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瀬戸内の旅 村上水軍の足跡をたどる

 気温34度と暑いが、頬は風を切って快適だった。船は、瀬戸内・芸予諸島の波を切って進んでいた。南北朝時代から戦国時代にかけ、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが「日本最大の海賊」と呼んだ海賊衆・能島村上氏の本拠地、能島(のしま)を目指した。

 結婚30年の真珠婚旅行に、四国の愛媛県へ行った。テーマのひとつを「村上水軍の跡を訪ねる」とした。2016年4月には、芸予諸島を舞台にした村上水軍のストーリーが、文化庁の日本遺産に認定されている。

 船が出航したのは、南となりの大島の宮窪だった。能島村上家はここを本拠地としていた。能島が浮かぶのは沖合わずか300メートルのところだ。

 船に備えられた音声ガイドによると、能島の周囲は867メートルしかない。そこに能島村上氏はかつて海城を構えていた。周囲を取り囲み攻め立てれば簡単に落城しそうだ。

 船は島の少し手前で、いったん停止した。潮が小さな渦を巻いている。船頭さんによると、ぼくたちが乗った時間帯は潮の動きが比較的穏やかという。大分県別府温泉の坊主地獄を思わせるように、潮がぼこっぼこっと半球状に浮かび上がるところもある。潮の流れがものすごく速いところもある。

 この複雑な潮流が海城を守り、難攻不落とした。ぼくたちの船にはもちろんディーゼルエンジンがついているが、昔は水夫(かこ)の腕力だけで進んでいたわけだ。

 能島には観光用に「村上水軍」のカラフルな幟が立ってはいても、現在は無人島となっている。船頭さんが言った。「以前は、大島の人たちが花見に行ったりしていましたが、いまでは一時上陸するのは桜の時期の観光客だけです」

 船が出航した宮窪には、今治市が運営する村上水軍博物館がある。日本唯一の水軍博物館で、安宅(あたけ)と呼ばれていた小型船が復元され、水軍の将が身につけていた甲冑なども展示されている。

 村上海賊は、能島、来島、因島にそれぞれ本拠地を置いており「三島村上氏」とまとめて呼ばれることもあった。三家は連携と離反をくり返しながらも、互いに強い同族意識をもっていた。

 戦国時代には、瀬戸内海の潮の流れを熟知する機動力を背景として、芸予諸島を中心に広い海域を支配し、一帯の軍事や政治、経済にも大きな影響力を発揮した。

 ぼくは、この旅行を前に、本屋大賞と吉川英治文学新人賞をダブル受賞した和田竜氏の小説『村上海賊の娘』(新潮文庫全4巻)を読んだ。物語は、能島村上氏の家系図に当主の娘として「女」とだけ書かれていた人物を、作者の大胆な発想でふくらませて主人公とし、大阪・難波の海域で織田信長側の海賊を相手に奮戦するスペクタクルだ。

 「海風に逆巻く乱髪の下で見え隠れするかおは細く、鼻梁は鷹のくちばしのごとく鋭く、そして高かった。その眼はまなじりが裂けたかと思うほど巨大で、眉は両の眼に迫り、くちばしとともに怒ったようにつり上がっている。口は大きく、唇は分厚く、不敵に上がった口角は、鬼が微笑んだようであった」

 村上海賊の娘・景(きょう)は、このように形容されている。つまり、当時の基準ではブスとされたが、難波の海へ遠征したとき、いまの和歌山県を本拠とする海賊衆には、大変な美人としてもてた。現代で言う「彫りが深い」顔立ちだった。その景が、村上海賊衆を率いて死闘を演じる。

 この物語を実写化するなら、主演は意外に体育会系の綾瀬はるかさんがいいのでは、と勝手に想像した。

 実際に瀬戸内の潮をかき分け、風に吹かれて船で進むと、景が活躍したころもこんな感じだったかと、気分は海賊だ。景の物語はフィクションとは言え、『村上海賊の娘』自体は、細かく史料に当たり史実に極めて忠実につづられている。

 村上海賊は、荒々しい略奪行為を働いていた時代もあったが、瀬戸内を航行する船から「関立」などという名の通行料を取って収入とし、大きな勢力を築いた。

 博物館の展示によると、村上海賊のことについては、すでに江戸時代に学者が研究していた。明治になってからもある郷土史家が調べていたが、地元でもほとんど知られる存在ではなかったらしい。

 博物館が建設されたのは2004年で、能島一帯を船で巡る「潮流体験」がスタートしたのは2008年だった。つまり、水軍が脚光を浴びるようになったのは近年のことだ。

 博物館の職員に「村上海賊が水軍と呼ばれるようになったのは、いつごろからですか?」と聞いてみた。「豊臣秀吉の朝鮮出兵で、毛利氏に従って村上氏が参戦した16世紀末からのようです。それまでは、海賊として恐れられていた時期も長かったみたいです」

 『村上海賊の娘』には、武将が自ら包丁を手に料理をする様が描かれている。ルイス・フロイスが書き残した『日欧文化比較』には、こんなことがつづられているという。

 「ヨーロッパでは普通女性が料理を作る。日本では男性がそれを作る。そして貴人たちは料理を作るために厨房に行くことを立派なことだと思っている」

 芸予一帯には村上姓が多く、水軍の末裔とも言われる。でも、船頭さんは言っていた。「村上水軍のことに興味を持っている人は、地元でも意外に少ないですよ」

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コメント

私の勤める会社の社長は村上水軍の末裔だそうです。

投稿: 佐々木久仁子 | 2016年9月 8日 (木) 14時05分

本当の村上水軍の末裔ならば、村上武吉の命日法要に、しかし、命日法要は村上家ではないことをご存じですか?
墓は山口県周防大島にあるが、長い間密かに村上武吉の命日法要は行われていたそうです。末裔ならば、法要に呼ばれました?

投稿: 村上水軍 | 2017年6月16日 (金) 08時23分

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