日記・コラム・つぶやき

詐欺のワナはすぐそこに!

 朝、珍しくショートメールが入っていた。いつも来るのはauつまりKDDIからのお知らせで、今回もそうだろうと思った。ぼくの知っている人は、たいていLINEでメッセージを送ってくるし、そうでなければふつうのメールで来る。

 ショートメールの細かい文字を読むと、こんなことが書いてあった。

 <有料動画閲覧履歴があり未納料金が発生しております。本日ご連絡なき場合は法的手続きに移行します。DMM相談窓口 03-6635-9118>

 有料動画を閲覧した記憶はまったくない。でもDMMというのはどこかで聞いたことがあった。料金未納というのは何かのまちがいではないか。

 とりあえず、その番号にかけてみた。相手はこう言った。「ショートメールに何と書いてあります?」。そのまま読むと、「それじゃ、ご本人確認をします」

 氏名、生年月日、住所を言わされた。でも住所の漢字がわからないようすで、漢字説明をさせられた。そのとき、おかしいな、とは思った。相手のモニター画面にはこちらの個人情報が表示されているはずだから、それにあった答えをすれば、本人とすぐ確認できるはずだ。これまで、こういうことを何十回もしてきたから、通常の本人確認のルーティンは知っている。

 「有料動画なんて見た記憶がありませんけど、いったいどこのサイトですか?」

 「ちょっと待ってください。・・・カリビアンコムというサイトです」

 「請求金額は?」「38万6000円となってます」

 なんと! 「身に覚えがありませんけど」

 「2015年10月以降の長期未納で、あなたはすでに強制退会となってます」「退会ということは、会員登録したことになっているのでしょうが、そんなことしていません。カリビアンコムってたしかエロ動画のサイトでしょ。そんなところに登録なんてしませんよ。第一、支払いの請求が来たこともまったくないし」

 「請求書を受け取らない設定になっているんじゃないですか。そういうケースはよくあるし」「そんな馬鹿な」「支払いをする気はないんですね。当社はカリビアンコムからすでに請求権を引き継いでいますので、払わないなら、すぐに裁判手続きに入ります」

 DMMのお兄ちゃんは、相当いらだっていた。話にならないから、電話を切った。とはいえ、ちょっと心配で「国民生活センター」の相談窓口をパソコンで検索した。画面の上位に何社か、「アダルト請求トラブル無料相談」といったサイトが並んでいる。そのひとつに電話をした。事情を話すと「100%解決する方法があります」と言う。

 不審に思ったのは、そのサイトには会社名も電話番号以外の連絡先もすぐには見つからないことだった。「御社は何という名前ですか?」「サイトを見たんでしょう。会社名も知らないでかけてきたんですか?」「で、何という会社ですか?」「株式会社ソ○○ンです」「え?、どんな字を書くんですか?」「ローマ字でSO○○Nです」

 「請求をやめてもらうのには手数料がいくらかかるんですか?」「7~9万円です。相手企業の調査と交渉で1週間はかかるんです。ショートメールが来たっていうことは、相手に電話番号が知られているわけですから、きちんと対応しないとまずいですよ」

 これは明らかに詐欺だと思った。DMMとSO○○Nはつるんでいるのではないか。

 「もうちょっと検討してから、かけ直します」「すぐに手を打たないと、手遅れになりますよ」「それなら、小一時間以内にかけ直しますから」

 電話を切って、国民生活センター相談窓口に電話したが、混み合っていてつながりそうにない。それならと、島根県の消費者センターへ電話した。対応した職員はとても親切で、こちらの事情説明をじっくり聞いたあとこう言った。「それは架空請求詐欺のひとつですね。念のため、ショートメールの文言を正確に読み上げてくれませんか」

 職員さんによると、DMMについての相談がすごく多いそうだ。「ショートメールはあてずっぽうに電話し、折り返しかかってきた相手から個人情報を聞き出すやり方です。あなたの場合は、すでに個人情報を取られてしまったから、今後もいろんな請求が来るかもしれません。でも一切無視すれば大丈夫です」

 SO○○Nというのは、あとで検索すると全然関係ないウェブ制作会社がその名前で、問題のサイトには会社名がない。そのサイトをよく見ると、探偵業○○○号と一番下の方に小さくあった。これが認可番号なのだろう。本業は興信所だが、詐欺グループと手を組む悪徳な輩がいる、と消費者センターの職員さんは言っていた。

 詐欺組織はどういうことになっているのか、改めて、国民生活センターという“消費者の味方の総本山”を検索しようとすると、「消費者被害アダルトセンター」「消費者相談センター」などといったもっともらしいサイトが、すぐに表示される。

 あるウェブの専門家に聞いたら、そういうのはリスティング広告と呼ぶのだそうだ。ワンクリック当たりいくらの広告費を払うか、オークション方式で落札した業者の広告サイトが上位に表示される仕組みという。クリックひとつに1000円を払う業者もいるという。

 ネットの世界は怖い。国民生活センターのすぐとなりには、詐欺の罠のサイトが口を開けて待っている。

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左利きでも大和撫子か

 ♪わたしのわたしの彼は 左きき♪ と歌っていたのは、麻丘めぐみさんだったか。調べると、1973年のヒットソングだというから、ずいぶん時間が流れた。

 そのころ、おなじクラブで親友だったNが左利きで、ギターの弦もふつうとは逆に張って、ぼくといっしょにフォークソングを弾いて歌ったものだった。左利きのギタリストなんて身近にいなくて、なんだか新鮮だった。

 でも、女性の場合はやっぱり右利きのほうに好感がもてる。和服を着て左手にお箸を持って懐石を食べている姿などをみると、心が萎えてしまう。左でお茶を点てる人なんているだろうか。やはり、「和」は右利きの文化だ。

 いつもはヌードグラビアなどが載っている週間ポストの巻頭に、「左利きはつらいよ」という特集があった。左利きは、全人口の1割強とされていると知った。ここで言う全人口は、日本のことだろう。

 欧米では左利きの人が、日本よりかなり多いことを経験としてぼくは知っている。それこそ文化の違いで、ナイフを右手に持ってステーキを食べようが、コーヒーカップを左手で持とうが、見ていてそんなに違和感はない。

 さて、記事には、左利きでつらい点が列挙されている。

 〈英語の授業で手が真っ黒になる〉

 これは、万国共通だ。欧米でも、左利きの人は横文字を書きずらそうに書いている。最近のインクを最小限に使うボールペンなら、左手で書いても真っ黒になることはそうないだろう。ところが、欧米では、小切手や契約書のサインは万年筆で書くのが正式とされるから、どうしても手は汚れる。いまでは、インクがにじまない万年筆なるものがあるのかもしれないが。

