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2016年9月

日本の教科書とはまるでちがう戦争観

 第3次世界大戦は、すでに数十年前に勃発しその勝敗は決している――。こんなことを語った人びとがいた、と聞いたことがある。インドネシアの初代大統領スカルノやシンガポールの初代首相リー・クアンユーなどがそう言っていたというのだ。

 その大戦とは、アジア・アフリカ諸国が欧米の植民地から独立した闘いのことを意味する。民族によっては血の犠牲を払って独立し、また、無血で独立を勝ち取った民族もいた。

 では、なぜ、これらの独立が実現したのか。その理由をこれでもかというほど証言を集めて書いた本がある。2015年に上梓された『人種戦争――レイス・ウォー 太平洋戦争 もう一つの真実』(邦訳:祥伝社)で、著者は米ヒューストン大学のジェラルド・ホーン教授だ。

 タイトルからも推察されるように、日本が戦った第2次世界大戦は、じつは人種問題をはらんでおり、日本軍が欧米植民地主義と戦ったことがきっかけでアジア・アフリカの独立が成し遂げられ、また戦後、「人種差別は克服されなければならない」という新しい価値観を国際社会にもたらした、とする。

 ホーン教授はこの著書で、「白人の優越」という共同幻想が日本軍によって崩されていく様を活写している。アメリカ人の著作だけに、それだけ説得力がある。

 大戦のさなかから日本敗戦後の東京裁判にいたるまで、「日本人がアジア人に対してありとあらゆる残虐行為におよんだ」とされた。しかし、著者は、それが白人のプロパガンダにすぎなかったと断じている。

 著者は、著名なコラムニストJ.A.ロジャーズのこんな言葉を紹介している。「日本の残虐性は、最悪のケースでさえ、白人にはるかに及ばない。南北アメリカのインディアンの抹殺や、アフリカの奴隷貿易などに、誰が肩を並べられようか」

 日本軍は、真珠湾攻撃とほぼ同時にアジアへ進軍し占領した。その際に残虐行為をしたとされたものの、じっさいには、アジアの民衆は白人を標的とする日本軍を歓呼して迎え入れたというのだ。

 そもそもは日露戦争で日本がロシアを破ったときまでさかのぼるという。

 <一九〇五年の日本のロシアに対する劇的な勝利は、多くのアメリカの白人や西洋人を恐怖に陥れた。同様に、黒人や、アジア人を歓喜させた出来事だった>

 アメリカにアフリカから奴隷として連れてこられ厳しい人種差別にあっていた黒人にとって、日本は憧れの対象となり日本製品なら何でも手に入れたがるほどのブームを呼んだ。欧米の植民地にされ搾取されていたアジアの人びとも同様だった。その記憶はずっと残っていた。

 日本軍は、1941年末、真珠湾攻撃と同時に香港を占領支配した。それまで香港は大英帝国が統治し、中国人や居住していたインド人などは虐げられていた。残虐な行為をくり返していたのは白人のほうだった。日本軍はそれを逆転させた。白人を収容所に押し込め苛酷な待遇を味わわせた。さらに、白人の男女に行列を作らせ、みじめな姿でアジア人の目の前で行進させた。日本軍は、「白人の優越」は幻想にすぎず、もう白人の言いなりになる必要などないことをアジア人に理解させた。

 日本軍はアジアの占領各地でおなじようなことを実行した。それによって、白人への幻想は吹き飛んだ。

 <1943(昭和18)年、戦時下の東京で、フィリピン、ビルマ、インド、タイ、中国(南京政権)、満州国と日本の首脳が一堂に会して、人類史上最初の有色民族の歴史的なサミットとなった大東亜会議を開いた><連合国は大東亜会議を、日本が占領地の傀儡(かいらい)を集めて行なった会議だったと、呼んでいる>

 日本はアジアの植民地からの解放を戦争目的のひとつとした。戦後、旧連合国や日本国内の左派は、「それは最初から掲げていたものではなく、途中から持ち出した大義にすぎなかった」とした。ぼくたちは、学校の授業でも、当然のようにそう教えられた。

 しかし、事実はそんなに単純ではない。この著書によると、日本はすでに1920年代から、アジアの指導者・活動家らを招いて「アジアの会」をくり返し開いていた。その目的は、アジアから白人を追い出しアジア民族が自決することにあった。だから、日本はあの戦争を「大東亜戦争」と呼んだ。そこに「アジア解放」の意志が込められていた。

