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2016年6月

神韻縹渺 〈印象、日の出〉にまさるものはない

 豪雨によりパリを貫通するセーヌ川が決壊するなどして洪水となり、2106年6月初め、ルーブル、オルセー両美術館が収蔵品の移送のため閉鎖を強いられた。

 ぼくが家族を連れてルーブルへ行ったときは、3時間待ちだったので、すぐにあきらめてセーヌ河畔やノートルダム寺院を散策した。年間900万人ものひとが訪れるルーブルで、東京のラッシュアワーのように絵を見る気にはなれなかった。

 絵を見るには、距離感が大切だと思う。まず、精神的な距離感としては、その絵をよく知っているか、気に入っているかという点があげられる。物理的な距離感は、作品を近づいたりちょっと離れたりして見るということだ。個人の視力によっても、適当な距離はちがう。立ち位置を変えて見ると、その絵の奥深さを感じることができる。

 「ポーラ美術館コレクション モネからピカソ、シャガールへ」を見に、松江市の島根県立美術館へ行った。ぼくが子どものころにはまだこの美術館はなかったから、出雲へUターンして初めて訪れた。話には聞いていたが、ロケーションが素晴らしい。宍道湖の湖畔にあり、ロビーの全面ガラスから湖が見渡せる。特に夕陽がいいそうだ。美術館のロケーションとしては世界屈指と言っていいのではないか。

 平日の午前中だったので、観覧者はちょうどいいくらいの人数だった。ガランとしているのもいい絵を見るのにはさみしいし、ラッシュアワー並みではゆっくり絵を楽しめない。

 展示作品で一番有名なのは、ピカソの〈花束を持つピエロに扮したパウロ〉(1929年)かもしれないが、ぼくのお目当てはちょっとちがう。

 クロード・モネの〈セーヌ河の日没、冬〉(1880年)だった。パリのど真ん中ではなく、川岸に建物もほとんどないおそらくノルマンディー地方のセーヌに沈もうとする夕陽を描いている。じかに見ると、モネにしては第1級とは言えないだろうが、暮れようとする河の濃い青、夕陽と空のオレンジが印象的ないい作品だ。

 この絵を見たかったのは、ほぼおなじ色調で描かれた有名な1枚〈印象、日の出〉が、世界中の絵のなかでぼくの一番のお気に入りだからだ。モネ33歳、ぼくが生まれるよりちょうど80年前の1873年の作品だ。

 安井裕雄著『モネ 生涯と作品』(東京美術)で知ったのだが、この絵は、1874年に開かれた「画家、版画家、彫刻家等芸術家による“共同出資会社”第1回展」にモネが出品した12枚のうちの1点だった。

 セーヌ河が大西洋へと注ぐ郷里ル・アーヴルの港町を描いたもので、「一見、未完成かのような筆致を残した表現が、非難の的になった」という。当時としては、あまりにも斬新な画法だったのかもしれない。

 だが、そのタイトルから、モネやルノアールなどは後世「印象派」と呼ばれることになる。「――“共同出資会社”第1回展」も、絵画史では「第1回印象派展」と呼ばれていまにいたる。もっとも、ある批評家が〈印象、日の出〉を揶揄した言葉が定着したとされる。

 〈印象、日の出〉は、写実の対極にある。空と海が濃いブルーに染まるころ、鮮やかなオレンジの日の出が中空に浮かんでいる。モネは、あくまで脳裏に浮かぶ日の出の印象を描いたのではないだろうか、とも思っていた。だが、実際に港に向かって絵筆をとったらしい。まさに神韻縹渺(しんいんひょうびょう)たる1枚だ。

 モネの父は若いときに船員見習いをしていたが、モネ誕生時の職業は明らかではない。経済的な理由から、モネが5歳のとき、一家は父の異母姉を頼ってル・アーヴルに移り住んだ。

 のちにモネが画家を志望したのは、絵画を愛し自らも描いていたその伯母の影響があったかららしい。中学生だったころから、本格的にカリカチュア(似顔絵)を描いて売るようになった。1枚あたり20フラン、いまの貨幣価値で約2万円にもなったという。

 「15歳にして私はカリカチュアリストとしてル・アーヴル中に知られるようになったのです。もしそのまま続けていれば、今頃は億万長者になっていたでしょう」

 しかし、19歳のときに画家を目指してパリに出て、1歳下のルノアールなどと知り合った。モネとルノアールは、27歳のころいっしょに住んでいたこともある。やがて、後世に言う印象派が誕生する。