 〈ゴルフの打ちっ放しが気まずい〉

 これはわかるなぁ。ゴルフ練習場では、たいがい、左用の打席は一番右端にあることが多い。そこで、さてクラブを構えると、目の前の人はこちらに向かって打っている。どうしても目が合ってしまうのだ。ぼくも、一度だけそういう経験をしたことがある。お互いに集中できなくなって、フォームもぐちゃぐちゃ、ボールは左へ右へとなりかねない。

 〈ボウリングで指が痛くなる〉

 これは初めて知った。貸しボールには左用はあまりないのだろうか。右利き用だと中指がきつくて指が痛くなるそうだ。逆に薬指はブカブカで、とてもいいスコアは期待できそうにない。そういう人はマイボールを持つしかないだろう。

 〈パソコンを右利きに使われると「マウスがない!」〉

 左利き用のパソコンというのはあるのだろうか。キーボードは両手で打つから慣れるだろうが、マウスの接続コネクタは右側についているのしか見たことがない。もっとも、ぼくがいま使っているワイヤレスのマウスなら左でも使えるだろう。ワイヤレスを買ったのは、わが家に出没するマウス(ネズミ)にケーブルをかじられたからだったが。

 〈銀行・役所の「紐付きペン立て」は天敵〉

 これは左利きじゃないと絶対にわからない問題だろう。どんなに紐を引っ張っても左には届かない。でも、フジテレビ系『クイズやさしいね』じゃないが、いまどき、左手でも書ける紐付きペンはありそうな気がする。

 さて、「左利きで苦労したことはありますか?」という100人アンケートに64%が「はい」と答えている。これは意外に少ない数字かもしれない。「日本語の『はらい』や『はね』は右利き前提なので習字の授業は苦労した」(32歳男性)。「会社の電話が左側に置いてあるため左手でメモしにくい」(23歳女性)

 欧米より日本のほうが左利きが少ないのは、衣食住をはじめ生活文化がすべて右利き前提だから当然かも知れない。

 そう言えば、ぼくのおばあちゃんは、左利きを直す名人だった。いちどだけ、それに立ち会ったことがある。近所のおばあさんに、「孫を直してくれ」と頼まれたおばあちゃんは、その子をわが家に呼んで仏壇の前に座らせた。そこに料理のお膳を運んできて「さあ、右手でゆっくり食べてごらん」と言った。

 その子は、慣れない右手にお箸を持ちごちそうを食べはじめ、ずいぶん時間はかかったが、完食した。「仏さんの前で食べられたから、もうこれからは右手が使えるからね」。おばあちゃんは、きっと暗示をかけたのだろう。後日、近所のおばあさんは「左利きが直った」とお礼にきた。

 ぼくの息子も、初めは左手でものを食べ出した。かみさんが、そっと子ども用フォークを右手に持たせて食べさせるようにすると、自然に右手で食べるようになった。でも、サッカーをするときは左足が利き足だ。スポーツはそれでいい。物心がついて間もないころなら、左から右へ修正するのはそうむずかしくないようだ。

 実は、かみさんも本来は左利きらしい。財布を右手に持ち左手でお金を払う。もし、かみさんが食事やペンも左手だったら、ぼくは結婚していなかったかもしれない。大和撫子の必要条件は右利きだ、という独断と偏見を持っている。

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続・郵便局はやっぱりおかしい

 小泉純一郎氏が「郵政民営化」を叫んで国民を煽り、総選挙で勝ったのは2005年だった。それから2年後、郵政は民営化されたと言われている。でも、ほんとにそうなのか。

 思い出すのは、国鉄の民営化だ。ストに明け暮れサボタージュも横行して“職場崩壊”していた国鉄が、いったん民営化されると劇的に変わった。少なくとも、乗客の立場からはそうみえた。

 JRとなった新しい民間鉄道会社の職員が、ホームに整列して出発する列車の乗客に頭を下げる光景は、くり返しニュースで流れた。「ああ、やっぱり変われば変わるものだな」と思わされたものだ。

 それにひきかえ、民営化された郵政はどうか。郵便局株式会社、郵便事業株式会社、株式会社ゆうちょ銀行、株式会社かんぽ生命保険に別れたそうだが、どこがどんな仕事をしているか、ある程度でも知っている人がどれだけいるだろう。利用者からみると、窓口が複雑になり利便性が一段と低下したとしか思えない。

 ぼくは東京近郊から出雲へUターンして3年が過ぎた。引っ越しするとき、当然ながら転居届けを最寄りの郵便局に提出した。転居届けの有効期間は「1年」と局員に言われた。9月26日に引っ越したから、9月27日から1年間は、郵便物を転送してもらえるものと信じていた。

 ところがある日、出雲のわが家に転送されてきた葉書に張られたシールをみると、「転送期間:2014・8・31迄」となっている。そんな馬鹿な。つまり、9月1日から26日は空白期間となる。その間に旧住所へ送られて来たものは、どこへ消えるのだろうか。

 ぼくは、郵便局を利用するとき、母が入所している施設に近い出雲市斐川郵便局に行くことがほとんどだ。自宅の近くにもあるが、交通量の多い国道沿いで駐車場もぎりぎり2台しか停められないので、かえって行くのが面倒になる。

 斐川郵便局へ行き、空白の期間についてある女性局員に質問した。もちろん、シールの張られた葉書を持参していた。

  「9月27日から1年間の転送を依頼しているのに、このシールをみると、8月一杯で転送サービスは終わることになっているんですよ」  そう問い詰めると、葉書を手にした職員は「こんなケースは初めてです。申し訳ないですけど、今度は9月1日からの転送届けを書いてもらえますか」  転送期間の空白については、その郵便局にいた誰も理由がわからなかった。しかたがないので、日付を手前に27日間だけずらした転送届けを書いて職員に渡した。仕事の関係もあって、転送は何年間かつづけてもらわないと困るのだ。

 それからしばらくは、転送シールをチェックすることも忘れていた。

 そして2016年つまり今年の6月、シールをみると、「転送期間:2017・7・31迄」となっている。つまり、またも転送の空白期間が生まれているのだ。それまでの2年間に、実際には空白期間があったのに、ぼくが気づかなかっただけではないかと思った。その間に、もし重要書類でも行方不明になっていたらどうしよう。

 前に斐川郵便局へ行ったとき、職員は「転送開始日より1か月ほど早く届けを出してもらえば、確実ですから」と言っていた。しかし、早めの届け出はむしろ空白期間を広げるだけだったことになる。  ぼくは相当頭にきた。斐川郵便局へ乗り込んで今度は男性の局員を相手に、これまでの事情を話した。その際、転居届けの「お客さま控え」と転送シールの張られた葉書を証拠として持参した。

 「お客さま控え」には「転居届受付番号」としてアルファベット付き9桁の数字が印字されている。「ここに受付番号があるから、どういういきさつで空白期間が生まれたか調べておいてください。近いうちにまた来ますから」

 後日行くと、局員は東京にある日本郵便株式会社の「転居届管理センター」へ電話して、確かにぼくの届けでは、「転送開始希望日」が「2016年9月1日」となっているという。

 それならどうして、転送期間が「2017・7・31迄」となっているのか。そこにいた局長以下全員に聞いてみたが、誰もその理由を説明できなかった。それでもプロか!

