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明治維新を逆から見ると

 山口県萩市、松陰神社境内の一画にある売店という名の土産物屋は、修学旅行の高校生らでにぎわい、「松陰先生まんじゅう」や「松陰餅」が売れていく。棚には、松陰の辞世の一首をつづった絵皿が飾られている。

 吉田松陰が再興した私塾・松下村塾は、その境内にある。というより、いまも建物がのこる塾の土地に神社が創建された。明治40年、松陰は神になった。そして、昭和30年、大きな松陰神社が建てられ、創建当初の社はおなじ敷地内の奥に移築され、松門神社とされて塾生や門下生など53人を祀っている。

 松下村塾は、松陰の実家・杉家の小屋を改造して作られ、のちに松陰や塾生が自分たちの手で増築した。みすぼらしい造りだが、そこで1年余り、松陰は塾生らに『孟子』や兵学などを教えたと伝えられる。塾生には、全国の倒幕の志士の総元締の役割を果たした久坂玄瑞らがおり、その死後に、藩論を倒幕にまとめ幕府軍を打ち破った高杉晋作がいた。

 明治維新を成し遂げた「官軍」側からみれば、松下村塾は文字通り聖地であり、そこに松陰神社が建てられるのは、自然な成り行きだったのだろう。かつて、インド人の親友プラメシュからこう聞いたとき、面白いと思った。「ヒンドゥー教では、新しい神がどんどん生まれているんだ」。だが、考えてみれば、神道でも、菅原道真や吉田松陰などの御霊が新しい神として祀られてきたわけだ。

 そして、時が経つとともに、ますます神格化されていく。われわれは、松陰神社や「松陰先生まんじゅう」を抵抗もなく受け入れる。境内にある「至誠館」に展示されている、獄中の松陰が刑死直前に書き残した「留魂録」の現物をみて、幕末には偉い人がいたんだと感心する。NHK大河ドラマ『花燃ゆ』で、イメージはさらに固定された。

 だが、それは官軍側からみた歴史観にすぎない。明治維新とは本当は何だったのか、と問いかける書物がある。作家の原田伊織氏が書いた『明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~』だ。

 <そもそも長州・薩摩は、徳川政権を倒すために天皇を利用しようとしたに過ぎない。そのために「尊皇攘夷」という大義名分が必要となった>。長州藩が京都御所に攻撃を仕掛けた蛤御門の変をみてもわかるように、松陰らは心底、天皇を崇敬していたのではないとする。

 <「尊皇攘夷」を便法として喚き続けているうちに本当に気狂いを起こし「王政復古」を唱え、何でもかでも「復古」「復古」となり、大和朝廷時代が本来のあるべき姿であるとなってしまった。その結果、寺を壊せ、仏像を壊せ、経典を焼け、坊主を成敗せよ、となってしまった>

 廃仏毀釈として知られるこの政治運動は、<古来の仏教文化でさえ「外来」であるとして排斥した>。奈良の興福寺だけで2千体以上の仏像が破壊されたり焼かれたりしたという。批判的にみれば、毛沢東の文化大革命や現代のイスラム国(IS)と似ている。

 そして、<政権を奪うや否や一転して西洋崇拝に走った>。原田氏は、そこに、朝日新聞を知的基準とする「戦後知識人」や「ユーミン世代」とおなじメンタリティーを指摘する。あるとき、180度豹変するのだ。歴史を精神分析する心理学者の岸田秀先生は、「それが統合失調症の特徴だ」とぼくに解説してくれた。

 原田氏はこう述べる。<日本人は、テンション民族だといわれる。いわゆる「明治維新」時と大東亜戦争敗戦時に、この特性が顕著に表われた。その悪しき性癖は、今もそのまま治癒することなく慢性病として日本社会を左右するほど悪化していることに気づく人は少ない>

 松下村塾の歴史的意義についても、原田氏は手厳しい。<師が何かを講義して教育するという場ではなく、よくいって仲間が集まって談論風発、『尊皇攘夷』論で大いに盛り上がるという場であったようだ>

 ずっとのちに、松陰を師として崇め出したのは山縣有朋だった。その動機として原田氏は、自分に自信のない権力者、<現代でいえば、学歴、学閥に異常に執着する政治化や官僚、大企業幹部や一部の学者と同様>だとする。有朋を<長州閥の元凶にして日本軍閥の祖>と呼び、<日本の軍国主義化に乗って、雪だるまが坂道を転がるようなもので、気がつけば松陰は「神様」になっていた>と断じる。

 <百歩譲って、松陰が何らかの思想をもっていたとしても、それは将来に向けて何の展望もない、虚妄と呼ぶに近いもので、ひたすら倒幕の機会を窺っていた長州藩そのものにとっても松陰は単なる厄介者に過ぎなかった>

 明治という新しい国・時代を築いていこうとするとき、人びとには「神話」が必要だった。それが、萩であり吉田松陰であり松下村塾だった。

 原田氏はこう指摘する。<私たちは、明治から昭和にかけての軍国日本の侵略史というものを、御一新の時点から一貫してなぞって振り返ってみるという作業を全く怠っているのである>

 原田氏は、京都・伏見に生まれ滋賀県で幼少期を過ごした。この書物は、戊辰戦争に敗れ薩長に恨みをもつ土地の生まれではない人物による「もうひとつの日本近代史」だ。

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