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2016年1月

「鬼は外」では済まない ドイツの難民騒乱

 ドイツ西部のライン河畔にあるケルンは、ぼくたち一家にとって懐かしい都市だ。ドイツ鉄道(DB)の中央駅を出るとすぐ、世界遺産の大聖堂が空に向かってそびえている。それに面して、石畳の駅前広場がある。

 ぼくたちは隣町のボンに住んでいたから、愛車や鉄道でよくここを訪れた。いちばん楽しい記憶は、世界的に有名なケルンのカーニバル見物だ。毎年1月11日の午前11時11分にスタートする行列が、音楽を演奏しながら延々と街をパレードする。

 当時、小学校低学年だった息子と娘を連れて見物に行くと、ごった返していた。親切な人たちが、ぼくたち東洋人一家を沿道の最前列に出してくれた。華やかに仮装したパレードの参加者は、お菓子やキャンディーをばらまいていく。

 そのなかで「外国人」の息子と娘は目立っていたのだろう。参加者は近寄ってきて、うちの子どもたちが広げる両手に、たくさんのお菓子類をどさっと入れてくれるのだった。両手はすぐ一杯になり、かみさんが次々と持参の袋に入れ、子どもたちはまた空いた手にお菓子をもらう。夢のような時間を親子で楽しんだ。

 そのケルンで、大変なことが起きてしまった。2015年大晦日、駅前広場付近は酒を飲んだり花火を上げたりする人びとが集まっていた。

 その群衆のなかで、アラビア語のような言葉を話す男たちが女性を取り囲んでわいせつな行為をしたり金品を強奪したりした。警察への被害届けは、その後、650件を超えた。特定された容疑者は32人で、うち22人が難民申請者だった。中東やアルジェリア、モロッコなど北アフリカ出身者が多かった。なかには不法入国者もいた。大衆向け全国紙ビルトは、マース司法大臣の「事件は計画的だった可能性が強い」というコメントを載せた。おなじような事件は、多くのヨーロッパ各都市でも小規模ながら同時発生した。

 ドイツには、2015年だけで、シリア、イラクの内戦などの影響から難民・移民100万人以上が押し寄せた。メルケル首相は寛容な政策を打ち出し、「彼らがドイツ社会に統合されれば、将来のチャンスになる」と国民に訴えてきた。

 だが、国内右派とくに極右・ネオナチ団体などは、以前から外国人排斥をアピールし騒動を起こしていた。ケルンの騒乱によってその声はいっそう高くなり、一般国民からも難民・移民への風当たりが急激に強くなっている。

 ケルンでは1月9日、大みそかに発生した性的暴行や強盗事件への地元警察の対応のまずさや移民流入に反発するデモ隊が、警官隊と衝突する騒乱があった。デモ隊は爆竹や石、ビール瓶を投げ、戦闘服姿の警官隊は催涙弾や放水で対抗し、少なくとも15人を逮捕した。デモ参加者は約1700人で、そのうち約500人は中東諸国のイスラム教徒の移住に反対する団体「ペギーダ」の支持者だったとされる。

 警察はケルン中央駅と大聖堂に挟まれたエリアに厳戒態勢を敷いていたが、パキスタン人やシリア人などが襲われる事件が相次いだ。難民のアパートが放火されるケースもあった。メルケル首相は、事件を起こした難民申請者は国外追放にする姿勢を打ち出した。

 ヨーロッパにとって、一連の事件は、「自由とは何か」「開かれた社会とは何か」という根本的な問題をはらんでいる。福岡市生まれでイギリス在住の保育士兼ライター、ブレイディみかこさんは、ネット上にこう書いている。<(ケルンの事件が)大々的に報道されるのも無理ないが、しかし、これを知った英国の人々の最初の反応は「ああ、来たか」みたいな概視感だったのではないだろうか。というのも、ムスリム系移民による大規模な性犯罪は以前から起きていたからだ>

 みかこさんによると、イギリスのサウス・ヨークシャー州ロザーハムで、パキスタン系移民のギャングたちが約16年間にわたり、実に1400人の十代の子供たちをレイプしたり、監禁したり、強制売春させたりしていたことが大きなニュースになったことがある。ムスリム・コミュニティーは英国人コミュニティーからのレイシズム(人種差別)攻撃を恐れて沈黙し、警察や福祉当局、自治体も「レイシズムが絡んだ複雑な問題だから」と事件解決に弱腰だったという。

 難民や移民に寛容な姿勢をとるヨーロッパの左派は、往々にしてこうした事件について語りたがらない。<ケルンの集団女性襲撃でも、左派からまず出て来たのは陰謀説だった。難民受け入れに反対する右翼が、わざと仕組んだ事件だったというのだ>と、みかこさんは書いている。

 ぼくも、ドイツ南部ミュンヘンで極右団体が5000人も動員したデモのど真ん中に入って取材したことがある。ドイツでは、なぜこんな大きな極右・ネオナチ組織がいろいろあるのか。ヨーロッパと日本との決定的なちがいは、社会の一部をなす難民・移民の有無だ。

 日本でも「働き手を確保するため移民政策を導入すべきだ」とか「難民にもっと手を差し伸べて」とかの声はある。だが、ことはそう簡単ではない。人で不足から大量の移民政策をとり人道主義を重視して大量の難民を受け入れれば、いまのヘイトスピーチ騒ぎどころでは済まず、極右政党が生まれ選挙で躍進する恐れはじゅうぶんにある。

