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ドキュメント 甲子園アルプススタンド

 持参の温度計は、38度を示していた。「ただここに座っていろ」と言われたら、拷問だ。それでも、一塁側アルプス席で、逃げ出したくなるような暑さは感じなかった。

 ぼくたちはなぜ、日の出前に起きて、バスで4時間もかけて甲子園へやってくるのか。そしてなぜ、母校の応援に声をふりしぼるのか。アイデンティティーを確認するためではないだろうか。青春の3年間、自分はたしかにあの学校で日々を送ったと確認するために。

 フランスでテロに走った若者たちは、例外なくアイデンティティーが錯乱していた。イスラムのルーツを持ちながら、キリスト教文化圏で暮す移民の子どもたちだった。ひとは、アイデンティティーが乱れると、心理的に安定して生きて行けない。何歳になっても、ひとは自分が何者なのか、アイデンティティーを確かめようとする。

 母校・出雲高校が夏の甲子園に初出場する。その事実に、同窓会というマシンがフル回転した。各期卒業生の緊急会議が開かれ、億単位の金を集める算段が伝達された。同窓生は寄付集めに奔走し、同時に、応援団への参加申し込みに走った。

 応援バスツアーの申し込みは、2016年8月5日の午前9時から受け付けられた。地元の旅行会社の電話はずっと話し中だった。それでも5回目にかけたとき、奇跡的につながった。あとで、席を確保できなかったひとがたくさんいたと知った。JRで甲子園に向かったひとも少なくなかった。空前でおそらく絶後の甲子園、春夏連覇をねらう智弁学園が相手でたぶん2回戦の試合はない。それが同窓生を、この「ひと試合」に殺到させた。

 バスでとなりの席になったのが、清水清治さんだった。出雲高校の2期卒業で、もうすぐ84歳になるという。出雲応援団のなかでも、おそらく最高齢ではないか。島根県立高校の数学の教師をしていた。いまでも軟式テニスと晩酌を楽しみ、小柄ながらかくしゃくとしている。

 安来高校に勤めていたとき野球部長をし、あと一歩で甲子園というところまでいったという。ぼくの亡父も、出雲産業(現・出雲商業)の野球部長をしていて選抜大会に出た。小学2年のぼくは、甲子園土産にもらったグローブが宝物になった。

 夏の甲子園は、若いころ、取材で2週間ほどいた。連日の猛暑の激務で、大会が終わるとどうじに体調を崩し、奈良の親友宅に泊めてもらって回復を待った記憶がある。

 蔦のからまる球場の外でさんざん待たされたあげく、アルプススタンドに入った。対戦する奈良の智弁学園は、おなじみの白地に赤で「C」の人文字を作りだした。こちらは、急きょ編成された約60人の吹奏楽団と赤いボンボンを手にしたチアリーダーの女の子たちが、陣取った。楽団の半数は卒業生だった。

 応援バスのなかでは、赤白の野球帽と赤のメガホン、高校の名入りの白い応援タオルが配られた。これも、出場が決まって急きょ注文したのだろう。赤と白のカラーは、智弁学園と完全にかぶるが、応援団の一体感に統一グッズは欠かせない。

 1回、出雲のエース原暁は、いきなりヒットを許し、バントで送られた。相手2年生の3番が強振し快音を残した。アルプス席からは打球が見えない。センター橋本典之が背走してすぐにあきらめた。ライトからレフト方向への「浜風」をものともせず、打球はライナーでバックスクリーンに飛び込んだ。やや高めのチェンジアップだった。島根にこれほどの打撃をする選手はいないだろう。

 アルプス席では、大きなため息がもれた。なんとか敵の攻撃をしのいでまず先制点を、という望みは打ち砕かれた。

 出雲の攻撃に移ると、応援団は総立ちでメガホンを打ち鳴らす。3番新宮健太がライト前へヒットを放った。「これで、少なくともノーヒットノーランはなくなったぞ」

 2回の表がはじまるときには、球場に校歌が流れた。同窓生たちは声を出して歌ったが、在校生はなぜか口を開かない。松本さんが「ぼくたちがいたころには、まだ、校歌はなかったんですよ」と語る。

 3回裏、先頭打者の7番原が、ショート超えのヒットで出た。つづく水滝一貴がバントをきっちり決める。「よーし、それが山高野球だ!」。誰かがメガホンで叫ぶ。出雲高校は丘の中腹に建ち、地元では「山の学校」「山コウ」と呼ばれる。

 2死から1番橋本が思いきり引っ張った。レフトは一瞬前に出ようとしてから背走した。その頭上を打球は超え、2塁にいた原は一気に生還した。「ヤッタアーッ!」。応援団から、悲鳴のような歓声があがった。こんな、うれしさが爆発したのはいつ以来だろう。

 相手のナインは体つきも一回り大きく、言わばセミプロだった。それに「高校の部活」が挑んでいる。1点を取っただけでも上出来だった。

 清水さんが大きな梅干しをくれた。奥さんが持たせてくれたものだという。

 エース原の出来は悪くはなかった。しかし、智弁のスウィングは鋭かった。途中、ファースト加藤雅彦にマウンドを託したが加点され、1対6で試合は終わった。堂々と戦った。

 「冥土の土産ができました」。松本さんは胸ポケットに一葉のモノクロ写真を忍ばせていた。同期の第3代野球部主将、故・公田茂さんがある大会の優勝カップを手にしている。

 出雲ナインが、一塁側アルプス席へ走り寄ってきて整列し、一礼した。「よくやったァ!」「ありがとォーッ!」。同窓生は、みな目頭を熱くしてメガホンを打ち鳴らした。

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