 アメリカの南北戦争でも、北軍が「南部の奴隷解放」を戦争目的のひとつとしたのは開戦後のことだった、と聞いたことがある。じっさいの歴史とはそんなものだ。

 日本は大戦で惨敗したが、その戦争目的のひとつ「独立」はアジアの人びとによって実現された。さらに大戦後、欧米諸国はアジア・アフリカに融和策をとり、少なくとも、タテマエとしての人種差別はなくなった。

 長編『人種戦争』の末尾には、昭和天皇のこんな戦後の言葉が紹介されている。

 <太平洋戦争の原因として、人種問題があった。列強は、第一次大戦後のパリ講和会議で、日本代表が訴えた「人種平等提案」を、却下した。その結果、カリフォルニアへの移民拒否や、オーストラリアの「白豪」主義にみられるように、世界中で有色人種に対する差別が続いた。日本人が憤慨した十分な根拠がある>

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瀬戸内の旅・完結編 ウサギの島へ渡る

 「瀬戸内海には猫の島というのがあったんだっけ」。旅行の計画を立てているとき、かみさんとそんな話になった。「それなら、たしかウサギの島ってのもあるはずよ」

 ネットで調べてみると、あった、あった。広島県竹原市忠海の南方の沖合い3kmにある大久野島がそれらしい。面積はわずか0.7平方km、周囲は4.3kmだという。しまなみ海道は通っておらず、忠海からフェリーで島へ渡る。

 グーグルマップで島を表示すると、われわれが行く予定の大三島の北となりだ。大三島は愛媛県今治市で、この2島のあいだに県境があることになる。

 大久野島のウェブサイトをみたら、大三島の北側にある盛港からもフェリーが出ている。「それなら、大三島からフェリーで大久野島に渡り、帰りは広島側の忠海港へフェリーで行ってそこからわが家へ帰ればいいかな」

 瀬戸内への<真珠婚わがままツアー>第3目的は、ウサギの島訪問とし、スケジュールの最後にはめ込んだ。サイトにあるウサギたちの写真をみると、白くて目の赤い日本ウサギは1羽もおらず、わが家のヨーロッパ系ネザーランドドワーフに近い。

 <現在、島には約700羽のウサギがいると言われている。すべて日本の侵略的外来種ワースト100にも指定されているアナウサギである>という記述がサイトにあった。

 島にはルールがあるという。補助犬以外の犬、猫などのペットの持ち込みは禁止で、餌としてお菓子・パンを与えてはならない。わが家でも長年ウサギを飼っているからよく知っている。ウサギにお菓子やパンを食べさせると腸に詰まったりして大変なことになる。ペットショップではウサギが喜んで食べる甘いお菓子などを売っているが、決して食べさせてはいけない。重症になると開腹の大手術をしなければならず、死ぬこともある。

 真珠婚ツアーは、着々と日程をこなし、高速のSAでもらった「しまなみスタンプマップ」というパンフレットをホテルでみているときだった。[休暇村 大久野島]のところを何気なく読んだら、「(P)島内乗り入れ不可」と小さな字で書いてある。たぶん、島内には駐車場がなく車では走行できないという意味らしい。

 すぐに休暇村へ電話し、事情を聞いた。「フェリーの桟橋から休暇村など島内施設へ、無料の送迎バスが走っています。大三島から来られるなら、盛港に広い駐車場がありますから、そこへ停めればいいです」

 ふぅーっ。危ない、危ない。それを知らずに車をフェリーに乗せたら、ウサギの島に上陸できず、本州の忠海まで行ってしまうところだった。

 わがままツアー最終日、大三島にある「鶴姫」伝説で知られる大山祇神社に参拝し、境内の宝物館で義経の鎧、伝弁慶の長刀などを見学し、いざウサギの島へ向かった。フェリーに乗っているのは10分足らずで、すぐに着いた。車を積んでいるひとたちもいたが、彼らは本州へ行くのだろう。

 桟橋から島の中心施設である休暇村の建物までも、すぐだった。外は暑いので、室内で休憩してからウサギを探しに屋外へ出た。正面玄関のすぐ近くにシュロの木が密集していて、その下の日陰にウサギが3、4羽いた。幼稚園くらいの女の子が、野菜を乾燥させたウサギ用のおやつを与えている。ウサギたちは、それを美味しそうにもぐもぐ食べる。女の子のお母さんが、その様子を撮影していた。

