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2015年11月

人命には軽重があるらしい

 パリの同時多発テロは、国際社会を変な方向に向かわせているのではないか。ローマ教皇はテロを「第3次世界大戦の一部だ」と言い、英国のキャメロン首相は「イスラム国(IS)」をヒトラーやナチに例える発言をした。いくらなんでも、それは安易で極端な言い回しだろう。欧米のメディアは発生から2週間近く経ったいまも、洪水のように事件関連の報道をしている。どうやら、集団ヒステリー現象にみえる。

 2015年1月に、パリの風刺週刊紙「シャルリーエブド」が襲撃されたとき、フランス国民は集団ヒステリーをみせていたが、今回はそれが欧米社会にまで広がり、欧米が主流をなす世界のメディアを席巻している。

 なぜ、メディアは、パリのテロをそこまで大々的に報道するのだろうか。その陰で、まったく無視されたテロ事件もあるというのに。それは、日本のメディアもおなじだ。というか、わが国のジャーナリズムは、いまにはじまったことではないが、無意識のうちに欧米の目で世界の事象をみてしまっている。

  パリ事件の前日に当たる2015年11月12日、中東レバノンの首都ベイルートで連続自爆テロが起き、40人以上が死亡した。イスラム国の犯行とされる。しかし、それについて日本をふくめ各国のメディアがどれほど報じただろうか。

 時事通信によると、クウェートの新聞アルライは「レバノンの人々は、世界にとってレバノンの犠牲者はパリと同等でなく、忘れ去られたと感じている」と伝えた。

 エジプトのアルワタン紙も「アラブ諸国では毎日人々が死傷しているのに、なぜフランスばかりなのか」といったフェイスブック投稿者の違和感を伝えるコメントを掲載した。町の喫茶店では「世界は二重基準だ」と不満の声が聞かれたことにも触れ、「強い国は注目され、弱い国は(強い国より)悲惨な事件が起きても目を向けられないものだ」と語る大学教授の見解を紹介した。

 だが、世界のメディアにみるこうした反応の差は、強い国、弱い国の問題ではないだろう。白人、欧米中心の世界観が国際社会で当たり前になっており、欧米のこととなると俄然注目するためだと思われる。

 ぼくが新聞社の外報部(現・国際部)で記者をしているころのことだった。海外特派員がピッチャーとして送ってくる原稿を、キャッチャーとして受け取るのが主任務だった。同時に、外電をこまかくチェックし、特派員に関連情報を流すことも重要な仕事だった。

 もう一つ、特派員も送って来ず共同通信も配信して来ないが、日本からみて比較的重要な外電のニュースを独自に翻訳し、デスクに提稿して紙面に載せる仕事もあった。

 あるとき、バングラデシュでフェリー転覆事故があり1000人以上が溺死したという外電が流れてきた。これは大変な事故だと思ったが、特派員も共同通信も送っては来ない。だから、自分で外電を翻訳してデスクに提稿した。だが、そのニュースは1行も載らなかった。原稿を紙面に載せるかどうかは整理部(現・編成部)の担当であり、そこの判断でボツになったのだ。

 その日の1面には、アメリカの列車事故で数十人が死亡した記事が載っていた。新聞社の内部で、何かとんでもないことが起きているような気がしてならなかった。不条理というか、病的な何かを感じた。

 それからしばらくして、またもバングラデシュでフェリー事故があり、今度は約2000人が亡くなったという。それも翻訳したが、隣の席にいた先輩が「それでも、載らないかもしれないよ」という。じゃ、整理部が食いつきそうな情報として「川に投げ出された乗客のなかには、鮫に襲われた人もいた」という一文を加えた。すると、「バングラのフェリー事故で死者2千人 乗客サメに食われる」という見出しで小さく載った。

 ぼくはのちにニューデリー特派員となり、バングラデシュにも3、4度取材に入った。アジア最貧国とされ、首都ダッカにも高いビルなどほとんどないが、とにかく人間がたくさんいた。国土はデルタ地帯にあり、川がたくさんあってフェリーが重要な公共交通となっていた。

 日本のように厳格な安全基準はどうやらないようで、乗客を詰めるだけ詰めて運んでいた。だから、何かの拍子に重心が傾いたりすれば、あっけなく転覆してしまう。そのために、1000人単位の人が溺れてしまう事故が起きるのだった。