 だが、パリのサロン(官展)は、モネらの新しい試みに対して冷淡な反応しか示さず、仲間たちは相次いで落選した。そのため彼らは、サロン以外の発表の場を求めてグループ展の開催を考えはじめるようになった。

 運悪く1870年に普仏戦争がはじまり、モネは兵役を避けるために妻子とロンドンに逃れた。モネ、ルノアールを自宅に招き入れて支えてくれた画家仲間のバジールは、前線に赴き戦死してしまった。

 戦争とパリ・コミューンの打撃からフランス経済が急速に復興し、だぶついた金が美術市場にも流入してきた。「第1回印象派展」の開催にこぎつけ、フランス美術界に衝撃を与えたのには、そうした時代背景があった。

 モネには晩年の連作〈睡蓮〉など傑作はいくらでもある。そうした作品の一部は、松江市でも出品されていた。しかし、ぼくのなかでは〈印象、日の出〉にまさるものはない。

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日本のそこにテロリストがいる

 昭和文学全集(小学館)の巻26を本棚から引っ張り出して、吉村昭の小説『星への旅』を読んだ。この作品は、昭和41年(1966年)、第2回太宰治賞を受賞したそうだ。もしこの作品が2016年のいま発表されていたらどうだろう、と思いながらページをめくっていった。

 小説であり展開は複雑だが、あえて筋立てを整理すると、以下のようになる。

 主人公の光岡圭一は、大学受験に失敗し予備校生となった。朝、家を出ても予備校へ行く気にはなれず駅のベンチに座っていたところ、画塾に通っているという三宅と知り合う。彼は、美容学校生の槙子、予備校生の有川、定時制高校生の望月の4人グループに圭一を誘った。彼らは、まったく何もすることがない点で、圭一と共通していた。

 圭一の父親は大学教授で帰宅しても書斎に閉じこもり、主婦の母親は稽古事に外出しがちで、彼は広い邸のなかで放置されていた。予備校生となって2か月後、いまで言う五月病にかかった。

 <体が晩春の夕空に浮上して行くような、内部に満ちていたものが跡形もなく気化してまたたく間に自分の体が一つの形骸に化していくような、虚ろな気分であった>

 予備校生・有川の口癖は「戦争でもおっぱじまらねえかな」だった。<かれの観測によれば戦争の発生は目前のことで、その発端はアジア地区にあって日本でもクーデターが起り、戦争の渦中にかれらも積極的に参加させられることになるのだという。戦争は、壮大な破壊であることにはちがいないが、破壊こそ人間社会の進化を推しすすめてきた原動力であることを考えれば、その破壊行為に自分はすすんで参加する意義を感じる……と、かれは力説するのだ>

 槙子は美容整形をくり返し<自分の過去と全く絶縁した新しい女の顔を持ちたい>という願望を持っていた。望月は、阿片の吸煙に憧れ、その資金をつかむため金庫破りを空想していた。三宅は、人を集めて組織化することばかり考えていた。

 <かれらは、こんな風にそれぞれに異った意見をいだいて、時折思いついたように倦怠感を追い払おうと突飛な企てを口にし合っていた>。あるとき、望月が「死んじゃおうか」と投げやりに言った。それをきっかけに、<或る思いもかけない熱っぽいものが、かれらを支配しはじめていたのだ><仲間たちの間に、今までには感じられなかった得体の知れぬ活気のようなものが流れはじめていることはたしかだった>

 <旅立ちが、いつの間にか自然の成り行きのように圭一たちの間で決定され、三宅を中心にしてその内容が積み木細工のように入念に組み立てられていった。初めの頃感じられた死に対する悲壮感は徐々に影をうすめ、かれらは、死という言葉を陽気にもてあそびながら旅の企てを熱心に検討し合った>

 <旅の目的地は、簡単に北国の海辺ときまり、地図の上で、圭一たちは、小さな漁村を探し出した>

 有川がホロつきのトラックを確保し、運転手役に名乗り出た。ガソリンを入れたドラム缶、毛布、食料などを荷台に積み、5人そろって出発した。ほかに三宅が知り合った自殺志望の男女3人も同乗させ、旅の途中で降ろしてやった。その男は貨物列車に飛び込んで死に、女性ふたりは手に手を取って森のなかへ消えた。

