« 2016年7月 | トップページ | 2016年9月 »

2016年8月

土用にはドジョウを食べるべし

 ひょうきんな「どじょうすくい踊り」は、安来節に合わせて踊られる。そのドジョウは、意外にも、地元の島根県安来市では食べる習慣がなかったらしい。いまでは全国屈指のドジョウ養殖地となり、市観光協会は「どじょう丑の日キャンペーン」を、2016年8月20日まで、市内の飲食店など8店舗で展開している。

 山陰のローカルテレビ番組で、そのことを知った。世界一の名庭園で知られる足立美術館に隣接し、さぎの湯温泉の旅館街がある。番組が紹介していたのは、そのなかの1軒「竹葉(ちくよう)」だった。

 希望者には、日帰りの「どじょう会席」コースがあり、温泉入浴料、室料、税サービス料込みで4860円だった。

 ドジョウを久しぶりに食べたいな、とさっそくかみさん分をふくめ電話予約した。

 わが家から竹葉までは、カーナビの案内どおりに愛車を走らせ、1時間20分で着いた。旅館に専用駐車場はなく、となりの足立美術館に停めればいいという。徒歩なら美術館まで1分とかからないが、車止めがあり、ぐるっと大回りして所定の場所に停めた。

 30歳代の若い大将が部屋に案内してくれ、すぐに温泉につかった。ちょっと狭いが、いいお湯だった。

 風呂からあがると、部屋のテーブルには、すでに先付けが用意してあった。かみさんが風呂から帰るのを待ち、ぼくは生ビールを注文した。ギンギンに冷やしたジョッキに泡があふれている。一気に喉に流し込んで、まずは先付けのどじょうの佃煮から試した。これは初めて口にしたかもしれない。

 茶碗蒸し、チーズの生ハム巻き、ゴマ豆腐、長イモのしんじょう風など、それぞれにきちんと手がかけられている。料理を運んできた若い仲居さんが、刺身盛り合わせの説明をしてくれた。「ヨコワとカンパチ、タイです」

 ヨコワとは初めて聞く名だが、あとで調べると、クロマグロの若い魚のことで、高知県 や中国地方での呼称だった。「脂が乗っていて美味しいですよぉ」

 ぼくたちが観たテレビ番組では、30歳代と思われる美人女将が出ていた。料理をつぎつぎと運んでくる仲居さんは、入れ替わり立ち替わりで、まだ本命は登場しない。

 3人目に現われた仲居さんに、料理を思いっきりほめた。「ひとつひとつにちゃんと手をかけていて、素晴らしいです」「わぁ~、ありがとうございます。オーナーの板さんに伝えておきます」

 メインの柳川ひとり用鍋に火を点けてくれた。「その卵を溶いて、煮たってきたら回しかけてお食べください」

 鍋ができるまでにとどんな地酒があるか、聞いた。『月山』の辛口と甘口がお勧めだという。辛口を頼んだ。月山は標高197mで、月山富田城は安来市にあった城だ。戦国時代に山陰の覇者・尼子氏が本拠を構え、170年間の尼子氏六代の盛衰の舞台となった。

 そろそろ柳川鍋が煮えて溶き卵を回し入れる。れんげで器にすくって食べると、ゴボウが効いていて懐かしい味がした。かみさんに、東京・浅草の名店『駒形どぜう』の話をしながら、鍋を堪能した。

 ついに美人女将が現われ、どじょうの唐揚げとどじょう汁を持ってきてくれた。これと言って地場産業のなかった安来市で、ドジョウの養殖をはじめたのは10年くらい前だという。休耕田を利用して稚魚を放ち、食べごろになったところで市内外へ出荷する。

 「駒形どぜうにも卸しているんですよ」。泥臭さはまったくなく、骨も柔らかでそのまま食べられる。ドジョウ料理は初体験のかみさんも、「美味しい、美味しい」と箸を盛んに運ぶ。醤油ベースのドジョウ汁も絶品だった。