 現地で人命が軽視されているのも否定しがたいが、といって1000人、2000人の人が亡くなった事故を無視していいものだろうか。ある先輩は、「日本のメディアにとっては、事実として人命の軽重順位がある」と話し、第1が日本人、第2が欧米の特に白人、第3が近隣国の国民、そして第4がその他の有色人種とした。明治の「脱亜入欧」メンタリティーはいまもまったく変わっていないということなのだろう。

 パリのテロ事件を受けて、フェイスブックでは、自分のプロフィール写真上にフランス国旗を映し出す機能が搭載され、世界中で多くの人がこれを利用した。そのなかでエジプトの著名俳優アデル・イマム氏は「フランスよりレバノンの方が(エジプトに)近い。だから私は連帯を表明する」と述べ、自らの写真にレバノン旗を重ねたそうだ。

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国家そのものがインチキな某大国

 パリ同時多発テロで、国際社会の関心が一気に、フランスとイスラム国(IS)に集まっている。しかし、その陰に隠れた観のある、ロシアの組織的ドーピング疑惑は、世界スポーツ史でも前代未聞の大スキャンダルだ。このニュースを聞いたとき、真っ先に思い出したのが、モスクワ特派員をしていた元同僚F君の話だった。

 アフガニスタンの現代史をふり返ると、1979年末、当時のソ連軍は、南の隣国へ戦車で一斉に侵攻した。そのころ、アフガニスタンの首都カブールには、親ソのナジブラ共産主義政権があり、そのナジブラ大統領の要請でソ連軍が入っていったことになっていた。だから、ソ連の行為は「侵略」ではなく「侵攻」と一般に呼ばれている。事実上は、侵略以外の何ものでもなかったが。

 それ以来、カブール首都圏など一部都市以外の山岳地帯を活動エリアとするイスラム反政府ゲリラ諸派は、アメリカなど西側の軍事援助を受け、侵攻ソ連軍・ナジブラ軍と戦っていた。そのアフガン内戦が何年もつづいた。

 F君がモスクワ特派員となって赴任したのは、そういう国際情勢のころだった。あるとき、ソ連政府が外国の報道陣をアフガニスタン領内の戦略拠点に連れて行く取材ツアーを企画した。ソ連軍は、アフガン政府の要請を受け治安維持に当たっているが、反政府ゲリラがいかに残虐な戦闘行為で無辜の市民の命を奪っているか、直接取材して世界に報道して欲しい、というのがソ連の狙いだった。

 報道陣一行は、戦闘ヘリに分譲して、アフガニスタンのある地方都市へ入った。そこのアフガン政府の建物で、軍事情勢について説明を受けている最中だった。窓外でドーンという爆発音が響いた。「いま、反政府ゲリラのロケット砲が市内中心部に着弾しました」。ソ連当局者は、あまり間をおかずそう解説した。

 F君は、着弾のタイミングの良さ、解説のあまりの手際の良さに「あ、これは、KGBを使ったやらせだな」とすぐ見抜いたそうだ。KGBは、ソ連の謀略を担う泣く子もだまる諜報機関だ。

 ソ連政府とナジブラ政権は親分子分のような関係で、KGBの指導によりナジブラ政権もKHADという諜報機関を持っていた。

 そのころニューデリー特派員をしていたぼくは、ナジブラ政権に取材ビザをもらい、ニューデリー空港からカブール空港へ直行便で飛んで、政権側の動向やカブール一帯の情勢を取材して、東京に原稿を送る仕事をしていた。

 いっぽうで、アフガニスタンの東隣パキスタンに入り、両国国境に近いペシャワールへ行って反政府ゲリラ側の取材をすることもよくあった。あるとき、ひとりでペシャワールの青空市場へ行き、果物や野菜を売る屋台や雑踏をカメラに収めていた。民族服シャルワーズ・カミーズを着てあごに髭を伸ばした、どこにでもいそうな男性が地面に座り込んでいた。その辺りにレンズを向け、シャッターを切ろうとした。すると、その男性は、手に持っていた新聞でさっと自分の顔を隠した。あ、あの男はスパイ要員だ。KGBかKHADか。いずれにしても、乱射テロなどが相次ぐ市場で情報収集しているのだろうと思った。

