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奈良・大和の地でみる出雲の存在感

 大和(天孫)族は、出雲族を撃ち破り、大国主命に「国譲り」をさせて大和王朝を打ち立てた。その神話というか、いまの天皇家を戴く国の成り立ちの話は、あまりにも有名だ。

 では、いまの島根県東部の出雲地方を大和族が攻め、いまの奈良県辺りを大和朝廷の本拠地としたということでいいのだろうか。だが、その前、つまりのちの神武天皇が、九州から東征し大和の地を攻めるころの大和はどうだったか、という疑問が残る。

 秋晴れのある日、かみさんの運転する愛車で出雲を出発した。4時間半で奈良市の友人宅についた。意外に近い。そこで1泊し、翌朝、桜井市に向かった。ここには出雲という地名があると聞いていた。

 カーナビに、あるコンビニの桜井出雲店の電話番号を入力して走ると、1時間余りで着いた。大和川が静かに流れる山あいの地だ。かつて一帯は出雲村だったという。

 村の鎮守「十二柱神社」を探すと、民家のあいだに参道がありすぐにみつかった。十二柱の神々を祀っていることからこの名がついたそうだ。ある研究者によると、十二、十二山など十二を冠する神社は全国に600余りある。桜井市出雲の十二柱神社の祭神は、すぐに出雲系とわかる名前ではないが、その入り口にある狛犬の台座がとてもユニークだ。

 4人の相撲取りが狛犬を支えている。阿形、吽形ともそうだ。この地は、相撲の起源とされる野見宿禰(のみのすくね)が出雲の国からやって来て、埴輪作りをはじめた場所とされる。古代では天皇が崩御すると人びとが殉死するのが常だった。だが、野見宿禰は人身御供の代わりに埴輪を作らせて陵に埋めることを提案し、以後、それが実践されたと伝えられる。その古代からの伝統が再現されたのか、十二柱神社の近くには、こんなポスターが張ってあった。「出雲人形の里 野見宿禰とつながる土人形」

 この旧出雲村は、三輪山の東の麓に位置する。十二柱神社背後の山の尾根近くには出雲集落の故地とされるダンノダイラがあり、古代信仰の対象だった巨石の磐座(いわくら)があるのだそうだ。

 大和族が攻め込むよりずっと前から、この地に出雲族が暮らしていたのはまちがいない。神社の脇には「出雲農村集落センター」があるなど、いまも出雲族の末裔が住んでいる。島根の出雲からやって来た身には、ある種の感動を覚える場所だった。

 次に、三輪山の西南に位置する大神(おおみわ)神社を訪ねた。『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させるために「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀まつられることを望んだとされる。『日本書記』でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神は大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗られたとある。

 まさに、この三輪山一帯こそ遠い出雲の存在感を示す土地に他ならないのだ。大神神社のご神体は三輪山そのもので、本殿はない。神社の社殿が成立する以前の原初の神祀りの様をいまに伝えており、日本最古の神社とされる。そのご神体の聖域との境界に、国の重要文化財「三ツ鳥居」というユニークな形の鳥居があると聞いていた。拝殿の裏手にあるのだそうだが、ふつうに参拝してもそれをみることはできない。

 そこで、社務所「参集殿」に頼んで神主さんに案内してもらうことにした。靴を脱ぎ、社務所から廊下を通って拝殿に上がる。そこでまずかみさんとお祓いを受けてから、拝殿の横の回廊を行くと、三輪山の聖域と一線を画す朱に塗られた三ツ鳥居が立っていた。

 社務所の応接室で、神主さんは幸魂・奇魂の話をしてくれた。境内にある狭井(さい)神社には、大国主命の荒魂(あらみたま)が祀られているという。ぼくは、島根の出雲から来たことを話し、「こちらの大神神社と出雲大社は交流があるんですか?」と聞いてみた。大神神社の例祭には出雲大社の千家宮司が必ず来るし、出雲大社の例祭には大神神社の宮司が行くのだという。ふたつの由緒ある神社は、いまでも密接な関係にあるのだ。

 参拝する前に両手と口を清める手水舎の手前には、夫婦岩がある。これも磐座だが、思いのほか小さめで、ふたつの岩が寄り添うように並んでいる。夫婦和合・円満の霊験があるとされる。ぼくとかみさんは、お賽銭をあげ丁寧に拝んだ。

 さらに、狭井神社へ向う脇道沿いにはその名も磐座神社というのがあった。ここの磐座は石と呼んだほうがふさわしい小さなものだが、大国主命と共に国造りに励んだ小びとの神さま、少名彦名(すくなひこな)が祀られている。

 三ツ鳥居を案内してくれた神主さんによると、少名彦名が亡くなり途方に暮れていた大国主命に向い、日本海から光る玉がやって来て、「三輪山に汝の幸魂・奇魂を祀れば、それが国造りを助けてくれる」と伝えたという。その光る玉に向って両手を掲げる大国主命の銅像は、出雲大社の境内にある。光る玉はUFOではないかという人もいる。

 大神神社の近くには、卑弥呼の墓として有力視されている箸墓古墳がある。卑弥呼は出雲系だったとの説もある。古墳は想像以上に大きく、桜井市の観光看板には、ちゃっかり「卑弥呼の里」という先走った文字が躍っていた。

 全盛期の古代出雲王朝勢力は近畿・北陸・九州に広がり、その末裔は関東、東北にまで散って行ったらしい。古代出雲王朝を追うぼくの旅はつづく。

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