 「いまウナギは高いから、〈土用にはどじょうを〉で食べにきました」。そう言うと、美人女将は「それ、キャッチコピーとしていただきます!」と明るく笑った。「土用の丑の日にはうなぎを」と定着させたのは、俗に平賀源内だとされる。安来の〈土用にはどじょうを〉も定着すると面白い。

 ドジョウは立秋前の夏の土用から秋にかけてが旬だそうだ。カルシウムやビタミンDが豊富で、ウナギとおなじように夏バテ予防に効く。さぎの湯温泉の旅館街が、どじょう料理で売り出したのは、近年のことだという。

 ローカル紙には「どじょう丑の日キャンペーン」の記事が出ていたが、よくあることで、地元の旅館・飲食店でキャンペーンが徹底されているわけではない。そろいの幟でもこしらえて旅館街にずらっと立てればムードも盛り上がるのだろうが、まだそこまでいっていない。

 「ところで、この数々の料理はきちんと手をかけていますが、ご主人はどこで板前修業されたんですか?」

 「都会の店で修行したわけではなく、地元でベテランの料理人に師事して覚えました」

 ご主人と女将さんは、どじょうすくい踊りを本格的に習い、準師範の資格を持っている。お座敷で披露することもある。師範になると、難しく珍しい「ふたり踊り」ができるそうだ。それはさすがに見たことがない。次回のお楽しみに取っておこう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ドキュメント 甲子園アルプススタンド

 持参の温度計は、38度を示していた。「ただここに座っていろ」と言われたら、拷問だ。それでも、一塁側アルプス席で、逃げ出したくなるような暑さは感じなかった。

 ぼくたちはなぜ、日の出前に起きて、バスで4時間もかけて甲子園へやってくるのか。そしてなぜ、母校の応援に声をふりしぼるのか。アイデンティティーを確認するためではないだろうか。青春の3年間、自分はたしかにあの学校で日々を送ったと確認するために。

 フランスでテロに走った若者たちは、例外なくアイデンティティーが錯乱していた。イスラムのルーツを持ちながら、キリスト教文化圏で暮す移民の子どもたちだった。ひとは、アイデンティティーが乱れると、心理的に安定して生きて行けない。何歳になっても、ひとは自分が何者なのか、アイデンティティーを確かめようとする。

 母校・出雲高校が夏の甲子園に初出場する。その事実に、同窓会というマシンがフル回転した。各期卒業生の緊急会議が開かれ、億単位の金を集める算段が伝達された。同窓生は寄付集めに奔走し、同時に、応援団への参加申し込みに走った。

 応援バスツアーの申し込みは、2016年8月5日の午前9時から受け付けられた。地元の旅行会社の電話はずっと話し中だった。それでも5回目にかけたとき、奇跡的につながった。あとで、席を確保できなかったひとがたくさんいたと知った。JRで甲子園に向かったひとも少なくなかった。空前でおそらく絶後の甲子園、春夏連覇をねらう智弁学園が相手でたぶん2回戦の試合はない。それが同窓生を、この「ひと試合」に殺到させた。

 バスでとなりの席になったのが、清水清治さんだった。出雲高校の2期卒業で、もうすぐ84歳になるという。出雲応援団のなかでも、おそらく最高齢ではないか。島根県立高校の数学の教師をしていた。いまでも軟式テニスと晩酌を楽しみ、小柄ながらかくしゃくとしている。

 安来高校に勤めていたとき野球部長をし、あと一歩で甲子園というところまでいったという。ぼくの亡父も、出雲産業(現・出雲商業)の野球部長をしていて選抜大会に出た。小学2年のぼくは、甲子園土産にもらったグローブが宝物になった。

 夏の甲子園は、若いころ、取材で2週間ほどいた。連日の猛暑の激務で、大会が終わるとどうじに体調を崩し、奈良の親友宅に泊めてもらって回復を待った記憶がある。

 蔦のからまる球場の外でさんざん待たされたあげく、アルプススタンドに入った。対戦する奈良の智弁学園は、おなじみの白地に赤で「C」の人文字を作りだした。こちらは、急きょ編成された約60人の吹奏楽団と赤いボンボンを手にしたチアリーダーの女の子たちが、陣取った。楽団の半数は卒業生だった。