 埒があかないので、後日時間があるときに出雲市平田郵便局へ寄って、おなじことを聞いてみた。窓口の女性局員ふたりとも「わかりません」「どうしてでしょうね」と言うだけなので、郵便課長という男性を呼んできてもらった。

 課長はさすがにことの重大さがわかり、その場ですぐ「転居届管理センター」へ電話した。その答えはちょっと信じられないものだった。

 「転送届の用紙には、たしかに転送開始希望日を書く欄がありますが、センターでは転送届が全国の郵便局から送られてきた日をもって転送開始手続きをとるのがふつうのようです」。そんな馬鹿な。転居届の用紙には、「届出年月日」と「転送開始希望日」の欄があるのに、後者はセンターの現場で無視されているわけだ。

 しかも、一線の郵便局員の誰ひとり、ぼくが指摘するまでそれを知らなかった。ぼくはちょっと大きな声で言った。「ふつうの民間会社なら、とっくにつぶれてますよ!」

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人工知能でいらなくなる職業、生き残る職業

 人工知能(AI)についてのニュースが、このところ急激に増えている。2016年夏、60代の女性患者の白血病が治療のむずかしい特殊なタイプだと、人工知能が見抜き、医師に適切な治療法の助言をして、患者の回復に貢献していたというニュースが伝わった。

 人工知能が膨大な医学論文を学習し、治療法を提示した。治療した東大医科学研究所は「医療へのAI応用に大きな手応えを感じた」としている。産経新聞が伝えた。

 あまり大きなニュースとはならなかったようだが、これは大変なことが起きていることを示唆している。近い将来、病院へ行っても医師の診察をまず受けるのではなく、MRIやCTなど医療器具に体を預け、膨大な医学分野のビッグデータをもとに診断を受け、その補助として人間の医師がアドバイスする日がやってくる。

 東大医科学研究所が使ったのは、アメリカのクイズ番組で人間のチャンピオンを破った米IBM製の「ワトソン」という人工知能だった。東大は昨年からIBMと共同で、がんに関連する約2千万件の論文(ビッグデータ)をワトソンに学習させ、臨床研究を実施した。

  女性患者のがんに関係する遺伝子情報をワトソンに入力したら、急性骨髄性白血病のうち、診断や治療が難しい「二次性白血病」という特殊なタイプだとわずか10分で見抜いた。

 ワトソンと言えば、名探偵シャーロック・ホームズの助手である元軍医の名前だ。人工知能のワトソンが治療法の変更を提案し、臨床チームは別の抗がん剤を採用した。その結果、女性は数か月で回復して退院し、現在は通院治療を続けているという。

 ここではすでに、人工知能が主役であり人間の医師はアシスタントのような立場に甘んじている。つまり、助手のワトソンが主役で名探偵ならぬ人間のベテラン主治医は助手のような役どころとなっている。こうしたケースは決して例外ではなくなりつつあるようだ。

 中央公論は、「人工知能は仕事を奪うのか」という特集を組んだ。あるページには「人工知能やロボット等による代替可能性が低い100の職業」のリストが掲載されている。これは、人工知能やロボットがいくら発達しても、仕事をおびやかされる恐れの少ない専門職の一覧とも言える。

 リストにある医療関係をみると、まずまず安泰な職業として外科医、内科医、産婦人科医、精神科医、小児科医、歯科医師、獣医師、助産婦、医療ソーシャルワーカーがあげられている。

 とは言え、ワトソンの活躍にみられるように、これまでは内科医が個人の知識と経験から診断し治療法を考えてきたが、これからはその主体が主に人工知能になる。医療用ロボットも日進月歩で開発が進んでいる。外科医なども安泰ではなくなるかもしれない。

 医療以外で生き残れそうなのは、いずれも専門職だ。アナウンサー、アロマセラピスト、インテリアのコーディネーターやデザイナー、音楽教室講師、映画監督、映画カメラマン、博物館・美術館の学芸員(キュレーター)、広告ディレクター、コピーライターなどなどがある。

 作詞家、作曲家、ミュージシャンも代替可能性が低いリストにいちおうは入っているが、果たしてそうだろうか。すでに、パソコンでも作詞や作曲のソフトはそうとう優れものが出回っている。それに人工知能を搭載すれば、天才的作詞家や奇才の作曲家が誕生する可能性はある。「以前は、人間の作詞家や作曲家がいたよねぇ」という時代がくるかもしれない。

 スポーツ関係では、インストラクターやスポーツライターがリストに入っている。しかし、この分野でもビッグデータを利用した鍛錬法や筋肉運動がすでに一部で取り入れられており、そうした最先端の技術を実践指導で使いこなせないインストラクターなどは、すぐお払い箱になるかもしれない。

 マスメディア関係ではどうだろう。リストにあがっているのは、放送記者や放送ディレクター、報道カメラマンなどいずれもテレビ関係だ。

 しかし、ぼくの知る限り、インターネットが普及してから、放送関係者の総合的な能力はかなり落ちている。放送記者を例にとれば、まず現場へ行くのが主務だし、こまめに人に会って体温のある情報を集めなければ、存在意義は失われてしまう。すでに、ネット情報を集めて小器用に「料理」してニュースを仕立てる「足腰のない」幽霊のような記者がたくさんみうけられる。

 スパイ・諜報の世界には「ヒューミント」と言って生身の人間からもたらされる情報を重視する伝統がある。いまのメディア界ではそのヒューミントがあまりにも軽んじられているように感じる。ネットで集めた情報やビッグデータを参考とし、それにヒューミントを加味すれば完璧なのだが。