 圭一は、<幼い頃、死者は昇天して星の群の一つに化するのだという話を、祖母からきいた記憶がある>。5人は北国の漁村へ着き、海に入ってはしゃいだりしながら、死に場所を探した。場所が決まると、服のポケットに石を詰め、互いの体をロープで縛り合って、断崖から身を投げた――。

 アメリカのフロリダ州で2016年6月、銃乱射テロによって100人以上を死傷したアフガニスタン系の容疑者(29)は、フェイスブックに「イスラム国への空爆に対する復讐だ」などと書き込んでいたとされる。

 もし、圭一たちがいまの時代に生きていて、ただ、集団自殺するだけでなく、何らかの「大義」を掲げ「どうせ死ぬなら派手にいこうぜ」と考えたらどうだろう。たとえば「イスラム国(IS)指導者に忠誠を誓う」という口実とおなじようなものを見つけたら。
 

  死を覚悟すれば、どんなことでもできる。日本で自動小銃や爆弾を手に入れるのは、アメリカとちがいたやすくはないが、凶器はその気になればいくらでもある。

 2008年6月に起きた秋葉原無差別殺傷事件の凶器は、車だった。25歳の青年が2トントラックで歩行者5人をはねとばし、通行人・警察官ら17人を、両刃のダガーナイフで立て続けに殺傷した。

 2016年6月21日には、北海道の釧路で、男(33)が女性らに包丁で切りつけ、ひとりが死亡3人が負傷した。犯人は「ぼくの人生を終わらせたくて、殺人が一番死刑になると思ってひとを刺した」と供述したという。精神疾患に悩んでいたとされる。

 もし、ふたつの事件の犯行動機が政治的なものだったら、立派なテロリストだった。

 いま50年の時を経て、『星への旅』に映画化またはマンガ化の話が浮上すればどうだろう。若者たちの「寝た子を起こす」ことにはならないか。圭一たちは、ホームグロウン(自国育ち)のテロリストまであと一歩、という気がしてならない。

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3つのバトルが面白い 安倍vs.民進党、vs.財務省、vs.朝日

 安倍晋三首相が、消費増税を2年半先送りした。「消費の落ち込みを防ぎ、デフレ脱却を確実にする狙い」だと説明した。

 これについて、ロイター通信は批判した。<増税見送りでも、消費の弱さのベースとなっている課題は解決されないうえ、増税を見送れば、社会保障の負担拡大など消費者が抱える将来不安の解消も遠のき、購買意欲がさらに委縮する悪循環に陥る可能性すらある>

 さて、バトルだ。首相は、伊勢志摩サミットで「リーマン級の世界的危機が再来するリスクがある」と言った。その際に示した資料を民進党は問題視し、「国際機関でもそうした予想はなく消費増税の口実だ」と批判している。海外メディアもおなじような見方をし、安倍政権の経済・安保政策を基本的に支持している読売新聞をふくめ、日本のほとんどのメディアも批判した。

 だが、東大の数学科を出て旧大蔵省に入った異色の経歴をもつ数量分析家で経済学者の高橋洋一氏は、首相を擁護する。

 <中国経済については、隣国日本にとってリーマン・ショック級になっても不思議でないほど悪化している><中国を名指ししなくても、ロシア、ブラジルなどのBRICS諸国の経済成長のリスクを考えるのは、経済分析としてはイロハである。安倍首相はそういったことをサミットの場で率直に話したのだろう。リスクを認識するのは、現状分析で欠かせない>

 民進党は「その資料を誰が作ったのかが分からない、官僚が作っていないから問題だ」とした。だが、高橋氏はそれを「幼稚な話だ。将来のリスクという不確かな話は官僚の苦手な分野なので、政治的な直感を活用して資料をつくってもいいだろう」とする。元大蔵(財務)官僚が言うだけに説得力がある。

 財務官僚は、頭のいいひとがそろっているというイメージがあるだろう。でも、将来予測や大局的な分析は苦手だというのは、ぼくの知り合いの財務官僚にもあてはまる。そういう訓練を職業として受けていないのだからしかたがない。