 「おうちでも、ウサギさんを飼ってるの?」女の子に話しかけると、「ううん」と答える。わざわざエサを買って持ってきたんだ。きっと、この子も家に帰ってから「ウサギを飼いたーい」とお母さんにせがむのではないだろうか。

 わが家でウサギを飼い始めたのは、娘が小1でドイツのボンに住んでいるときだった。「何か動物が飼いたい!」としつこいので、家族でペットショップへ行き、一番可愛い子ウサギを買った。以来、20年以上、わが家では断続的にウサギを飼っている。いつもネザーランドドワーフを選ぶ。<オランダのこびと>という意味で、値段は張るが、大人になっても毛がふさふさと柔らかく顔も可愛いしあまり大きくならない。

 休暇村大久野島の周囲では、たくさんの人たちがウサギを探して散策していた。その光景はポケモンGOを楽しむ姿とそっくりだ。ただし、こちらのほうは拡張現実(AR)ではなく生身のウサギちゃんたち相手のリアルな時間だった。

 大久野島は、戦時中、陸軍の毒ガス工場があった。機密にするため、地図から消された島だった過去をもつ。毒ガスの流出を検出したり動物実験したりするためにウサギが飼われていた。

 いま島にいるウサギはその末裔だとする説もあるが、それは完全な誤りらしい。戦後、毒ガス関連施設を処理した際、ウサギもすべて殺処分された。いまのウサギは、1971年、地元のある小学校で飼われていた8羽を放したものが野生化して数が増えたとされる。

 2011年の干支が卯だったときにメディアで島が紹介され、この年、ある旅行会社がウサギをテーマにした旅行プランを企画した。2013年ごろには、海外のニュースサイトが動画つきで紹介し、ウサギの島は一躍知られることになったという。わずか数年前だ。

 ウサギさんたちには、持参のラビットフードをやって遊んでもらった。ウサギには癒しの力がある。でも、島の子たちは、わが愛兎RANAの可愛さにはおよばない。

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瀬戸内グルメ 鯛飯の喰いまくりツアー

 これを食べ残したら一生後悔する! かみさんとぼくは、すでにほぼ満腹だったにもかかわらず、小さいしゃもじで釜のご飯を手盛りし、胃袋の限界に挑戦した。テーブルの傍らで見守っていた仲居のお嬢さんは「ありがとうございます。料理長もきっと喜びます」と微笑んだ。

 結婚30年の真珠婚ツアーで、もう一つのテーマは、愛媛県の郷土料理「鯛飯」を極めることだった。

 以前、テレビで、お釜に鯛を丸ごと入れて白米などと炊く鯛飯が、愛媛の人に熱愛されていることは知っていた。それに追い打ちをかけるように、日本テレビ系『秘密のケンミンSHOW』で、鯛飯特集をやっていた。おなじ愛媛県と言っても、東北部にある今治市と南西の宇和島市では、鯛飯がまったくちがうという。

 もともと、瀬戸内と今治辺りだけへ行くつもりだったが、この番組をみて、急きょ、宇和島も目的地に入れた。

 パソコンのNAVITIMEで調べると、わが家から宇和島市までは、5時間あまりで行ける。自宅を出発し、山陰道を少し走って「やまなみ街道」に入る。広島県の尾道市と島根県の松江市をむすぶ尾道ー松江線だ。この高速道路は対向2車線しかなく正面衝突事故が起きやすいものの、料金がかからないのがいい。尾道で「しまなみ海道」に入り、すぐの生口島でインターをおりて昼食休憩をした。

 その後、愛媛県内ではあえて高速と一般道をミックスで走るコースを選んだら、山間部でゲリラ豪雨にあった。宇和島市に着くと、雨の降ったあとはあったが、すっかりやんでいた。

 ホテルの従業員は「ずっと連日、36度、37度といった猛暑でした。さっき雨がどっと降って気温が下がり、少しほっとしたところです」と言う。

 夕食は、ちょっと高いが宇和島郷土料理コースを頼んでいた。宇和島だけでなく出雲でもサメのことをフカと呼ぶ。その肉を湯通しし、ぴりっとした酢味噌でいただく「ふかの湯ざらし」などが出た。