 今回のロシア・ドーピング疑惑で、KGBを前身とするFSB(ロシア連邦保安局)の深い関与が取りざたされている。WADA(世界反ドーピング機関)の独立委員会が1年近く調査してまとめた報告書には、旧ソ連やいまのロシアのインチキぶりには慣れているはずのぼくでも、あきれてしまう内容が克明に綴られている。

 ロシアには、薬物検査を任務とする「表」の検査機関とは別に、「裏」検査機関があり、選手から採取した1417の尿検体を、裏表の間ですり替えていた疑いが指摘されている。その検査機関に頻繁に出入りしていたのが、FSBの要員だったという。

 また、たとえば、シカゴマラソン3連覇を達成した女子選手は、ドーピングのもみ消しをするため、ロシア陸上連盟の幹部に賄賂を渡したことを告白した。その幹部は、事実が公表されるのを防ぐため、当時の国際陸連会長に1億円を超える賄賂を贈ったとされた。いまフランス当局が捜査中だが、パリ同時多発テロでそれどころではないかもしれない。

 WADA独立委員会は、国際陸連に対しロンドン五輪金メダリストをふくむ5選手、指導者4人、医師ひとりの永久資格停止を勧告し、検査機関の責任者を辞任に追い込んだ。でも、まだ、氷山のほんの一角に過ぎない。

 かつてソ連・東欧の共産圏諸国は、スポーツに国家の威信をかけ、国をあげた強化体制でいわゆる「ステートアマ」を生み出し、西側諸国に対して圧倒的な優位を築いた。独立委員会は「ロシアにはソ連時代の名残がある」と指摘し、国ぐるみの不正行為が展開されていたとの見方を示した。かつて旧東ドイツでも組織的ドーピングがあった。

 ロシアのプーチン大統領は、国として独自調査をするよう指示したと伝えられるが、国ぐるみで行っていた不正を、自分たちの手で明るみに出すことはないだろう。プーチンはまた、「責任は違反した個人が負わなければならない」とし、国としての責任逃れの方策を練っているようだ。

 ひとつだけ、はっきりしていることがある。共産主義国家とその後身国は「政治も経済もスポーツも、ほとんどがインチキだ」という事実だ。もちろん中国、北朝鮮も。

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磐座とイワクラ

 イワクラサミットなるものが、出雲市大社町で開かれた。午後の4時間のあいだに、講演3つとシンポジウムひとつという、ちょっときつい日程だったが、ネットで予約して参加した。

 このサミットは今回で12回目だという。全国の巨石研究者や愛好者で作るイワクラ学会が開いた。会場には約150人が集まっていた。磐座というのは、一般に古い神社の奥社や神と崇められる山の頂上付近などにある巨石のことだ。ほぼ全国各地にある。

 出雲大社の須佐之男命を祀る社の背後にも磐座があるそうだが、禁足地のためみることはできない。9月に訪れた奈良県桜井市の三輪山は、山そのものがご神体で、麓にある大神神社には、ご神体を祀る本殿はなく拝殿だけがある。この三輪山一帯も磐座の宝庫で、広大な境内の一角にある少名彦名を祀るその名も磐座神社というのがあった。そこの磐座は直径1㍍ほどの小さな岩で、磐座のイメージを覆すものだった。少名彦名は大国主命の国造りを助けた小びとの神さまとされ、だから磐座も小さいのかもしれない。

 ぼくは、磐座を訪ねて東北、関東の神社のいくつかを回ったことがある。なかでも迫力があるのは、群馬県高崎市にある榛名神社だ。高さ50㍍ほどの柱状の圧倒される巨岩がご神体で「御姿岩」と呼ばれる。この神社には強力な願望実現のパワーがあるとされ、休日ともなると多くの参拝客でにぎわう。

 天照大神を頂点とする大和族の神々のご神体は鏡が一般的だが、それより古い神道はアニミズムで巨岩や山、瀧などを崇拝していた。だから、磐座を崇める全国各地の神社は、ひょっとしたら出雲系ではないかと個人的に仮説をもっていた。だが、イワクラサミットでは、もっと大きく目を見開かされた。