 <前提として、民進党も消費増税を見送る意向は一致している。だから、彼らが何を批判したいのかさっぱりわからない。民進党はアベノミクスの失敗というが、民進党が批判する安倍政権の金融緩和は、雇用の改善という結果を出している><民主党政権では就業者数は30万程度減少したが、安倍政権になってから100万人以上増加している>

 こう指摘する高橋氏は、政治家や財務官僚とは距離を置いてデータの数字をもとに分析するので、ぼくは信頼している。財務にかぎらず、集団的自衛権の違憲論で騒ぎになったときも、冷静に論じてさすがだった。

 <GDPの低迷は、民主党時代に成立した消費増税法のためである(3党合意があったので、自公の責任も免れないが)。今回の消費増税の先送りは、……やる場合とやらない場合のメリット・デメリットを合理的に判断した結果である>

 さて、もうひとつのバトルだ。消費税を5%から8%にあげる際、財務省は「消費増税の影響は軽微」と説明し、増税後実際に悪影響が出ても「せいぜい3、4か月」と言っていた。しかし、高橋氏は「トンでもなく間違った説明をしていた」と切り捨てる。

 経済には「構造失業率」という言葉がある。雇用のミスマッチなどで、それ以下に下げられない「失業率の底」を意味する。日銀は構造失業率を3%前半とみているが、高橋氏によればそれもまちがいで、<きちんと推計すると、構造失業率は2.7%程度。だから、まだ賃上げは本格化せず、物価も上がりにくいというわけだ>

 財務省は「日本の借金が1000兆円ある」と言い、日本の常識みたいになっている。それは「財務省のプロパガンダ」だと高橋氏は断言する。<財政状況を見るには、政府だけではなく、中央銀行を含む政府の関連会社を含めた連結ベースのバランスシートを見なければならない>

 実質的な債務残高は170兆円程度にすぎない、と彼はかねてから言いつづけている。これが最大のキーポイントだ。<残念ながら、マスコミは財務省のプロパガンダによって、「日本の財政は悪化しているので、消費増税は避けられない」と思いこんでいる>

 まさか、天下の財務省がそんな大嘘をつくはずがない、とみんな思っている。なぜ嘘をつくのか、その理由は諸説あるが、財務省の利権にかかわるとの指摘もある。増税しないと少子化や高齢化対策の財源がなくなるというのは、財務省が創り出した「神話」かもしれない。

 さすがの安倍首相も、面と向かって財務省を嘘つき呼ばわりはできない。だが、消費者が抱える将来不安は、根拠があいまいで、たぶんに心理学的なものと言える。

 最後のバトルがvs.朝日新聞だ。「首相はまた逃げるのか」などと社説で批判した。しかも、3日連続、ヒステリックに批判の社説を掲げた。消費が冷え込み法人税などがおちこめば財源確保どころではなくなり、本末転倒になる恐れに朝日は目をつむった。いつものことながら、朝日は現実が直視できない。

 増税を先送りしてどうなるか。首相と財務省、朝日、どっちの言い分が正しかったかは、東京オリンピックのころに答えが出るはずだ。

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牛骨の牛骨による牛骨のためのラーメン

 牛骨ラーメンを食べながらこう考えた。
 う、うまい!

 でも、インドのヒンドゥー教徒は食べられなくて可哀想だ。インドネシアのヒンドゥー教徒もおなじだろうが。

 ヒンドゥー教では、牛は神さまの使いとされ、それがもたらしてくれる牛乳は大いに飲み、バターでご神体をつくったりする。でも、牛肉を食べるのはもってのほかで、牛皮の靴をはいていてヒンドゥー教原理主義者に襲われたひともいるくらいだ。

 逆に、イスラム教徒は豚を食べない。ハラールという言葉を知っているひともいるだろう。アラビア語で「許された」の意味で、イスラム教の教義に従って必要な作法どおりに調製された「ハラール肉」などのことをいう。

 おなじ肉でも、きちんと宗教ルールにのっとって処理されたものしか、彼らは口にしてはいけないのだ。いま日本にも多くのイスラム教徒がやって来ていて、東京オリンピック時にはピークになり、ハラール食品が不足するのではないかとニュースになっている。

 さて、牛骨ラーメンは鳥取の名物だ。先日、米子市へ行く用があり、事前にネットでうまそうな店を調べてから出かけた。

 米子鬼太郎空港のある弓ヶ浜半島を南下すると、あったあった、お目当ての店がポツンとあった。商店街にあると勝手に思い込んでいたら、新興開発地に一軒家として建っていた。