 中央公論のリストには、なぜか新聞記者も雑誌記者も、その総称としてのジャーナリストという言葉も入っていない。紙の新聞はたしかに斜陽産業だが、紙がネット上のメディアに代わったとしても、本当に価値のある情報を発掘して広く伝える使命をもつのは、やはりジャーナリストであろうと、ぼくは自負している。

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タクシー事情、東西南北

 初めての国や日本国内の都市へ行ったとき、最初の地元情報をもたらしてくれるのは、タクシー運転手さんの場合がよくある。何と言っても街をよく知っているし、毎日、さまざまなお客さんを乗せているから口コミ情報にも通じている。

 ぼくは、特派員をしているころ、どこかの国の街で取材の時間がぽっかり空いたときなどには、タクシーに乗ってその運転手さんの自宅へ連れて行ってもらったりした。「お宅をみせてくれませんか?」と頼むと、まずたいていの運転手さんはびっくりするが、こちらが日本の特派員であることを話し、「この街のふつうの人びとの暮らしぶりを知りたいので、それにはあなたの家庭をみせてもらうのが一番てっとり早いから」と説得する。

 もちろん、ある程度、言葉が通じるときに限られるが、だいたい運転手さんはOKしてくれる。

 あるときは、インド洋に浮かぶスリランカの最大都市コロンボで、運転手さんの自宅へ行った。街中心部から約20分郊外に走った緑豊かなところにある、かなりゆったりした一軒家だった。突然の訪問だったのに奥さんが快く迎えて、お茶を出してくれた。奥さんは英語があまり話せないようだったが、運転手さんに、街のこと、家庭のこと、タクシー会社のこと、そしていま学校へ行っている子どもたちなどのことを聞いた。

 運転手さんは日本のことを知りたがったので、ぼくもいろいろ話をした。取材では、どうしても政府の官僚や政治家などに会うことが多いが、こうして庶民の本音を聞き出すと、その国の事情が立体的にわかり、記事に厚みが出せるような気がした。

 おなじタクシーと言っても、国によって事情は大きくちがう。パキスタンでタクシーに乗ると、運転手さんは必ずと言っていいほど、こちらの行きたい目的地に直行してはくれなかった。まず、ガソリンスタンドに寄って走行にとりあえず必要なだけ給油し、それから目的地に向かう。

 パキスタンはまだ貧しい国で、ガソリンを常に満タンにして客を待つ金銭的な余裕がないからのようだった。こっちが急いでいるときには頭に来るが、「郷に入っては郷に従え」でしようがない。でも、運転手さんのマナーは良く、親日国家だから不愉快な思いをしたことはなかった。

 国や都市によっては、タクシー運転手が、密かに提携している土産物店などへ客を誘導しようとするケースがあるが、パキスタンではそんなこともなかった。料金をぼったくられたこともほとんどない。そういう意味では、料金制があってないような東となりのインドよりずっとましだった。

 さて、タクシーと言えば、あるとき、世界各国の特派員がつくる団体が、「どの国のどこの都市のタクシー事情がいいか」アンケートをとったことがある。その結果、東京のタクシーがベストに選ばれた。料金が明朗で、運転手のサービスもいいことが理由だった。

 しかし、ぼくはドイツへ赴任しヨーロッパ各国へ出張する機会をもつにつれ、ドイツのタクシー事情こそ世界一だろうと思った。

 まず何と言っても、ドイツのタクシーのほとんどはメルセデス・ベンツで高級感がある。たまにアウディやBMWのタクシーに出会うと、これは珍しいなと思ってしまう。料金はもちろんメーター通りだけ払えばいいから、日本とおなじ明朗会計だ。

 こちらがスーツケースなど大きな荷物をもっていると、運転手さんはさっと車を降りてトランクに入れてくれる。その身のこなしは、東京の運転手さんよりよほどさっそうとしている。

 ある運転手さんに聞いた話だが、ドイツではタクシー運転手になるとき、日本で言う2種免許取得とは別に資格試験があるという。都市によってはトルコ人など移民の運転手も多いから、まず、ドイツ語の基本会話ができなければならない。それに加え、テリトリーとする都市の道路状況もある程度覚えておかなければならないそうだ。

 もちろん、露地まですべて頭に入っている運転手さんは少ないが、そこそこの通りだったら「よく知っているな」とこちらが感心するほどの知識がある。

 ドイツ語には、じつに多彩なあいさつ言葉がある。「良い夕方をお過ごしください」「素晴らしい週末になりますように」などなどだ。乗ったとき、降りるときに、運転手さんに一声かけてもらうとフレンドリーな空気が生まれる。これは東京のタクシーではあまり期待できない点だろう。

 ドイツのタクシーにひとりで乗る場合、習慣として客は助手席に乗る。運転手は男性が多いから、若い女性がひとりのときは後部座席に乗ることもあるが、ぼくにとっては運転手さんとおしゃべりしながら走行できて、じつに楽しかった。

 あるとき、運転手さんがこう言った。「日本にはまだ行ったことはないけど、この夏、1か月ほどタイに滞在しましたよ。東洋はエキゾチックで楽しかったな」

 ドイツ人やドイツへの移民はモーレツに働くが、それはウアラウプ(長期休暇)を楽しむためだ、という有力な説がある。タクシー運転手さんでも、1か月以上の休みを取り、ゆったりと海外のリゾート地で時間を過ごす人生の余裕がある。

 この点で、東京のタクシー事情は完敗ではないだろうか。

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瀬戸内の旅・完結編 ウサギの島へ渡る

 「瀬戸内海には猫の島というのがあったんだっけ」。旅行の計画を立てているとき、かみさんとそんな話になった。「それなら、たしかウサギの島ってのもあるはずよ」

 ネットで調べてみると、あった、あった。広島県竹原市忠海の南方の沖合い3kmにある大久野島がそれらしい。面積はわずか0.7平方km、周囲は4.3kmだという。しまなみ海道は通っておらず、忠海からフェリーで島へ渡る。

 グーグルマップで島を表示すると、われわれが行く予定の大三島の北となりだ。大三島は愛媛県今治市で、この2島のあいだに県境があることになる。

 大久野島のウェブサイトをみたら、大三島の北側にある盛港からもフェリーが出ている。「それなら、大三島からフェリーで大久野島に渡り、帰りは広島側の忠海港へフェリーで行ってそこからわが家へ帰ればいいかな」

 瀬戸内への<真珠婚わがままツアー>第3目的は、ウサギの島訪問とし、スケジュールの最後にはめ込んだ。サイトにあるウサギたちの写真をみると、白くて目の赤い日本ウサギは1羽もおらず、わが家のヨーロッパ系ネザーランドドワーフに近い。

