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2016年2月

韓国はどうする ふたつの“韓韓問題“

 いわゆる慰安婦問題は、2015年末に交わされた日韓合意で「最終的かつ不可逆的に」解決されたことになった。日本政府が元慰安婦のために10億円を拠出する代わりに、韓国側はソウル日本大使館前の慰安婦像「平和の像」を撤去する。だが、朴槿恵政権は「像は民間団体が建てたもので、政府による撤去はむずかしい」と、手をこまねいている。公道に建てられているのだから、政府がその気になればすぐ撤去できるが、像を建てた韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)と世論の反発が恐いのだ。

 日韓の外交問題となってきた慰安婦問題は、いまや主に韓国国内の問題となった。つまり“韓韓問題”だ。

 そこへもって、もうひとつの像の問題が持ち上がり、朴槿恵政権と韓国社会にとっての新たな難題、というか時限爆弾のようになっている。

 韓国の左派メディアとして知られるハンギョレ新聞が、「ベトナム戦争当時の韓国軍による民間人虐殺を謝罪し、被害者を慰める象徴物がベトナムと韓国に設置される」と伝えた。

 新たな像の正式名称は「ベトナムピエタ」と名づけられた。「平和の像」を作った二人の作家キム・ウンソン(52)、キム・ソギョン(51)夫婦が制作した。年内に、韓国軍によるベトナム民間人虐殺地域と韓国国内に設置される予定だ。

 「ピエタ」は聖母マリアが幼いキリストを抱く像のことで、多くの芸術家が制作している。なかでもミケランジェロが1499年に完成させたバチカンのサン・ピエトロ大聖堂にあるものが有名だ。ぼくも現物を間近で見たが、慈悲あふれる至高の作品だった。

 ベトナムピエタは、写真で見るかぎり質がかなり落ちるものの、韓国にとっての衝撃度は計り知れない。ベトナム語の名称は「最後の子守歌」と名づけられたそうだ。

 ベトナム戦争に対する歴史的責任を知らせる団体「韓国・ベトナム平和財団建立推進委員会」関係者は、「今年中にベトナム中部地域の多くの村で虐殺50周年の慰霊祭が開かれる」として「この行事に合わせて謝罪と慰霊の意味でベトナムピエタを贈るため、各村やベトナム政府と接触している」と語ったそうだ。

 ハンギョレ新聞は、この問題で、慰安婦をめぐり反日の急先鋒である挺対協が、韓国・ベトナム平和財団建設推進委員会と連携していると伝えている。

 韓国は、ベトナム戦争(1960~75年)当時、反共主義の立場からベトナムと戦うアメリカを積極的に支持し、1964年から終戦まで、のべ32万人もの兵士をベトナムに送り込んだ。週間ポストによると、韓国軍は多くの残虐事件を起こしたが、なかでも最大とされるのが「ゴダイの大虐殺」だった。100人以上の韓国軍兵士がゴダイ村に入ってきて、村人を一個所に集合させた。そのなかにいた年ごろの娘を村人の前で輪姦したあと撃ち殺した。怒り狂った村人たちは韓国兵に襲いかかろうとしたが、射殺された。15発もの銃弾を撃ち込まれながら生き残ったある村人は、その虐殺の模様を証言した。周辺の集落もふくめ1004人が殺害されたことがわかっているという。

 韓国軍はベトナム全土で、推計1万~3万の大量虐殺をしたとされる。また韓国兵士によるレイプで生まれた子どもたちは「ライダイハン」(韓国との混血、の意)と呼ばれ、その数は数千~3万人とされる。

 ハンギョレ新聞系列の週刊誌『ハンギョレ21』は、すでに1999年から1年以上にわたりベトナムでの虐殺問題でキャンペーンを張った。これに怒った退役軍人らがハンギョレ社を襲撃し、社屋を破壊して編集幹部を監禁する事件を起こした。だが、ほとんど処罰されず、この問題はいまでも韓国社会のタブーとなっている。朴槿恵大統領の最大の支持者は退役軍人とされ、大統領はこの問題にも手をつけられないという。

 挺対協が、ベトナム戦争当時の虐殺事件をいま改めて問題にしようとするのは、なぜなのか。武藤正敏・前駐韓大使は、月刊誌WiLLの対談で、次のように語っている。「挺対協は元慰安婦に対する支援活動としてばかりでなく、自身の政治目的のために活動を繰り広げてきた面が強いので、慰安婦問題で日韓政府が妥結に合意すれば、自身の存在意義がなくなる。したがって、挺対協が一〇〇%満足する解決以外、受け入れない。今回の合意は、それを打ち砕いたのです」