 応援バスのなかでは、赤白の野球帽と赤のメガホン、高校の名入りの白い応援タオルが配られた。これも、出場が決まって急きょ注文したのだろう。赤と白のカラーは、智弁学園と完全にかぶるが、応援団の一体感に統一グッズは欠かせない。

 1回、出雲のエース原暁は、いきなりヒットを許し、バントで送られた。相手2年生の3番が強振し快音を残した。アルプス席からは打球が見えない。センター橋本典之が背走してすぐにあきらめた。ライトからレフト方向への「浜風」をものともせず、打球はライナーでバックスクリーンに飛び込んだ。やや高めのチェンジアップだった。島根にこれほどの打撃をする選手はいないだろう。

 アルプス席では、大きなため息がもれた。なんとか敵の攻撃をしのいでまず先制点を、という望みは打ち砕かれた。

 出雲の攻撃に移ると、応援団は総立ちでメガホンを打ち鳴らす。3番新宮健太がライト前へヒットを放った。「これで、少なくともノーヒットノーランはなくなったぞ」

 2回の表がはじまるときには、球場に校歌が流れた。同窓生たちは声を出して歌ったが、在校生はなぜか口を開かない。松本さんが「ぼくたちがいたころには、まだ、校歌はなかったんですよ」と語る。

 3回裏、先頭打者の7番原が、ショート超えのヒットで出た。つづく水滝一貴がバントをきっちり決める。「よーし、それが山高野球だ!」。誰かがメガホンで叫ぶ。出雲高校は丘の中腹に建ち、地元では「山の学校」「山コウ」と呼ばれる。

 2死から1番橋本が思いきり引っ張った。レフトは一瞬前に出ようとしてから背走した。その頭上を打球は超え、2塁にいた原は一気に生還した。「ヤッタアーッ!」。応援団から、悲鳴のような歓声があがった。こんな、うれしさが爆発したのはいつ以来だろう。

 相手のナインは体つきも一回り大きく、言わばセミプロだった。それに「高校の部活」が挑んでいる。1点を取っただけでも上出来だった。

 清水さんが大きな梅干しをくれた。奥さんが持たせてくれたものだという。

 エース原の出来は悪くはなかった。しかし、智弁のスウィングは鋭かった。途中、ファースト加藤雅彦にマウンドを託したが加点され、1対6で試合は終わった。堂々と戦った。

 「冥土の土産ができました」。松本さんは胸ポケットに一葉のモノクロ写真を忍ばせていた。同期の第3代野球部主将、故・公田茂さんがある大会の優勝カップを手にしている。

 出雲ナインが、一塁側アルプス席へ走り寄ってきて整列し、一礼した。「よくやったァ!」「ありがとォーッ!」。同窓生は、みな目頭を熱くしてメガホンを打ち鳴らした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

障害者19人惨殺は、本邦第1号ネオナチのテロだ

 相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」の入所者19人が惨殺された。その一報を聞いたとき、精神病患者の犯行だろうと思った。だが、詳細が少しずつ明るみにでるにつれ、元職員・植松聖容疑者(26)は決して狂人ではなく、冷静に計画的に犯行におよんだことがわかってきた。

 植松が書いた衆院議長あて手紙の全文も報道された。

 〈常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れ切った表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第です〉

 〈私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死する世界です〉

 このくだりを読んですぐ、植松はナチ思想に感化されたのだろうと思った。ドイツなどには、いまもヒトラーを尊崇し、ナチズムをあがめるたくさんのネオナチがいる。

 植松の自宅を家宅捜索すれば関連本がでてくるとみたが、実際にはでてこなかったらしい。だが、大学時代にヒトラーの思想を学んだことがあった、とあるテレビは伝えていた。2月の措置入院時、「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」と話していたとされる。