 <現在、島には約700羽のウサギがいると言われている。すべて日本の侵略的外来種ワースト100にも指定されているアナウサギである>という記述がサイトにあった。

 島にはルールがあるという。補助犬以外の犬、猫などのペットの持ち込みは禁止で、餌としてお菓子・パンを与えてはならない。わが家でも長年ウサギを飼っているからよく知っている。ウサギにお菓子やパンを食べさせると腸に詰まったりして大変なことになる。ペットショップではウサギが喜んで食べる甘いお菓子などを売っているが、決して食べさせてはいけない。重症になると開腹の大手術をしなければならず、死ぬこともある。

 真珠婚ツアーは、着々と日程をこなし、高速のSAでもらった「しまなみスタンプマップ」というパンフレットをホテルでみているときだった。[休暇村 大久野島]のところを何気なく読んだら、「(P)島内乗り入れ不可」と小さな字で書いてある。たぶん、島内には駐車場がなく車では走行できないという意味らしい。

 すぐに休暇村へ電話し、事情を聞いた。「フェリーの桟橋から休暇村など島内施設へ、無料の送迎バスが走っています。大三島から来られるなら、盛港に広い駐車場がありますから、そこへ停めればいいです」

 ふぅーっ。危ない、危ない。それを知らずに車をフェリーに乗せたら、ウサギの島に上陸できず、本州の忠海まで行ってしまうところだった。

 わがままツアー最終日、大三島にある「鶴姫」伝説で知られる大山祇神社に参拝し、境内の宝物館で義経の鎧、伝弁慶の長刀などを見学し、いざウサギの島へ向かった。フェリーに乗っているのは10分足らずで、すぐに着いた。車を積んでいるひとたちもいたが、彼らは本州へ行くのだろう。

 桟橋から島の中心施設である休暇村の建物までも、すぐだった。外は暑いので、室内で休憩してからウサギを探しに屋外へ出た。正面玄関のすぐ近くにシュロの木が密集していて、その下の日陰にウサギが3、4羽いた。幼稚園くらいの女の子が、野菜を乾燥させたウサギ用のおやつを与えている。ウサギたちは、それを美味しそうにもぐもぐ食べる。女の子のお母さんが、その様子を撮影していた。

 「おうちでも、ウサギさんを飼ってるの?」女の子に話しかけると、「ううん」と答える。わざわざエサを買って持ってきたんだ。きっと、この子も家に帰ってから「ウサギを飼いたーい」とお母さんにせがむのではないだろうか。

 わが家でウサギを飼い始めたのは、娘が小1でドイツのボンに住んでいるときだった。「何か動物が飼いたい!」としつこいので、家族でペットショップへ行き、一番可愛い子ウサギを買った。以来、20年以上、わが家では断続的にウサギを飼っている。いつもネザーランドドワーフを選ぶ。<オランダのこびと>という意味で、値段は張るが、大人になっても毛がふさふさと柔らかく顔も可愛いしあまり大きくならない。

 休暇村大久野島の周囲では、たくさんの人たちがウサギを探して散策していた。その光景はポケモンGOを楽しむ姿とそっくりだ。ただし、こちらのほうは拡張現実(AR)ではなく生身のウサギちゃんたち相手のリアルな時間だった。

 大久野島は、戦時中、陸軍の毒ガス工場があった。機密にするため、地図から消された島だった過去をもつ。毒ガスの流出を検出したり動物実験したりするためにウサギが飼われていた。

 いま島にいるウサギはその末裔だとする説もあるが、それは完全な誤りらしい。戦後、毒ガス関連施設を処理した際、ウサギもすべて殺処分された。いまのウサギは、1971年、地元のある小学校で飼われていた8羽を放したものが野生化して数が増えたとされる。

 2011年の干支が卯だったときにメディアで島が紹介され、この年、ある旅行会社がウサギをテーマにした旅行プランを企画した。2013年ごろには、海外のニュースサイトが動画つきで紹介し、ウサギの島は一躍知られることになったという。わずか数年前だ。

 ウサギさんたちには、持参のラビットフードをやって遊んでもらった。ウサギには癒しの力がある。でも、島の子たちは、わが愛兎RANAの可愛さにはおよばない。

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瀬戸内グルメ 鯛飯の喰いまくりツアー

 これを食べ残したら一生後悔する! かみさんとぼくは、すでにほぼ満腹だったにもかかわらず、小さいしゃもじで釜のご飯を手盛りし、胃袋の限界に挑戦した。テーブルの傍らで見守っていた仲居のお嬢さんは「ありがとうございます。料理長もきっと喜びます」と微笑んだ。

 結婚30年の真珠婚ツアーで、もう一つのテーマは、愛媛県の郷土料理「鯛飯」を極めることだった。

 以前、テレビで、お釜に鯛を丸ごと入れて白米などと炊く鯛飯が、愛媛の人に熱愛されていることは知っていた。それに追い打ちをかけるように、日本テレビ系『秘密のケンミンSHOW』で、鯛飯特集をやっていた。おなじ愛媛県と言っても、東北部にある今治市と南西の宇和島市では、鯛飯がまったくちがうという。

 もともと、瀬戸内と今治辺りだけへ行くつもりだったが、この番組をみて、急きょ、宇和島も目的地に入れた。

 パソコンのNAVITIMEで調べると、わが家から宇和島市までは、5時間あまりで行ける。自宅を出発し、山陰道を少し走って「やまなみ街道」に入る。広島県の尾道市と島根県の松江市をむすぶ尾道ー松江線だ。この高速道路は対向2車線しかなく正面衝突事故が起きやすいものの、料金がかからないのがいい。尾道で「しまなみ海道」に入り、すぐの生口島でインターをおりて昼食休憩をした。

 その後、愛媛県内ではあえて高速と一般道をミックスで走るコースを選んだら、山間部でゲリラ豪雨にあった。宇和島市に着くと、雨の降ったあとはあったが、すっかりやんでいた。

 ホテルの従業員は「ずっと連日、36度、37度といった猛暑でした。さっき雨がどっと降って気温が下がり、少しほっとしたところです」と言う。

 夕食は、ちょっと高いが宇和島郷土料理コースを頼んでいた。宇和島だけでなく出雲でもサメのことをフカと呼ぶ。その肉を湯通しし、ぴりっとした酢味噌でいただく「ふかの湯ざらし」などが出た。