 つまり、挺対協は、新たな存在意義を作り出すため、次の活動目標としてベトナム戦争時の虐殺問題に焦点を合わせようとしているのではないか。

 挺対協は、もともと、北朝鮮と密接なつながりを持つとされる。慰安婦問題に全力で取り組んだのも、それによって韓国と日本を離間させ北朝鮮が“漁夫の利”をえるからだと見られていた。また、慰安婦で日本を叩けば、日本人拉致で国際社会から非難される北朝鮮が「被害者」に、日本が「加害者」になり、拉致問題とは逆転する。

 ベトナムピエタ像が韓国とベトナムの地に建立されたとき、韓国社会はどうするのか。像を退役軍人会がおとなしく受け入れるはずはない。さかのぼれば、ベトナムに軍を派遣したのは朴槿恵の父である朴正煕(パク・チョンヒ)だった。

 朴槿恵は反日路線を走り、挺対協の活動を容認してきた。そのツケがいま回ってきたのだ。こういうのを、政治のブーメランという。

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ミサイルかロケットか、どっちでもいいが

 青空に白煙を吐きながら白い物体が飛んでいく。北朝鮮が「人工衛星の打ち上げ」と称して「何か」を打ち上げる光景をテレビで観ながら、アフガニスタンの首都カブールで見た「スカッドミサイル」を思い出した。やはり、青空に白煙を吐きながら、頭の上を白い物体が音もなく飛んで行った。カブールの野外市場で取材しているときのことだった。

 そのころのカブール盆地は、ナジブラ共産主義政権がソ連駐留軍に支えられて支配していた。武器のすべてはソ連製だった。スカッドミサイルは大量破壊兵器であり、一発で数百人を殺すことができる。

 ぼくたち特派員は、空路カブールに入ると、ナジブラ政権の動向を取材して原稿を本社に送るのが職務だった。アメリカ、ソ連、フランス、イタリア、スペインなどいろんな国の特派員が、おなじホテルに泊まり、政権の記者会見があると三々五々外務省に行った。

 「今朝、わが軍は反政府勢力に対し攻撃を仕掛け、推定300人の敵を殲滅した」。こういう発表文を報道官が読み上げる。ぼくたちはそれを筆記したりテープレコーダーに録音したりする。ほんとかどうかも確認のしようがない発表をいちおう聞き置いて、急いでホテルに帰り、テレックスの前に座って原稿を打つ。ソ連経由で国際電話がつながることもあるが、たいていは雑音がひどくてよく会話ができず、テレックスで外界と交信するのが一番確実な方法だった。

 ぼくは、記者会見が終わるとチャーターしているタクシーを飛ばし、いの一番にホテルのテレックスの前に陣取り、原稿を送ることにしていた。共産主義政権の常として、嘘や誇張がふくまれているのは承知の上だが、それでもナジブラ政権が公式に何を発表したかはそれなりにニュース価値があった。

 「推定300人の敵を殲滅した」と発表されたとき、ああ、あのスカッドミサイルで反政府ゲリラがやられたんだな、と思った。スカッドミサイルは、1991年の湾岸戦争で一躍名を知られることになったが、ぼくがカブールへくり返し入ったのはそのちょっと前だった。

 青空を飛んでいくスカッドミサイルは、大量破壊兵器という言葉から連想する不気味な感じはまったくなく、市場の人びとも花火見物をするようにぽかんと見上げていた。ただ、それによってナジブラ政権の言う「敵」が一度に大量殺戮されたのかと思うと、やりきれないものを感じた。

 ぼくは、パキスタンの北西部アフガン国境の街ペシャワールを何度も訪れて、そこを後方基地とするアフガン反政府ゲリラたちにもよく取材した。彼らは生まれつきの戦士で、裸足にサンダルでカラシニコフ銃をかついでアフガニスタンの山地を歩き回り、ナジブラ・ソ連軍と戦っていた。彼らは一様に人懐こかった。スカッドミサイルによって、そういう戦士たちが百人単位で殺されるのだ。

 読売新聞によると、北朝鮮は、1970年代、エジプトから旧ソ連製のスカッドミサイルを手に入れて改良し、80年代半ばから、韓国を射程に収めるスカッドB(射程300㎞)とスカッドC(射程500㎞)を実戦配備した。