 講演やシンポジウムはそれぞれに興味深かったが、なかでも面白かったのが、巨石ハンターを名乗る須田郡司さんの話だった。須田さんは、2年前に大社町へIターンしてきたのだという。

 講演のタイトルは「世界の石の聖地を訪ねて」というものだった。磐座と日本語で言えば神道に直結するが、世界の聖地や遺跡でも石や巨石をよく目にするという。やはりその多くは信仰の対象となっていて、須田さんは「広い意味での磐座(イワクラ)は、世界中で見ることができる」とする。

 考えてみればその通りで、世界最大のイワクラはオーストラリアのエアーズロックだ。高さ約350㍍、周囲約10㎞にもおよぶ巨大な1枚岩で、先住民アボリジニーは「ウルル」と呼んでいるのだという。ぼくはまだ現地に行ったことがないから知らなかったが、岩は赤色の砂岩でできていて陽光の角度によってさまざまな色に変化するそうだ。それが荒野にどーんとそびえているのだから、さぞかし壮観だろう。神道の磐座信仰とおなじで、アボリジニーはごく自然に、エアーズロックに神を感じたのだろう。

 それだけの存在だから世界中のひとを引きつけており、観光登山も行われているという。だが、先住民は信仰の対象としており、観光で登るのをためらうひともいるそうだ。

 スリランカにはぼくも3度ほど行ったことがあるが、須田さんの話で初めて知ったのはシーギリアロックという巨岩だった。ライオンの岩という意味だという。マグマが硬化して出来た楕円柱で、岩そのものだけで高さは約195㍍あり、それが山の上にそびえ標高は約370㍍あるそうだ。これもさぞかし壮観で、古代のひとは神とみたのだろう。

 アメリカにも、先住民にとって聖なる岩として崇められている、高さ約244㍍のスパイダーズロックがあるそうだ。ナヴァホ族は織物を大切な生業のひとつとしており、「おばあさん蜘蛛が人びとに織物を教えてくれた」と信じているという。だから、岩をスパイダーと呼ぶのだという。

 自然石ではなく加工された岩もある。なかでも有名なのが、チリ・イースター島のモアイ像だ。多くのモアイはなぜか海に背を向けて、島の高台に建てられている。建造中に放置されたものもふくめ約1000体もあると初めて知った。先日のあるテレビ番組では、モアイは頭部だけではなく、最近、地中に胴体も見つかったそうだ。何らかの信仰によるものなのだろうが、誰が何のために作ったのかはいまだに謎だ。

 須田さんは「石の聖地は性地でもある」と語った。夫婦岩として日本でもっともよく知られているのが伊勢二見ヶ浦の夫婦岩だ。ぼくもかねてからあれは磐座だろうと思っていた。伊勢神宮に天照大神が祀られるよりずっと以前から、信仰の対象になっていたのではないか。

 この夫婦岩は、日の大神である天照大神と興玉神石を拝むための「天然の鳥居」でもあるそうだ。興玉神石は沖合約700㍍の海中に鎮まっていると言われているという。毎年、夏至の前後1週間は岩の中央から太陽が昇り、天気が良ければ、その背に霊峰富士を仰ぐことができる。

 夫婦岩は各地にあるが、それとおなじように親しまれているのが陰陽石だ。宮崎県小林市の陰陽石は、まさに男女の性器の形をしており、古くから信仰されていたという。おそらく、人びとは子孫繁栄を祈ったのだろう。

 磐座ファンは、全国的に増えているそうだ。次のサミットはどこで開かれるんだろう。

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真夜中のぐちゃぐちゃカレー

  おふくろのカレーライスは物心がついたときから食べていたし、学校給食ではカレースープが出て来るのが楽しみだった。では、本場のカレーをいつ食べたのが最初だったか考えてみた。

 それは1987年春、ニューデリー赴任の内示が出て、東京のインド大使館へビザ申請に行ったときのことだった。特派員としての滞在ビザをもらう関係で、プレスアタッシェつまり報道・広報担当の1等書記官へあいさつをした。

 「今度、家でホームパーティをするので、よかったら来てください」と言われた。インドでの人脈はゼロに近かったから、喜んで参加することにした。広尾の外交官用マンションだったと記憶している。外観は何の変哲も無い建物だったが、玄関から中へ通されると、日本のそこら辺にあるマンションとは比べものにならないほどゆったりした間取りだった。