 ぼくが気に入ったのは、「ふくめん」という料理だった。千切りにしたこんにゃくを4色の素材で覆い隠すように盛りつけてある。器を十字にわけて4色が盛ってあり、幾何学的な美しさがある。4色とは、紅白のでんぶ、金糸玉子、ワケギだった。この料理はとても気に入った。

 メインの鯛飯は、生の鯛の刺身をづけにしご飯に乗せたものだった。その昔、藤原純友の海賊衆が、酒のお椀に飯を盛り鯛の身を乗せて食べたのがはじまりとされる。宇和島独自の鯛飯とされているが、率直に言って、鯛のづけ丼という感じで、感激するほどではなかった。鯛がよほど新鮮なら、またちがったかもしれない。

 翌日、今治市へもどり、芸予諸島のひとつ大島にある道の駅で、お昼に「来島御前」というセットメニューを頼んだ。刺身、湯引きポン酢、茶碗蒸し、天ぷらのすべてに鯛が使われている。メインの鯛飯にやっと箸を伸ばしていると、かみさんが「鯛飯、ちょっと多いから食べて」と差し出してきた。いつもなら断るところだが、鯛飯喰いまくりツアーだからとすべてを胃におさめた。味は、鯛の身が入った炊き込みご飯といった感じだった。

 それから、村上水軍博物館、船に乗っての潮流体験などのスケジュールをこなし、今治市の東部にある湯ノ浦温泉のホテルにチェックインした。

 温泉で汗と体に噴いた塩を流し、いよいよお楽しみの夕食の席へ行った。ごく普通のレベルのホテルだから、あまり期待し過ぎないように、と自分に言い聞かせた。

 ところが、ときには大当たりがある。自家製の食前酒・梅酒にはじまり、稚鮎と野菜のレモンジュレかけの先付、旬の鯛、カンパチなどの向付・瀬戸のお造りとつづく。「これは、ひょっとしたら……」

 村上水軍の戦勝祝い料理・宝楽焼が華やかだった。大皿に焼いた熱々の小石をたくさん乗せ、その上に鯛、海老、ひおぎ貝、茄子が盛られている。「石が焼けていますからお気をつけて」。日本酒を振りかけながらの仲居嬢の言葉に、慎重にトングを使って自分の取り皿に移す。

 適度の塩味に日本酒の湯気がまぶされていて、地酒の冷酒に最高に合う。海賊衆はこんなにお上品な料理にはしなかったかもしれないが、戦勝を瀬戸内の幸で祝ったことだろう。

 気がつくと、黒鯛と野菜の冷やし鉢や、黒五麺と呼ばれる黒ごま、黒米、黒豆、カカオ、黒糖を練り込んだのど越しの良い麺も平らげていた。どう見ても蕎麦にしか見えないのに、食べるとなるほど手延べうどんだった。

 まだ、ローストポーク伯方の塩だれなど洋食もあるが、もうほとんどお手上げだ。

 だが、肝心の鯛釜飯が残っている。釜の蓋を取り一口だけでもと味わうと、びっくりするくらい美味い。かみさんも、「これを完食しなきゃ、後悔するわよ」とひとり用のお釜を抱えるようにして食べている。鯛の骨を焼いてから出汁をとり、白米に油揚げやニンジンなどといっしょに鯛の切り身を入れて炊き込むのだろう。

 一連の料理、めったに出会わない極上ランクだった。嗚呼、お腹いっぱい!

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瀬戸内の旅 村上水軍の足跡をたどる

 気温34度と暑いが、頬は風を切って快適だった。船は、瀬戸内・芸予諸島の波を切って進んでいた。南北朝時代から戦国時代にかけ、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが「日本最大の海賊」と呼んだ海賊衆・能島村上氏の本拠地、能島(のしま)を目指した。

 結婚30年の真珠婚旅行に、四国の愛媛県へ行った。テーマのひとつを「村上水軍の跡を訪ねる」とした。2016年4月には、芸予諸島を舞台にした村上水軍のストーリーが、文化庁の日本遺産に認定されている。

 船が出航したのは、南となりの大島の宮窪だった。能島村上家はここを本拠地としていた。能島が浮かぶのは沖合わずか300メートルのところだ。

 船に備えられた音声ガイドによると、能島の周囲は867メートルしかない。そこに能島村上氏はかつて海城を構えていた。周囲を取り囲み攻め立てれば簡単に落城しそうだ。

 船は島の少し手前で、いったん停止した。潮が小さな渦を巻いている。船頭さんによると、ぼくたちが乗った時間帯は潮の動きが比較的穏やかという。大分県別府温泉の坊主地獄を思わせるように、潮がぼこっぼこっと半球状に浮かび上がるところもある。潮の流れがものすごく速いところもある。

 この複雑な潮流が海城を守り、難攻不落とした。ぼくたちの船にはもちろんディーゼルエンジンがついているが、昔は水夫(かこ)の腕力だけで進んでいたわけだ。

 能島には観光用に「村上水軍」のカラフルな幟が立ってはいても、現在は無人島となっている。船頭さんが言った。「以前は、大島の人たちが花見に行ったりしていましたが、いまでは一時上陸するのは桜の時期の観光客だけです」

 船が出航した宮窪には、今治市が運営する村上水軍博物館がある。日本唯一の水軍博物館で、安宅(あたけ)と呼ばれていた小型船が復元され、水軍の将が身につけていた甲冑なども展示されている。

 村上海賊は、能島、来島、因島にそれぞれ本拠地を置いており「三島村上氏」とまとめて呼ばれることもあった。三家は連携と離反をくり返しながらも、互いに強い同族意識をもっていた。

 戦国時代には、瀬戸内海の潮の流れを熟知する機動力を背景として、芸予諸島を中心に広い海域を支配し、一帯の軍事や政治、経済にも大きな影響力を発揮した。

 ぼくは、この旅行を前に、本屋大賞と吉川英治文学新人賞をダブル受賞した和田竜氏の小説『村上海賊の娘』(新潮文庫全4巻)を読んだ。物語は、能島村上氏の家系図に当主の娘として「女」とだけ書かれていた人物を、作者の大胆な発想でふくらませて主人公とし、大阪・難波の海域で織田信長側の海賊を相手に奮戦するスペクタクルだ。

 「海風に逆巻く乱髪の下で見え隠れするかおは細く、鼻梁は鷹のくちばしのごとく鋭く、そして高かった。その眼はまなじりが裂けたかと思うほど巨大で、眉は両の眼に迫り、くちばしとともに怒ったようにつり上がっている。口は大きく、唇は分厚く、不敵に上がった口角は、鬼が微笑んだようであった」