 店内はざっと30席あり、明るいウッディな造りだ。正午までには少し時間があったが、作業服を着たお客さん数人が食べていた。かみさんと相談して、牛骨ラーメン650円と初体験の牛骨坦々面700円を注文した。

 壁には「ランチは半ライスをサービス」とある。坦々面には白飯が合うな、とは思いながらウエスト回りを気にしてやめておいた。

 若いウェートレスさんが、運んで来てくれた。まず坦々面のスープを飲むと、赤唐辛子の辛さが牛骨の出汁にちょっと勝ちすぎている。ラーメンのほうは、繊細な牛骨の出汁を消さないようあっさりした塩味で、こっちのほうが断然いける。

 それにしても、豚骨ラーメンは全国に普及しているのに、どうして牛骨ラーメンはこうも珍しいのだろう。

 店のレジ横に『鳥取牛骨ラーメン大全』という冊子があったので、一部もらってあとでじっくり読んだ。

 鳥取牛骨ラーメン応援団ならぬ応麺団なるものが結成されているそうで、専門店、焼き肉店、食堂など県内66店の牛骨ラーメンがカラー写真つきで紹介されている。

 ぼくたちが訪れた店は「牛骨の旨味を徹底追求すべく、スープは牛素材100%」がうたい文句となっていた。たしかに化学調味料などを入れていないのは明らかで、スープを全部飲み干すのが礼儀かと思わせるものがあった。

 冊子の巻末には、応麺団顧問を名乗る植田英樹さんが、牛骨ラーメンの来歴をつづっている。

 ルーツは1900年代初頭の中国西部・蘭州にあるという。清の光緒年間(1875~1908年)に、「蘭州牛肉拉麺」なる清湯のスープ麺が考案された。その地域はイスラム教徒が多く、現地の食堂では、いまも牛骨スープに牛肉を乗せた麺が人気を博しているそうだ。

 やっぱり、イスラム教徒がからんでいた。一般に、食と宗教は深いつながりがある。乳製品の醍醐などは、もろに仏教から来ている言葉だ。

 第2次世界大戦で日本が敗れるまで、中国北東部には満州帝国があった。そこに入植していたある日本人が、かの地で覚えた牛肉拉麺の味を祖国に持ち帰ったのだという。

 鳥取県での牛骨ラーメンの発祥は、したがって、昭和21年ごろとされる。つまり、今年は誕生70周年の記念すべき年にあたるわけだ。昭和23年ごろ、倉吉市の食堂「松月」でメニューとなり、そこで作り方を教わった食堂経営者たちが県中西部地区に広めた。

 この地域で広まった理由としては、子牛売買が盛んだったことがあげられている。当時、「鶏ガラはお金を出して買ったが、牛骨はほぼ只」で、しかも、10時間以上煮ても味が出つづけるというメリットがあり、よく使われるようになった。

 ご当地グルメ誕生の背景には、その地で安定的にかつ比較的安く手に入る食材があることが不可欠だと、植田さんも書いている。

 戦後間もなくの食材が手に入りにくい時代に、鳥取県中西部で牛骨ラーメンが広まったのは、いわば必然だった。

 牛骨系ラーメンは旧満州から鳥取県へ、醤油系ラーメンは上海あたりから横浜・東京へ、ちゃんぽん系は福州あたりから九州・沖縄へ伝わったと考えられている。

 神戸へ行ったとき、三宮に牛骨ラーメンの店をみつけ、鳥取から流れて来たのかなぁと思ったことがある。

 冊子によると、“牛骨の祖”とも言われる店「香味徳」は、2010年、銀座店をオープンさせたそうだ。牛骨ラーメンが全国に広まる日は来るのだろうか。

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量子力学で生命の謎を探る

 ぼくには「三種の神器」がある。仕事で使うのはノート・パソコン、スマホにプリンター兼スキャナーの三つだ。以前はこれにファクスも加わっていたが、いまでは出版社からのゲラ刷りも、ネット経由のPDFで送ってもらう。

