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「負の遺産」をあえて残す島――ハンセン病

 新聞記者になって初めて海外出張したのがフィリピンだった。日本テレビのいわゆる『24時間テレビ』のクルーと同行した。

 テレビクルーの主な目的は、チャリティーで集まった募金の一部を使って医薬品を買い、それをフィリピンの人びとに届けるところを撮影することだった。

 コンテナ1台に詰められた大量の医薬品は、ぼくたちが空路マニラに到着するより早くマニラ港の埠頭に届いていた。フィリピン・キリスト教会のトップである枢機卿に埠頭まで出向いてもらい、そこで24時間テレビの番組を代表してディレクターが、野次馬の見守るなか、目録を手渡すセレモニーをした。

 ぼくたちの次の目的はハンセン病の島クリオンへ行くことだった。あとでわかったのだが、この島の名前はマニラのジャーナリストたちもまったく知らなかった。ハンセン病は、日本ではかつてらい病と呼ばれ、不治の怖ろしい病として世間から遠ざけられ、患者たちは非人間的な暮らしを強いられた。この呼称は差別を助長するとして廃止された。

 島は公共交通機関で行けるようなところではなく、ぼくたち一行は、マニラの国内線空港で小さな飛行機をチャーターし、それで滑走路のあるクリオン島近くの島まで飛んだ。わずか約10人乗りで、簡易ソファーのような座席が機体の両側に設置され、向かい合って座るのだった。まるで、日本の田舎にかつてあった乗り合いバスみたいだった。

 その日、太平洋上は風が強く、マイクロバス並みの機体は文字通り木の葉のように揺れた。ぼくたちが現地ガイドとして雇ったロドリゴという青年は、出発するまでは片言の日本語でだじゃれや冗談を言って、いかにも陽気なフィリピン人だった。でも、飛行機が洋上にさしかかり乱気流に翻弄されると、おしゃべりは消え顔は真っ青になった。いまにも戻しそうなので、ぼくは落ち着かせようと背中をさすり、英語で励ましつづけた。

 テレビクルーもおしゃべりをする余裕はなく、ひたすら“木の葉地獄”が終わることを祈っていた。

 40分余りも飛んで、やっと島の山頂に滑走路が見えると、みんな歓声をあげた。しかし、この滑走路がまたひどかった。舗装などしてあるわけもなく、石ころがごろごろしている昭和初期の田舎の道路みたいだった。

 機体が分解するんじゃないかと恐くなるほど飛びはねながら、それでも何とか着陸に成功した。そんなことには慣れているのか、パイロットは平気な顔をしていた。そこからジープ型車に乗り換えジャングルのなかを港へ向い、クリオン島へ海路いくのが最短コースだった。

 その孤島は、知るひともいないハンセン病の島だった。患者と医療関係者とわずかの島民しか住んでいないという。船着き場では院長と看護師が待ちかねていた。「遠い日本からようこそ!」。院長は最大級の笑顔で迎えてくれた。

 島には、生活物資や郵便物を届ける船がたまに来るだけで、日本人の訪問は初めてだという。

 院長が「クリオンの“ヒルトンホテル”です」とジョークで言う宿舎に案された。部屋はいちおう個室だが、バスタブはもちろんシャワーさえない。ぼくがひと目見て戸惑っていると、院長は「そのバケツに入っている水で髪や体を洗ってください」と言う。常夏の島だから冷たい水をかぶるのはむしろ心地よさそうだったが、これが島の文化レベルかと暗澹たる気分になった。

 スーツケースを部屋に置き、ぼくたちはすぐにハンセン病患者療養棟に案内された。医務室へ通されたが、医薬品を保存する棚はぼろぼろの木製で、昭和の家庭にあった水屋ほどの大きさしかない。日本の学校の保健室がよっぽど充実しているな、と思った。

 病室に一歩入ると、胸の鼓動が抑えられなかった。患者さんたちは鼻や顔のあちこちが溶けている。握手しようとした相手の手の指もすべて溶けていて、巨大な綿棒の先みたいに丸かった。

 感染力は非常に低く、平均的日本人などふつうの体力があるひとなら、患者と接触しても病気が移ることはないとされる。それでも、最初に握手するときはドキドキした。

 クリオン島にハンセン病療養所が開設されたのは1906年という。1934年、患者数は6500人を数え、当時のハンセン病療養所で世界最大だった。

 日本の厚生労働省は、2015年7月、国内各地にある国立ハンセン病療養所のうち、岡山県の長島愛生園「収容所」など6件を、差別と偏見を生んだ「負の遺産」として後世に伝えるため、保存する方向で補修工事を行うことを決めた。

 愛生園は1930年に開設され、入所者らはまず海辺の収容所に入れられ、クレゾールを混ぜた消毒風呂に入れられた。逃亡を防ぐため所持金は園内だけの「通貨」に替えられたそうだ。鉄筋コンクリートの収容所は当時のまま残っているという。

 クリオン島へ行かなければ、ぼくも何の関心も持たないテーマだったかもしれない。

 あの島は1992年、地方自治体になったそうだ。そして、2006年、旧ハンセン病療養所研究棟が資料館として公開された。ぼくが取材したかぎり、あれは療養所でも研究棟でもなく、ただ、患者を隔離するための施設にしか思えなかったが。

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