 午後7時にと言われていたので、ほぼきっかりに訪問すると、まだ2、3人しかお客さんはいなかった。「アルコールは飲めますか?」とメイドさんにインドなまりの英語で聞かれ、ウイスキーの水割りをもらった。ウイスキーは日本のものだったと思う。名前を知らないインドのビールを飲んでいるひともいた。

 時間が経つにつれ、お客さんの数もだんだん増えてきた。最終的には約20人くらいにはなった。リビングルームは、それでも皆がソファに座って談笑できるくらいのスペースがあった。

 ぼくが、インドを訪れたことはないが今度ニューデリーに赴任すると話すと、親切にお勧めのレストランなどを教えてくれるひともいた。こちらは初めての「インド体験」で緊張しているうえ、慣れないインド英語を聞き取らなければならないので、水割りをなめるように飲んでいた。なかにはアルコールが禁制のイスラム教徒なのだろうか、ソフトドリンクを手にしているひともちらほらいた。

 おつまみは、ピーナッツや得体の知れないインド製の乾き物だった。だいぶん時間が経っても、食事が出て来る気配がない。人びとはひたすらアルコールなどを飲み、しゃべっている。のちにインドで暮らすようになって思い知るのだが、インド人はとにかくよくしゃべる。ホームパーティのようなプライベートだけでなく、公的な場でもおなじだ。「国際会議を成功させるには、インド人を黙らせ日本人にしゃべらせることだ」とよく言われるが、あれは本当だ。

 パーティは進みいい加減お腹がすいて来たのに、まだ食事は出ない。お客さんたちは、それが当たり前なのか誰も気にしていない様子だ。延々としゃべって飲んで、夜中の11時をとっくに過ぎたとき、ようやくカレーの匂いがしてきた。

 給仕のひとたちが、テーブルにさまざまなカレーを並べた。ホスト役のプレスアタッシェが、「お食事の用意ができました」と言うやいなや、お客さんたちはどっとカレーのテーブルへ押しかけた。

 インドなりの食事作法があるのだろうと、周りの人たちを観察した。みんな大きなお皿1枚に各種カレーを少しずつ取って自分の席にもどった。そして、いろんなカレーをぐしゃぐしゃに混ぜて、うまそうに食べ出した。なるほど、そうやって食べるのか。自分でもまねをした。

 ニューデリーでインド人主催のパーティに出るようになって、なぜ彼らがカレーを混ぜるのか納得した。たとえば、「ダル」と呼ばれる豆のカレーは、常にものすごく辛い。それだけを単独で食べることは、ふつうインド人でもしない。だから、ダルを辛み調味料みたいにして自分好みの辛さに調節するわけだ。日本のように肉といろんな野菜をいっしょに入れたカレーは、なぜかない。各単品カレーを混ぜると、味が絡み合い深みが出る。

 週間ポストの巻頭に「『究極のカレー』大研究」という特集があった。大阪では最近、混ぜることを前提にしたカレーが台頭しているのだという。本場の食べ方が、やっと日本にも到達したのだろうか。

 記事は「混ぜるカレー」の決定版として『ロッダグループ』という店のギャミラサセット(¥1500)と名づけられたワンプレートカレーを紹介している。やはり1枚の大きめの皿にいろんなカレーを盛って混ぜて食べるのだ。ところが、それはスリランカの家庭で食べられているスタイルだとされている。その店のシェフがスリランカ出身なのかもしれないが、インド文化圏ならどの国でもぐちゃぐちゃカレーを食べる。

 プレスアタッシェのホームパーティで、食事が終わるとデザートが出た。彼が「本国から取り寄せたんですよ」というアイスクリームを、インド人の客らは「懐かしいなぁ」と言って笑顔で食べている。ぼくも少し試してみると、内心ウゲッと言いたくなるような独特の味だった。思えばそのとき、彼我の食文化の決定的なちがいを初体験した。

 食事が終わると、招待客は全員さっと引き上げていった。帰宅すると午前1時を回っていた。本場では、カレーは真夜中に食べるものなのかと思った。だからか、男女とも中年になるとみんな大きなお腹をしている。

 その日の食事にも事欠くひとが億単位でいるのに、新聞を開くとダイエットサプリの広告が目につくのもインドの現実だった。

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