた。同僚たちは、株だけではなくマンションなどにも投資していた。当時、バブルという言葉はまだなかったが、お金がお金を生み出す経済がまともなはずはない、とぼくは踊らなかった。

 やがてバブルがはじけ同僚たちが真っ青になったころ、ぼくはこっそり勝利宣言をした。全然別のやり方で資産を増やすことに成功していたのだ。他人がやらないことをするのがぼくの主義だ。経済でも政治でもバブルはあると思う。問題は、渦中にあるときそれがバブルだとほとんどのひとが気づけないことだ。

 ノーベル経済学賞受賞者でアベノミクスに大きな影響を与え世界中の市場関係者から一目置かれるポール・クルーグマン氏は、5月末に発売された週刊現代6月6日号ですでにこう警告していた。

 「今、こうして話しているあいだにも、バブルが崩壊しつつあります。中国経済のバブルのことです」「日本のバブル崩壊と比べものにならないくらい深刻な事態が起こる可能性が高いのです」「とりわけ日本に与える影響は途方もないものになる」

 あるレポートによれば、中国バブルがはじけると日本のバブル崩壊の25倍のお金が吹っ飛ぶとされる。ギリシャ危機の比ではない。

 爆買いで喜んでいたことなど、すぐ昔話になるかもしれない。

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古代出雲王朝で売り出す時

 「“神話の国出雲” というキャッチフレーズは、もう古い」。高校時代の友人と飲んでいるときそんな話題を振ると、友人も「まったくその通りだと思う」と応じた。ぼくたちが考えている新しい出雲のキャッチフレーズは一致した。「古代出雲王朝の地」というものだ。

 古事記神代編の3割は出雲を舞台とする神話だが、長いあいだそれは実態の伴うものとは理解されなかった。だが、過去30年間に出雲で考古学上の大発見が相次ぎ、「やはり古代出雲王朝は実在したのではないか」という見方が専門家のあいだでも広がってきた。

 古代研究は、出雲や大和など各地域でとどまっている時代ではなくなり、島根、奈良、三重、和歌山、宮崎の5県は、2013年、古代の歴史文化に関する優れた書籍を表彰する「古代歴史文化賞」を創設した。その第2回を記念するシンポジウムが、2015年春、松江市で開かれた。

 その際のパネリストらによる寄稿が、山陰中央新報に連載された。その中から、古代出雲にスポットを当てて紹介してみよう。

 国立歴史民俗博物館の松木武彦教授は、興味深い「古代の一大宗教改革」について述べている。そういう話を聞くのは初めてだ。弥生時代には共同体社会のための「青銅器信仰」があった。それにつづく古墳時代には「王墓信仰」へとシフトした。その宗教改革をもっとも先鋭的にリードした勢力が出雲だったのではないか、と松木教授は推論している。

 わが家から南へ車で15分ほど行った出雲市の荒神谷遺跡では、銅剣358本が出土した。その南東に当たる雲南市の加茂岩倉遺跡では銅鐸39口が埋納されているのが発見された。これらは「古い共同体宗教に用いられていた青銅器を廃した痕跡だろう」と松木教授はみる。出土以来、誰が何のために埋めたのか、と議論されてきた。その理由を宗教改革に求めるのは明解で斬新な説だ。

 それらの埋納時期と前後して、出雲市では出雲文化圏独特の四隅突出型墳丘墓である西谷3号墓のような王墓とも言える規模の古墳が作られた。西谷3号墓の隣接地には出雲弥生の森博物館があり、その展示をみると、男性と女性そして子どもが埋葬されていたという。専門家らは、この男女は夫婦ではないと考えているそうだ。では、どんな地位の人物らがこれほど大きな墳墓にまつられたのかという疑問を、ぼくはかねてから抱いている。

 松木教授は、王墓とも言える規模にまで発達した墓は「新宗教の確立」とみる。岡山県倉敷市には、ほぼ同時代の、やはり王墓とも言える楯築墳丘墓がある。その時期は、近年の研究から、従来の想定よりも古く紀元後2世紀の中ごろ以前にさかのぼる可能性が高いという。

 「王墓信仰は、王を頂く階層社会のための宗教」と松木教授は考える。つまり、地域のまとまりに過ぎなかったクニから、王を頂点とする国家へと移っていったことを反映しているのだろう。

 中国の歴史書『後漢書』には、「倭国王帥升(すいしょう)等が生口(奴隷)百六十人を献上して拝謁を願ってきた」という記述があるそうだ。「有力者たちが帥升を王にして連合し、中国王朝の権威をバックに列島の覇権を握ろうとしていた様子がうかがえる」と松本教授は指摘する。その倭国王の墓として有力なのが、西谷3号と楯築だという。

 島根県古代文化センター長の丹羽野裕氏も、「2世紀のある時期、出雲が倭国王を名乗り中国から認められた時代があった」とする。

 さらに興味深いのが邪馬台国との関係だ。東海大学の北條芳隆教授は、『魏志倭人伝』にある邪馬台国までの里程は日本海ルートであるとし、邪馬台国連合のなかで重要な位置を占める投馬国は出雲だとする。

 北條教授は、政治史上の画期を記念する目的で年号を刻んだ鏡「紀年銘鏡」が出土した場所が魏との外交を裏づける根拠になる、としこのルートを考えた。北部九州から「水行二十日」で出雲=投馬国に至り、さらに「水行十日」で丹後半島へ。さらに「陸行一月」で邪馬台国に至った。

 瀬戸内海ルートを避けたのは、邪馬台国と敵対していたのが狗奴国であり、それが吉備だったからとする。この時代、吉備は非常に力を持った勢力の拠点だった。

 つまり、魏の使者は、北部九州から海路で出雲を経由し畿内の邪馬台国に至ったとする説だ。投馬国は倭人伝によれば、五万余戸という大国であり、さらに大きい邪馬台国は七万余戸だった。松木教授、淑徳大学の森田喜久男教授も投馬国=出雲説を支持した。

 邪馬台国では、女王卑弥呼に仕え政(まつりごと)を司っていた男性がいた、と魏志倭人伝にある。そこで思い出されるのが、出雲市の西谷3号墓にまつられていた女性と男性だ。専門家の見立て通りこれが夫婦ではないとすれば、まさに邪馬台国の卑弥呼と政治を担当する男性のような関係ではなかったか、と想像される。

 出雲と邪馬台国はこのようにつながり、邪馬台国はそのまま大和政権を経て古代日本国家へ直結するとされる。

 くだんの友人は、出雲でイベント企画の仕事をしている。観光面でも、そろそろ「古代出雲王朝」を前面に打ち出して勝負する時だろう。

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