 93年には、日本本土をほぼ射程に収めるノドン(射程1300㎞)の発射実験に成功した。北朝鮮は短距離弾道弾スカッド約600基、中距離弾道ミサイル・ノドン約200基を保有している。北の独裁者がボタンを押せば、韓国も日本列島も阿鼻叫喚の地獄となる。

 今回、北朝鮮が「大成功した」とする「人工衛星搭載ロケット」、事実上の大陸間弾道ミサイルは、射程1万2000㎞でアメリカ東部のワシントンDCやニューヨークを射程圏内にすると言われる。ただ、まだ核弾頭を搭載する技術には成功しておらず、またミサイルが宇宙空間から大気圏に再突入する際の耐熱技術も未開発とされる。したがって、すぐにもアメリカの心臓部を狙えるわけではないらしい。

 ただ、ぼくには気になる報道があった。今回の打ち上げで、「ミサイルの1段目は分離後に爆発し約270個の破片になった」という情報だ。ミサイルを撃ち落とせる可能性がもっとも高いのは、打ち上げられてから間もないタイミングだとされる。だが、もし、1段目がばらばらだと、熱を感知してミサイルを撃ち落とす迎撃システムの赤外線センサーがうまく機能しない恐れが出て来る。1段目の破片も高熱だから、迎撃ミサイルは弾頭か破片か惑わされることになりはしないか。

 ぼくはカブールへ、いつもニューデリーからの直行便で入った。壮大な盆地の中央にあるカブール空港へ着陸する前、飛行機はらせん状に下降しながら、燃えるマグネシウム弾を撒きちらすのが常だった。地上の反政府ゲリラが、熱追尾式のアメリカ製地対空スティンガーミサイルで狙っており、それを惑わすためだった。だから、カブールへ入るのはいつも命がけだった。

 北朝鮮が1段目を自爆させ破片にして海上に落下させたのは、韓国軍に回収されて構造や機能を分析されるのを防ぐためだという報道が多い。だが、カブールの“故事”とおなじような方法を取り、迎撃を避けるのが主目的ではないだろうか。

 いずれにせよ、北朝鮮は手強い。日本の社民党は「北朝鮮の脅威をいたずらに煽るな」と“平和ぼけ”の声明を出したが、冷静に判断しても暴走する北はじゅうぶんに脅威だ。

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ニューデリーの青空は追憶のなかに

 暦の上で春とは言え、日本列島はまだ寒い。先日は出雲でも5センチほど雪が積もった。空は、相変わらずどんよりとしている。晴れたかなと思ってもつづかず、いつの間にか雨が降り、雪になったりする。こんな季節には、ニューデリーの冬の青空が懐かしい。

 インドは暑い国だと日本人の多くは先入観を持っている。だが、少なくとも、ぼくたち一家が暮らしていた首都ニューデリーの冬の夜は、暖房が必要だった。この地方は「冬とモンスーンと夏の3季だ」とぼくのおじいさん秘書ヴァンカタヤは言っていた。

 現代日本の年の初めは、太陽暦の1月1日にはじまることになっているが、インドの年初をいつにするかは一概には決まっていないようだった。ニューデリーでは、2月後半から「1日に1度気温が上がる」と言われるほどで、3月にはもう夏の気配がただよう。暑さのピークは4月から6月にかけてで、それにつづきモンスーンがやってくれば気温はかなり下がり、インド人は大喜びする。

 日本で言えば梅雨だが、そのモンスーンが来ないと気温は下がらず農作物にも大打撃を与えて経済に致命的な悪影響をおよぼす。インドでは、かんがいなど農業技術がまだじゅうぶん発達していないから、かなりお天気次第なのだった。

 無事モンスーンが来れば、数か月にわたる猛暑で消耗した体を休めることができる。ニューデリーの8月ごろは東京などよりむしろ気温は低い。だが、9月の中旬ごろ、第2の夏「セカンドサマー」がやってくる。モンスーンの湿度をふくんでいるだけ最初の夏の暑さより「重たさ」が増しており、体にこたえる。人びとが高熱などでばたばた倒れるのがこの時期だ。

 それも10月後半には少し落ち着き、11月上旬にはずいぶん過ごしやすくなる。この季節に行われるのが、ヒンドゥー教最大の火の祭「ディワリ」だ。町中にろうそくの灯りをともし、ものすごい数の花火を打ち上げて盛大に祝う。この祭りをもって1年の始まりとする考え方もある。