 村上海賊の娘・景(きょう)は、このように形容されている。つまり、当時の基準ではブスとされたが、難波の海へ遠征したとき、いまの和歌山県を本拠とする海賊衆には、大変な美人としてもてた。現代で言う「彫りが深い」顔立ちだった。その景が、村上海賊衆を率いて死闘を演じる。

 この物語を実写化するなら、主演は意外に体育会系の綾瀬はるかさんがいいのでは、と勝手に想像した。

 実際に瀬戸内の潮をかき分け、風に吹かれて船で進むと、景が活躍したころもこんな感じだったかと、気分は海賊だ。景の物語はフィクションとは言え、『村上海賊の娘』自体は、細かく史料に当たり史実に極めて忠実につづられている。

 村上海賊は、荒々しい略奪行為を働いていた時代もあったが、瀬戸内を航行する船から「関立」などという名の通行料を取って収入とし、大きな勢力を築いた。

 博物館の展示によると、村上海賊のことについては、すでに江戸時代に学者が研究していた。明治になってからもある郷土史家が調べていたが、地元でもほとんど知られる存在ではなかったらしい。

 博物館が建設されたのは2004年で、能島一帯を船で巡る「潮流体験」がスタートしたのは2008年だった。つまり、水軍が脚光を浴びるようになったのは近年のことだ。

 博物館の職員に「村上海賊が水軍と呼ばれるようになったのは、いつごろからですか?」と聞いてみた。「豊臣秀吉の朝鮮出兵で、毛利氏に従って村上氏が参戦した16世紀末からのようです。それまでは、海賊として恐れられていた時期も長かったみたいです」

 『村上海賊の娘』には、武将が自ら包丁を手に料理をする様が描かれている。ルイス・フロイスが書き残した『日欧文化比較』には、こんなことがつづられているという。

 「ヨーロッパでは普通女性が料理を作る。日本では男性がそれを作る。そして貴人たちは料理を作るために厨房に行くことを立派なことだと思っている」

 芸予一帯には村上姓が多く、水軍の末裔とも言われる。でも、船頭さんは言っていた。「村上水軍のことに興味を持っている人は、地元でも意外に少ないですよ」

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土用にはドジョウを食べるべし

 ひょうきんな「どじょうすくい踊り」は、安来節に合わせて踊られる。そのドジョウは、意外にも、地元の島根県安来市では食べる習慣がなかったらしい。いまでは全国屈指のドジョウ養殖地となり、市観光協会は「どじょう丑の日キャンペーン」を、2016年8月20日まで、市内の飲食店など8店舗で展開している。

 山陰のローカルテレビ番組で、そのことを知った。世界一の名庭園で知られる足立美術館に隣接し、さぎの湯温泉の旅館街がある。番組が紹介していたのは、そのなかの1軒「竹葉(ちくよう)」だった。

 希望者には、日帰りの「どじょう会席」コースがあり、温泉入浴料、室料、税サービス料込みで4860円だった。

 ドジョウを久しぶりに食べたいな、とさっそくかみさん分をふくめ電話予約した。

 わが家から竹葉までは、カーナビの案内どおりに愛車を走らせ、1時間20分で着いた。旅館に専用駐車場はなく、となりの足立美術館に停めればいいという。徒歩なら美術館まで1分とかからないが、車止めがあり、ぐるっと大回りして所定の場所に停めた。

 30歳代の若い大将が部屋に案内してくれ、すぐに温泉につかった。ちょっと狭いが、いいお湯だった。

 風呂からあがると、部屋のテーブルには、すでに先付けが用意してあった。かみさんが風呂から帰るのを待ち、ぼくは生ビールを注文した。ギンギンに冷やしたジョッキに泡があふれている。一気に喉に流し込んで、まずは先付けのどじょうの佃煮から試した。これは初めて口にしたかもしれない。

 茶碗蒸し、チーズの生ハム巻き、ゴマ豆腐、長イモのしんじょう風など、それぞれにきちんと手がかけられている。料理を運んできた若い仲居さんが、刺身盛り合わせの説明をしてくれた。「ヨコワとカンパチ、タイです」

 ヨコワとは初めて聞く名だが、あとで調べると、クロマグロの若い魚のことで、高知県 や中国地方での呼称だった。「脂が乗っていて美味しいですよぉ」

 ぼくたちが観たテレビ番組では、30歳代と思われる美人女将が出ていた。料理をつぎつぎと運んでくる仲居さんは、入れ替わり立ち替わりで、まだ本命は登場しない。

 3人目に現われた仲居さんに、料理を思いっきりほめた。「ひとつひとつにちゃんと手をかけていて、素晴らしいです」「わぁ~、ありがとうございます。オーナーの板さんに伝えておきます」

 メインの柳川ひとり用鍋に火を点けてくれた。「その卵を溶いて、煮たってきたら回しかけてお食べください」

 鍋ができるまでにとどんな地酒があるか、聞いた。『月山』の辛口と甘口がお勧めだという。辛口を頼んだ。月山は標高197mで、月山富田城は安来市にあった城だ。戦国時代に山陰の覇者・尼子氏が本拠を構え、170年間の尼子氏六代の盛衰の舞台となった。

 そろそろ柳川鍋が煮えて溶き卵を回し入れる。れんげで器にすくって食べると、ゴボウが効いていて懐かしい味がした。かみさんに、東京・浅草の名店『駒形どぜう』の話をしながら、鍋を堪能した。

 ついに美人女将が現われ、どじょうの唐揚げとどじょう汁を持ってきてくれた。これと言って地場産業のなかった安来市で、ドジョウの養殖をはじめたのは10年くらい前だという。休耕田を利用して稚魚を放ち、食べごろになったところで市内外へ出荷する。

 「駒形どぜうにも卸しているんですよ」。泥臭さはまったくなく、骨も柔らかでそのまま食べられる。ドジョウ料理は初体験のかみさんも、「美味しい、美味しい」と箸を盛んに運ぶ。醤油ベースのドジョウ汁も絶品だった。

 「いまウナギは高いから、〈土用にはどじょうを〉で食べにきました」。そう言うと、美人女将は「それ、キャッチコピーとしていただきます!」と明るく笑った。「土用の丑の日にはうなぎを」と定着させたのは、俗に平賀源内だとされる。安来の〈土用にはどじょうを〉も定着すると面白い。