 ぼくが気に入ったのは、「ふくめん」という料理だった。千切りにしたこんにゃくを4色の素材で覆い隠すように盛りつけてある。器を十字にわけて4色が盛ってあり、幾何学的な美しさがある。4色とは、紅白のでんぶ、金糸玉子、ワケギだった。この料理はとても気に入った。

 メインの鯛飯は、生の鯛の刺身をづけにしご飯に乗せたものだった。その昔、藤原純友の海賊衆が、酒のお椀に飯を盛り鯛の身を乗せて食べたのがはじまりとされる。宇和島独自の鯛飯とされているが、率直に言って、鯛のづけ丼という感じで、感激するほどではなかった。鯛がよほど新鮮なら、またちがったかもしれない。

 翌日、今治市へもどり、芸予諸島のひとつ大島にある道の駅で、お昼に「来島御前」というセットメニューを頼んだ。刺身、湯引きポン酢、茶碗蒸し、天ぷらのすべてに鯛が使われている。メインの鯛飯にやっと箸を伸ばしていると、かみさんが「鯛飯、ちょっと多いから食べて」と差し出してきた。いつもなら断るところだが、鯛飯喰いまくりツアーだからとすべてを胃におさめた。味は、鯛の身が入った炊き込みご飯といった感じだった。

 それから、村上水軍博物館、船に乗っての潮流体験などのスケジュールをこなし、今治市の東部にある湯ノ浦温泉のホテルにチェックインした。

 温泉で汗と体に噴いた塩を流し、いよいよお楽しみの夕食の席へ行った。ごく普通のレベルのホテルだから、あまり期待し過ぎないように、と自分に言い聞かせた。

 ところが、ときには大当たりがある。自家製の食前酒・梅酒にはじまり、稚鮎と野菜のレモンジュレかけの先付、旬の鯛、カンパチなどの向付・瀬戸のお造りとつづく。「これは、ひょっとしたら……」

 村上水軍の戦勝祝い料理・宝楽焼が華やかだった。大皿に焼いた熱々の小石をたくさん乗せ、その上に鯛、海老、ひおぎ貝、茄子が盛られている。「石が焼けていますからお気をつけて」。日本酒を振りかけながらの仲居嬢の言葉に、慎重にトングを使って自分の取り皿に移す。

 適度の塩味に日本酒の湯気がまぶされていて、地酒の冷酒に最高に合う。海賊衆はこんなにお上品な料理にはしなかったかもしれないが、戦勝を瀬戸内の幸で祝ったことだろう。

 気がつくと、黒鯛と野菜の冷やし鉢や、黒五麺と呼ばれる黒ごま、黒米、黒豆、カカオ、黒糖を練り込んだのど越しの良い麺も平らげていた。どう見ても蕎麦にしか見えないのに、食べるとなるほど手延べうどんだった。

 まだ、ローストポーク伯方の塩だれなど洋食もあるが、もうほとんどお手上げだ。

 だが、肝心の鯛釜飯が残っている。釜の蓋を取り一口だけでもと味わうと、びっくりするくらい美味い。かみさんも、「これを完食しなきゃ、後悔するわよ」とひとり用のお釜を抱えるようにして食べている。鯛の骨を焼いてから出汁をとり、白米に油揚げやニンジンなどといっしょに鯛の切り身を入れて炊き込むのだろう。

 一連の料理、めったに出会わない極上ランクだった。嗚呼、お腹いっぱい!

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瀬戸内の旅 村上水軍の足跡をたどる

 気温34度と暑いが、頬は風を切って快適だった。船は、瀬戸内・芸予諸島の波を切って進んでいた。南北朝時代から戦国時代にかけ、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが「日本最大の海賊」と呼んだ海賊衆・能島村上氏の本拠地、能島(のしま)を目指した。

 結婚30年の真珠婚旅行に、四国の愛媛県へ行った。テーマのひとつを「村上水軍の跡を訪ねる」とした。2016年4月には、芸予諸島を舞台にした村上水軍のストーリーが、文化庁の日本遺産に認定されている。

 船が出航したのは、南となりの大島の宮窪だった。能島村上家はここを本拠地としていた。能島が浮かぶのは沖合わずか300メートルのところだ。

 船に備えられた音声ガイドによると、能島の周囲は867メートルしかない。そこに能島村上氏はかつて海城を構えていた。周囲を取り囲み攻め立てれば簡単に落城しそうだ。

 船は島の少し手前で、いったん停止した。潮が小さな渦を巻いている。船頭さんによると、ぼくたちが乗った時間帯は潮の動きが比較的穏やかという。大分県別府温泉の坊主地獄を思わせるように、潮がぼこっぼこっと半球状に浮かび上がるところもある。潮の流れがものすごく速いところもある。