 それから翌年の2月までが、もっともいい季節だ。日中は涼しく空気はさわやかで、青空が広がる。日本の中秋を思わせる日々がつづき、ああこんな季節が1年中つづいたらインドも天国なのに、と思わせるものがあった。

 ぼくの第2子となる娘が生まれたのは12月9日で、抜けるような青空の下、真っ赤なブーゲンヴィリアが咲き誇っていた。日本に一時帰国して寒い季節に産むよりよほどいい、とかみさんの両親をニューデリーに呼んで出産した。

 それから20数年が経ち、読売新聞は「ニューデリー 大気汚染 死者年1万人」という信じられないニュースを伝えていた。

 大気汚染と聞いて、日本に暮らすぼくたちがまず思い出すのは北京だ。商社マンとして上海に住んでいる甥夫婦の話だと、そこでも大気汚染はかなりひどいそうだ。偏西風などの影響で日本にも中国大陸の大気が流れて来たりするから、ぼくたちは敏感になる。急激な経済発展で工場が乱立し、車の排ガス規制も追いついていないから大気が汚染される。

 読売記事によると、インドの公的機関の調査で、ニューデリー市内だけでも大気汚染が原因とみられる肺疾患などによる死者が年間1万人を超えるという。

 WHO(世界保健機関)が2014年に発表した「主要都市のPM2.5の年間平均濃度」では、東京の10に対し北京は56だった。日本のニュースで有名な視界不良の北京は、東京より5.6倍ほど汚染されていることになる。しかし、ぼくがかつて飛び回っていたインド亜大陸の各都市は、その比ではない。ニューデリーが世界約1600都市のなかでも最悪で153、インド西隣パキスタンの商都カラチが117、東隣バングラデシュの首都ダッカが86となっている。

 ぼくたち一家は、7年前にニューデリーを再訪したが、そのときはそれほど空気が悪い印象はなかった。しかし、経済は年7%前後で成長しつづけたから、汚染は幾何級数的に進んだらしい。

 かつてのインドでは、国産車アンバサダーや日本のスズキが現地生産するマルチなど車種は限られ道路はすいていた。あるとき、対向車が反対車線を走って来てぶつかる寸前、ぼくのお抱え運転手ヘンリーは冷静にそれをかわした。交通量はそれほど少なかった。

 経済も事実上の「鎖国」に近く、工場などの数も限られていた。だが、1991年、インド政府は経済の自由化に踏み切り、98年ごろから急激に発展し出した。ぼくたちが再訪したとき、19年ぶりに会った親友のプラメシュもスズキの新車を持っていて、ぼくたち一家をあちこちに連れて行ってくれた。そして、インドで初めて交通渋滞を経験した。

 経済発展にともなって電気も慢性的に不足しており、火力発電所で石炭をがんがん焚いている。その一方で、都市周辺ではいまでも野焼きがおこなわれており、それも空気を汚す原因となっている。デリー首都圏では2016年初めからマイカー規制に乗り出し、車両ナンバーの偶数、奇数で1日おきに通行を禁止する試みを実施した。排ガスもヨーロッパと同等に規制強化する政策を打ち出した。だが、その実効性を疑問視する声は根強い。

 冬場はとくに大気が滞留するため、連日、スモッグに包まれているという。あの抜けるような青空は、もうぼくたちの追憶にしかない。

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’WE DID IT'(俺たち、やったぜ)

. サッカーはやって楽しい。観戦するのも3度のメシとおなじくらい楽しみだ。それが日本代表の国際試合ともなるとなおいい。日本が勝てばさらにうれしい。大逆転勝ちでもしてくれれば、盆と正月がいっしょに来る。

 出雲にUターンして、いまはなき国立競技場や埼玉スタジアム2002などで生観戦することもできなくなった。それでも、テレビ観戦は仕事より優先事項となっている。かみさんも、サッカーの試合日程にあわせて勤務日を決める。職場にはナイショだが。

 U-23アジア選手権決勝戦は、ドイツで言う「クリスマスとイースターがいっしょに来た」試合だった。手倉森ジャパンは立ち上がり悪くはなかったが、韓国は前半10分もしないうちに猛攻撃をしかけてきた。中盤でいわゆるセカンドボールがほとんど取れない。それまでの5試合と比べて、あんなにも走れなかったかなぁ、とまだるっこい思いがする。テレビ画面で観ていると、韓国の選手の数が何人か多いのではないかという錯覚さえする。