 ぼくたち一家は、ヨーロッパで人種差別にあったこともなく、いい想い出しかない。だが、日本での難民・移民受け入れについて、ぼくはすぐに答えを出せそうにはない。

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転落現場に花束を もうひとつのバス事故

 長野県軽井沢町軽井沢の国道18号碓氷(うすい)バイパスで、2016年1月15日未明、スキー客を乗せたツアーバス(乗客・乗員41人)が道路脇の崖下に転落し、15人が死亡した。

 この第一報を聞いた瞬間、ある遠い記憶がよみがえった。1972年9月23日、おなじく長野県上水内郡信濃町の県道で、戸隠神社行のバスが50メートル下の鳥居川に転落大破し、観光客など15人が死亡、67人が負傷した大惨事をめぐる話だ。

 ぼくが読売新聞東京本社に入り長野支局に赴任したのは、この事故から5年半経った78年春だった。警察を担当する「サツ回り」になり、長野中央署に日参したが、署管内の昔のバス事故のことを知る機会はなかった。

 警察担当キャップになった79年、事故のときハンドルを握っていた川中島バスの元運転手に対する控訴審判決が東京高等裁判所で言い渡された。支局のデスクは、ぼくに元運転手を直接取材し、事故と裁判の全体像を特集するよう指示した。

 そこで初めて、古い記事スクラップや判決文などを読み込んで、事故と裁判の概要をつかんだ。バスがダンプカーとすれちがう際に起きた事故で、バス運転手が運転ミスとして逮捕、起訴された。現場の県道は幅4.6メートルとせまく、大型車両どうしのすれちがいはかなり困難で、未舗装でガードレールも設置されていなかった。弁護側は、「事故の誘因は危険な道路を放置していた道路管理者の責任」つまり長野県にあると主張したが、長野地方裁判所では有罪判決が下されていた。

 東京高裁では、新たな鑑定結果から一審判決を破棄し、「事故の原因は運転士の過失ではなく道路の欠陥にある」として、逆転無罪判決を出した。検察側は上告を断念し、運転士の無罪は確定した。

 元運転手はいまどこにいて何をしているのか。その情報を入手したのは長野中央署の副署長だったか弁護士だったか、もう覚えてはいないが、実家で両親と暮らしていることがわかった。実家は、事故現場よりさらに山奥の上水内郡戸隠村だったと記憶している。その家に電話をかけ、取材の目的を説明してアポイントを取った。

 取材に行く日の朝、ぼくはまず、長野市内の花屋へ寄って大きな花束を作ってもらった。それを愛車白いスカイラインの助手席に置き、事故現場へ向かった。長野市街からずっと北へ入った山中だった。

 カーブのつづく山道で、ぼくはどうやって現場を特定できたのだろうか。たぶん、そこには慰霊の地蔵があったように思う。バスが転落した谷は深く、あたりは30センチほどの雪に覆われていた。

 路肩に車を停め、花束とカメラを手に車外に出た。ドアを閉めるとき、うっかりロックしてしまった。車のキーは運転席の上にぽつんとあった。ぼくは愕然となった。日中ではあったが、車などほとんど通らない。当時、携帯電話があるはずもなく、JAFを呼ぶ手段はない。

 必死で考えた。運転してきたとき暖房で暑かったので、運転席の窓を数センチ開けていた。いいことを思いついた。花束は輪ゴムではなく紐でくくられていた。紐をほどくと十分な長さがあった。その先に自宅アパート玄関のキーをつけたキーホルダーを結びつけ、窓のすき間から垂らして車のキーを釣り上げられないか。何度かやって成功した。

 すべってころびそうになりながら谷を降り、たくさんの犠牲者が横たわっていたと思われる谷底に花束を置いて手を合わせた。

 そして車にもどり、元運転手の家に向かった。無罪になったとはいえ、何と言ってあいさつすればいいか、車のなかでずっと考えた。でも、それは杞憂だった。30歳代とまだ若い元運転手は、穏やかな顔でぼくを迎え居間に通してくれた。ご両親も純朴な感じの人たちだった。

 あいさつが済むと、お母さんがお茶を出してくれた。ぼくは事故現場へさっき行ってきたことから話し、控訴審で無罪判決が出たことの感想を尋ねた。元運転手の言葉は謙虚だった。「無罪になったとはいえ、たくさんの方々が亡くなられたりけがをされたりした責任が消えたわけではありませんから」。彼も、事故からの長い歳月を、苦しい思いで過ごしてきたのだろう。ご両親もいっしょにこたつで話していて、その日々の重さが感じられた。

 お母さんは、ぼくに思いがけないことを言った。「もうそろそろお昼ですから、いっしょにご飯を食べて行ってくれませんか」。取材さえ済めばおいとまするつもりだったが、昼食はあらかじめ用意しておいてくれたようだった。ぼくはひとりでアパート暮らしをしていたから、4人での食事は親戚の家へ遊びに行ったような気持ちだった。

 食事後、ぼくが車で帰るとき、3人は庭先でいつまでも見送ってくれた。雪の山道を運転しながら、ああ、あの人たちに会えてよかったな、と心から思った。それを昨日のことのように思い出す。信州には駆け出し記者として5年間住んだが、あのときほど取材で温かいものを感じたことはなかった。

 もし、あの日、花束を持参していなかったら、と思うとぞっとする。

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謹賀新年

 丙申(ひのえさる)は、大変革の年になるといいます。今年も、内外の動向に注目してブログをお伝えします。

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