 この複雑な潮流が海城を守り、難攻不落とした。ぼくたちの船にはもちろんディーゼルエンジンがついているが、昔は水夫(かこ)の腕力だけで進んでいたわけだ。

 能島には観光用に「村上水軍」のカラフルな幟が立ってはいても、現在は無人島となっている。船頭さんが言った。「以前は、大島の人たちが花見に行ったりしていましたが、いまでは一時上陸するのは桜の時期の観光客だけです」

 船が出航した宮窪には、今治市が運営する村上水軍博物館がある。日本唯一の水軍博物館で、安宅(あたけ)と呼ばれていた小型船が復元され、水軍の将が身につけていた甲冑なども展示されている。

 村上海賊は、能島、来島、因島にそれぞれ本拠地を置いており「三島村上氏」とまとめて呼ばれることもあった。三家は連携と離反をくり返しながらも、互いに強い同族意識をもっていた。

 戦国時代には、瀬戸内海の潮の流れを熟知する機動力を背景として、芸予諸島を中心に広い海域を支配し、一帯の軍事や政治、経済にも大きな影響力を発揮した。

 ぼくは、この旅行を前に、本屋大賞と吉川英治文学新人賞をダブル受賞した和田竜氏の小説『村上海賊の娘』(新潮文庫全4巻)を読んだ。物語は、能島村上氏の家系図に当主の娘として「女」とだけ書かれていた人物を、作者の大胆な発想でふくらませて主人公とし、大阪・難波の海域で織田信長側の海賊を相手に奮戦するスペクタクルだ。

 「海風に逆巻く乱髪の下で見え隠れするかおは細く、鼻梁は鷹のくちばしのごとく鋭く、そして高かった。その眼はまなじりが裂けたかと思うほど巨大で、眉は両の眼に迫り、くちばしとともに怒ったようにつり上がっている。口は大きく、唇は分厚く、不敵に上がった口角は、鬼が微笑んだようであった」

 村上海賊の娘・景(きょう)は、このように形容されている。つまり、当時の基準ではブスとされたが、難波の海へ遠征したとき、いまの和歌山県を本拠とする海賊衆には、大変な美人としてもてた。現代で言う「彫りが深い」顔立ちだった。その景が、村上海賊衆を率いて死闘を演じる。

 この物語を実写化するなら、主演は意外に体育会系の綾瀬はるかさんがいいのでは、と勝手に想像した。

 実際に瀬戸内の潮をかき分け、風に吹かれて船で進むと、景が活躍したころもこんな感じだったかと、気分は海賊だ。景の物語はフィクションとは言え、『村上海賊の娘』自体は、細かく史料に当たり史実に極めて忠実につづられている。

 村上海賊は、荒々しい略奪行為を働いていた時代もあったが、瀬戸内を航行する船から「関立」などという名の通行料を取って収入とし、大きな勢力を築いた。

 博物館の展示によると、村上海賊のことについては、すでに江戸時代に学者が研究していた。明治になってからもある郷土史家が調べていたが、地元でもほとんど知られる存在ではなかったらしい。

 博物館が建設されたのは2004年で、能島一帯を船で巡る「潮流体験」がスタートしたのは2008年だった。つまり、水軍が脚光を浴びるようになったのは近年のことだ。

 博物館の職員に「村上海賊が水軍と呼ばれるようになったのは、いつごろからですか?」と聞いてみた。「豊臣秀吉の朝鮮出兵で、毛利氏に従って村上氏が参戦した16世紀末からのようです。それまでは、海賊として恐れられていた時期も長かったみたいです」

 『村上海賊の娘』には、武将が自ら包丁を手に料理をする様が描かれている。ルイス・フロイスが書き残した『日欧文化比較』には、こんなことがつづられているという。

 「ヨーロッパでは普通女性が料理を作る。日本では男性がそれを作る。そして貴人たちは料理を作るために厨房に行くことを立派なことだと思っている」

 芸予一帯には村上姓が多く、水軍の末裔とも言われる。でも、船頭さんは言っていた。「村上水軍のことに興味を持っている人は、地元でも意外に少ないですよ」

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