 なにがきっかけかはまだわからないが、重度障害者に生きる意味はあるのか、と疑問を持ち、実際に施設で働いて現場を経験し、その意を強くしたのではないか。

 ナチズムと言えば、20年以上前、『ナチス もう一つの大罪 「安楽死」とドイツ精神医学』という書籍が出版された。ぼくはそのころ、いわゆる〈ドイツの過去〉を集中的に調べていたので、著者の精神科医に取材に行った。東京・上野のマンションのクリニックに医療設備はほとんどなく、小俣和一郎先生は白衣ではなくブレザーを着ていた。

 ドイツの過去と言えば、ユダヤ人大虐殺「ホロコースト」が知られるが、小俣先生は「価値のない生命」とされナチスによって虐殺された、数十万にのぼる身体障害者、精神病患者、結核患者、知的障害者、老人ホーム入居者などの悲劇について研究されていた。

 その虐殺計画を、ヒトラー政権は「T4作戦」と呼んでいた。たとえドイツ人であっても、障害者とみなされれば虐殺された。

 ドイツ近現代史を研究する日本人のある学者から「西洋合理主義の行き着いたところがナチズムだった」と聞いていた。その言葉が脳裏に焼きついており、小俣先生にも、〈もう一つの大罪〉をその観点から解説してもらった。

 「そもそもは、19世紀後半にヨーロッパで産業革命が大規模に進展したときにまでさかのぼる」と先生は語り出した。工業化が進み、人びとはキリスト教会から離れつつあった。一方で、1859年、ダーウィンの進化論『種の起源』がロンドンで発売され、自然淘汰(選別)という概念を提示した。弱肉強食、適者生存の法則だ。1900年のメンデルによる遺伝の法則発見にはじまる遺伝学も興隆した。

 ダーウィンは野生動植物について論じたが、のちにこれを人間社会にも当てはめようとする考え方が生まれ、19世紀末には社会ダーウィニズムと呼ばれる思想が大きく勢力を伸ばした。産業革命によって自然科学も急速に発達し、断種論や優生学が誕生した。

 加えて、ドイツの哲学者ニーチェの著作に散りばめられた寓話が、そのころの新しい思想に影響を与えた。

 やがて第1次世界大戦が勃発し、ヨーロッパは戦乱の地になった。ドイツが敗れベルサイユ講和条約が批准された1920年、ホッヘらふたりのドイツ人法学者が『価値なき生命の抹殺に関する規制の解除』を刊行した。これは障害者とくに精神病患者の安楽死を唱える書だった。このなかで、ホッヘらは「精神的死者」「お荷物」という言葉を使っている。

 敗戦国ドイツは、巨額の賠償金支払いに窮し経済は地盤沈下した。1933年、その不満に乗じたヒトラーが政権を取ると、安楽死の正当性を訴えるプロパガンダが盛んにおこなわれた。障害者には国家の金がかかるという経済的思考も安楽死を促進し、結果として数十万人がガス室で虐殺された。

 「T4作戦は、一部の狂信的な国家社会主義者(ナチス)だけの手で突出的に実施されたとの見方は誤りだ。作戦の最初の段階から、多くの、しかも専門的な医療関係者の協力が介在していた」と小俣氏は語った。

 社会や経済活動に貢献できない、ナチスの言う〈反社会的分子〉は抹殺すべきだとする政治思想は、ヒトラー時代のドイツにかぎったことではない。日本でも、1940年、ナチス断種法を焼き直した「国民優性法」が制定された。その適用は454件だけとされるが、これは当時の日本が、対象となるべき精神病患者をほとんど捕捉していなかったためだった。ナチス断種法の理念を否定しあくまで人道的に法律を制定・運用したためでは決してなかった。

 植松が感化された政治思想は、どの国、どの時代にも頭をもたげる恐れがある。植松は、ナチズムの思想をつまみ喰いして実行に移した。今後も第2、第3の植松が現われる可能性はある。政治目的の殺人などをテロという。あれはまさにテロだった。

 相模原の事件を欧米のネオナチ組織や日本の予備軍がどうみているかが、気にかかる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年7月 | トップページ | 2016年9月 »