 MF中島が「韓国はうまくて、本当に流れに乗れなかった」と率直にふり返り、DF岩波が「想像以上に韓国はうまかった」とのちに認めた。

 前半20分、サイドチェンジから右サイドを破られ、クロスボールへの対応を誤って先制点を献上してしまった。韓国が先行逃げ切りのチームなのに対し、日本は前半を慎重に運んで後半勝負というスタイルで一貫していた。過去5試合とも先制点を取り、優位な試合展開に持ち込めていたが、決勝ではこの選手権で初めて先行されてしまった。

 手倉森監督は、「前半を0ー0でいければ、2ー0で勝てる」と見込んでいたそうだ。そのシナリオは早くも崩れたが、まだ1点なら大けがではない。韓国に押し込まれたこともまだ想定内ではあっただろう。

 後半が開始され、状況はさらに悪化した。日本はひとり交代させて4−4−2から4−3−3へシステム変更した。その直後、日本の左サイドは完全に崩され、センターバックが釣り出され、ゴール正面でどフリーになったFWチン・ソンウにネットを揺らされた。

 手倉森監督は、試合後、采配のミスを認めたそうだ。「2点目を取らせたのは俺が悪かった。本当は5分くらい様子を見てから(選手交代)とも思ったが、キックオフから交代した分だけ重心が後ろに下がってしまった」。ボランチを3枚にして相手の攻勢を防ぐつもりが、後ろ向きな気持ちで再スタートしたことで、相手の勢いをまともに受けてしまった。DF岩波も「正直、パニックになっていた」と認めた。

 この2点目はきついなぁ、とぼくは半分負けを覚悟した。この時点でテレビを消し、寝てしまった人も少なくなかっただろう。でも、サッカーでは「2-0はもろい」とも言われる。テレビ朝日の解説者・松木安太郎さんは「1点取れば、流れは変わりますからッ」と呪文のようにくり返している。

 手倉森監督も奇妙な手ごたえを感じていたという。「あれだけシュートを外してくれると、『こっちに(流れが)来るな』という思いもありながらやっていましたし、負ける気はしなかった」

 ぼくはかみさんに祈りを込めて言った。「韓国の過去の試合をみると、前半に飛ばしすぎて終盤に失速する。きっとそうなるよ」。左SBの山中は、ピッチでそれを感じたそうだ。「こちらがFKを取って早くリスタートしても、対応してこなかったりするようになっていた」。韓国側には体力的に限界が近づいていた。圧倒的な内容で押し込んでいることから、精神的な油断もあったのか。

 後半15分、日本ベンチは予定通り「切り札」を投入した。MF大島に代えてFW浅野を最前線に送り込み、4−4−2にシステムを戻した。韓国の監督は、前日の記者会見で「日本対策はじゅうぶんに研究している」と自信をみせていた。だが、スピードFW浅野に対して韓国は意外にも何の対応もせず、日本の記者団はちょっと驚いたそうだ。「浅野が今大会はまだ点を取っていないということで、日本の快足ストライカーを少々なめていたのかもしれない」と書いた記者もいた。

 右サイドでボールを受けた矢島のスルーパスから飛び出した浅野が、冷静に右足でGKの頭を越して1点をもぎ取った。その1分後、山中のドリブル突破からのクロスに矢島が頭で合わせて、試合は瞬く間に振り出しへもどった。

 さらに、後半36分、カウンターから抜け出した浅野が逆転の3点目を決めた。浮き球のクロスがくるところ、相手DFに体をぶつけてバランスを崩させ、圧倒的な速さで振り切って、今度は左足でゴール右ポスト脇にたたき込んだ。

 浅野ってあんなにうまかったっけ? まさに世界クラスのスピードと決定力でヒーローとなり、「ジャガーポーズ」でベンチ前の仲間たちに突進した。

 サッカーで後半途中の0-2は「野球の9回裏0-5くらいの感じだ」と江川卓さんは『Going』で言った。ピンチはチャンス。圧倒的な劣勢をひっくり返したのは、自分たちを信じる気持の強さがあったからだろう。なんだか、こっちもすごく励まされた。「百折不撓」というわが座右の銘が脳裏に浮かんだ。百回折れてもまだくじけない、という諺だ。

 表彰式が終わり、監督、選手、スタッフは白いTシャツに着替えた。優勝を見越して用意していたのだろう。胸には’WE DID IT'と染め抜かれていた。

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