 ドジョウは立秋前の夏の土用から秋にかけてが旬だそうだ。カルシウムやビタミンDが豊富で、ウナギとおなじように夏バテ予防に効く。さぎの湯温泉の旅館街が、どじょう料理で売り出したのは、近年のことだという。

 ローカル紙には「どじょう丑の日キャンペーン」の記事が出ていたが、よくあることで、地元の旅館・飲食店でキャンペーンが徹底されているわけではない。そろいの幟でもこしらえて旅館街にずらっと立てればムードも盛り上がるのだろうが、まだそこまでいっていない。

 「ところで、この数々の料理はきちんと手をかけていますが、ご主人はどこで板前修業されたんですか?」

 「都会の店で修行したわけではなく、地元でベテランの料理人に師事して覚えました」

 ご主人と女将さんは、どじょうすくい踊りを本格的に習い、準師範の資格を持っている。お座敷で披露することもある。師範になると、難しく珍しい「ふたり踊り」ができるそうだ。それはさすがに見たことがない。次回のお楽しみに取っておこう。

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ドキュメント 甲子園アルプススタンド

 持参の温度計は、38度を示していた。「ただここに座っていろ」と言われたら、拷問だ。それでも、一塁側アルプス席で、逃げ出したくなるような暑さは感じなかった。

 ぼくたちはなぜ、日の出前に起きて、バスで4時間もかけて甲子園へやってくるのか。そしてなぜ、母校の応援に声をふりしぼるのか。アイデンティティーを確認するためではないだろうか。青春の3年間、自分はたしかにあの学校で日々を送ったと確認するために。

 フランスでテロに走った若者たちは、例外なくアイデンティティーが錯乱していた。イスラムのルーツを持ちながら、キリスト教文化圏で暮す移民の子どもたちだった。ひとは、アイデンティティーが乱れると、心理的に安定して生きて行けない。何歳になっても、ひとは自分が何者なのか、アイデンティティーを確かめようとする。

 母校・出雲高校が夏の甲子園に初出場する。その事実に、同窓会というマシンがフル回転した。各期卒業生の緊急会議が開かれ、億単位の金を集める算段が伝達された。同窓生は寄付集めに奔走し、同時に、応援団への参加申し込みに走った。

 応援バスツアーの申し込みは、2016年8月5日の午前9時から受け付けられた。地元の旅行会社の電話はずっと話し中だった。それでも5回目にかけたとき、奇跡的につながった。あとで、席を確保できなかったひとがたくさんいたと知った。JRで甲子園に向かったひとも少なくなかった。空前でおそらく絶後の甲子園、春夏連覇をねらう智弁学園が相手でたぶん2回戦の試合はない。それが同窓生を、この「ひと試合」に殺到させた。

 バスでとなりの席になったのが、清水清治さんだった。出雲高校の2期卒業で、もうすぐ84歳になるという。出雲応援団のなかでも、おそらく最高齢ではないか。島根県立高校の数学の教師をしていた。いまでも軟式テニスと晩酌を楽しみ、小柄ながらかくしゃくとしている。

 安来高校に勤めていたとき野球部長をし、あと一歩で甲子園というところまでいったという。ぼくの亡父も、出雲産業(現・出雲商業)の野球部長をしていて選抜大会に出た。小学2年のぼくは、甲子園土産にもらったグローブが宝物になった。

 夏の甲子園は、若いころ、取材で2週間ほどいた。連日の猛暑の激務で、大会が終わるとどうじに体調を崩し、奈良の親友宅に泊めてもらって回復を待った記憶がある。

 蔦のからまる球場の外でさんざん待たされたあげく、アルプススタンドに入った。対戦する奈良の智弁学園は、おなじみの白地に赤で「C」の人文字を作りだした。こちらは、急きょ編成された約60人の吹奏楽団と赤いボンボンを手にしたチアリーダーの女の子たちが、陣取った。楽団の半数は卒業生だった。

 応援バスのなかでは、赤白の野球帽と赤のメガホン、高校の名入りの白い応援タオルが配られた。これも、出場が決まって急きょ注文したのだろう。赤と白のカラーは、智弁学園と完全にかぶるが、応援団の一体感に統一グッズは欠かせない。

 1回、出雲のエース原暁は、いきなりヒットを許し、バントで送られた。相手2年生の3番が強振し快音を残した。アルプス席からは打球が見えない。センター橋本典之が背走してすぐにあきらめた。ライトからレフト方向への「浜風」をものともせず、打球はライナーでバックスクリーンに飛び込んだ。やや高めのチェンジアップだった。島根にこれほどの打撃をする選手はいないだろう。

 アルプス席では、大きなため息がもれた。なんとか敵の攻撃をしのいでまず先制点を、という望みは打ち砕かれた。

 出雲の攻撃に移ると、応援団は総立ちでメガホンを打ち鳴らす。3番新宮健太がライト前へヒットを放った。「これで、少なくともノーヒットノーランはなくなったぞ」

 2回の表がはじまるときには、球場に校歌が流れた。同窓生たちは声を出して歌ったが、在校生はなぜか口を開かない。松本さんが「ぼくたちがいたころには、まだ、校歌はなかったんですよ」と語る。

 3回裏、先頭打者の7番原が、ショート超えのヒットで出た。つづく水滝一貴がバントをきっちり決める。「よーし、それが山高野球だ!」。誰かがメガホンで叫ぶ。出雲高校は丘の中腹に建ち、地元では「山の学校」「山コウ」と呼ばれる。

 2死から1番橋本が思いきり引っ張った。レフトは一瞬前に出ようとしてから背走した。その頭上を打球は超え、2塁にいた原は一気に生還した。「ヤッタアーッ!」。応援団から、悲鳴のような歓声があがった。こんな、うれしさが爆発したのはいつ以来だろう。

 相手のナインは体つきも一回り大きく、言わばセミプロだった。それに「高校の部活」が挑んでいる。1点を取っただけでも上出来だった。

 清水さんが大きな梅干しをくれた。奥さんが持たせてくれたものだという。

 エース原の出来は悪くはなかった。しかし、智弁のスウィングは鋭かった。途中、ファースト加藤雅彦にマウンドを託したが加点され、1対6で試合は終わった。堂々と戦った。

 「冥土の土産ができました」。松本さんは胸ポケットに一葉のモノクロ写真を忍ばせていた。同期の第3代野球部主将、故・公田茂さんがある大会の優勝カップを手にしている。

 出雲ナインが、一塁側アルプス席へ走り寄ってきて整列し、一礼した。「よくやったァ!」「ありがとォーッ!」。同窓生は、みな目頭を熱くしてメガホンを打ち鳴らした。

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