 この三つの神器に共通しているのは、いずれも量子力学があってはじめて製品として開発されたことだ。

 量子力学はざっと1世紀前、分子や原子、それよりさらに小さい電子、物質の最小単位とされる素粒子などをあつかう物理学理論として誕生した。

 原子や電子が「粒子」としての特徴を示す一方で「波」としての特徴も示す。光や電波のような電磁波もまた、「波」と「粒子」としての特徴を示す。これらの粒子性と波動性は同時には現れず、粒子的な振る舞いをする場合には波動的な性格を失い、逆に波動的な振る舞いをする場合には粒子的な性格を失う。

 それよりもっと不思議なのは、量子力学が示す自然現象つまり量子現象では、ある対象を観察しているときと観察していないときでは、その対象のあり方が変わってしまうという現実だ。観察という行為そのものが対象に作用してしまうのだ。

 観察とは何かと考えさせられる。それが「意識」を持つ人間のものであるか、「意識」を持たない猫であるか、あるいは無生物であるかによって現象が区別される。つまり、常識では理解しずらいことが起きる。

 ぼくたちの常識とはこうだ。北極星であれ海のイソギンチャクであれ、物理的な存在は、人間が観察しようがしまいが星でありイソギンチャクだ。もし、観察者の「意識」がそれに作用するのだとすれば、物質と意識(ないし心)はある種の相互作用をしていることになる。

 量子力学は、哲学的というか宗教的というか、ぼくたちに「この世界はどうなっているのか」と立ち止まって考えることを要求する。この世は物質と意識が互いに干渉せず別々に存在している、とする考え方を根本から変えてしまう。物質と心を分けて考えなかった古代の素朴な宇宙観にもどっていくのか。

 『量子力学で生命の謎を解く』という本を読んだ。イギリスの理論物理学者と分子生物学者が共著として出版した。一般向けに書かれたものではあるが、細かい活字の分厚い著作で、仕事のあいまあいまに4か月近くかけてゆっくり読んでいった。

 理論物理学としてはアインシュタインの相対性理論があまりにも有名だが、著者ふたりは、それを「古典物理学」と呼んでいる。量子力学からみれば、相対論は「もう古い」ということらしい。

 著者らは、量子世界の「不気味さ」について語る。波動と粒子の二重性が第一で、第二は粒子が壁を通り抜けるということ、第三は粒子が同時に二通りあるいは100通りや100万通りの振る舞いをすることができる「重ね合わせ」と呼ばれる現象だ。この第三の現象では、1個の粒子がふたつの穴を平気で同時に通過したりする。

 さらに興味をそそるのは、量子もつれという現象だ。「それは量子力学のなかでもおそらくもっとも奇妙な性質だ」とされていて、「いったん一緒になった粒子どうしは、互いにどれだけ遠くに引き離されていても、魔法のように瞬時にコミュニケーションを取れる」というのだ。

 高校生のころぼくが読んだ相対論の本では「宇宙でもっとも速いのは光だ」とされていた。だからたとえば、地球と北極星までの距離を表すのに光年という単位を使う。光が到達する時間で距離を測るのだ。

 地球と北極星ほど離れていても瞬時にコミュニケーションを取れるのなら、相対論などぶっ飛ばしてしまう。共著者によると、ブラックホールや時空の湾曲を理論で導いたアインシュタインでさえ、この現象を受け入れようとはせず、「不気味な遠隔作用」と呼んでバカにしたという。

 こういう現象が確認されると、テレパシーなどの超常現象も量子理論で説明できるのではないか、と素人の身では考える。だが、この本の著者らは「突拍子もない主張」だとし「量子もつれを引き合いに出してテレパシーの存在を証明することはできない」と釘を刺す。とはいえ、将来、そっちの研究も進んで、テレパシーのメカニズムが量子理論で解明される日が来ないとはいえない、ともぼくは思う。

 この本では、主に生物学に焦点を合わせて書かれている。特に、生命とはなにかを量子理論によって探求する。「どうやら生命は、一方の足を日常の物体からなる古典的世界に置き、もう一方の足を奇妙で変わった量子の世界の深淵に据えているらしい」「生命は量子の縁(ふち)に生きているのだ」

 生命が誕生したメカニズムが解明できれば、われわれの手で生命を創り出すことができる。そのために、量子理論でアプローチする。量子生物学は急速なスピードで発展し大きな盛り上がりをみせているという。

 だが、本書の結論として、現段階では生命の謎はまだ解かれてはいない。原書のタイトルは”Life on the Edge(縁の上の生命)"となっている。

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