インド亜大陸

ミサイルかロケットか、どっちでもいいが

 青空に白煙を吐きながら白い物体が飛んでいく。北朝鮮が「人工衛星の打ち上げ」と称して「何か」を打ち上げる光景をテレビで観ながら、アフガニスタンの首都カブールで見た「スカッドミサイル」を思い出した。やはり、青空に白煙を吐きながら、頭の上を白い物体が音もなく飛んで行った。カブールの野外市場で取材しているときのことだった。

 そのころのカブール盆地は、ナジブラ共産主義政権がソ連駐留軍に支えられて支配していた。武器のすべてはソ連製だった。スカッドミサイルは大量破壊兵器であり、一発で数百人を殺すことができる。

 ぼくたち特派員は、空路カブールに入ると、ナジブラ政権の動向を取材して原稿を本社に送るのが職務だった。アメリカ、ソ連、フランス、イタリア、スペインなどいろんな国の特派員が、おなじホテルに泊まり、政権の記者会見があると三々五々外務省に行った。

 「今朝、わが軍は反政府勢力に対し攻撃を仕掛け、推定300人の敵を殲滅した」。こういう発表文を報道官が読み上げる。ぼくたちはそれを筆記したりテープレコーダーに録音したりする。ほんとかどうかも確認のしようがない発表をいちおう聞き置いて、急いでホテルに帰り、テレックスの前に座って原稿を打つ。ソ連経由で国際電話がつながることもあるが、たいていは雑音がひどくてよく会話ができず、テレックスで外界と交信するのが一番確実な方法だった。

 ぼくは、記者会見が終わるとチャーターしているタクシーを飛ばし、いの一番にホテルのテレックスの前に陣取り、原稿を送ることにしていた。共産主義政権の常として、嘘や誇張がふくまれているのは承知の上だが、それでもナジブラ政権が公式に何を発表したかはそれなりにニュース価値があった。

 「推定300人の敵を殲滅した」と発表されたとき、ああ、あのスカッドミサイルで反政府ゲリラがやられたんだな、と思った。スカッドミサイルは、1991年の湾岸戦争で一躍名を知られることになったが、ぼくがカブールへくり返し入ったのはそのちょっと前だった。

 青空を飛んでいくスカッドミサイルは、大量破壊兵器という言葉から連想する不気味な感じはまったくなく、市場の人びとも花火見物をするようにぽかんと見上げていた。ただ、それによってナジブラ政権の言う「敵」が一度に大量殺戮されたのかと思うと、やりきれないものを感じた。

 ぼくは、パキスタンの北西部アフガン国境の街ペシャワールを何度も訪れて、そこを後方基地とするアフガン反政府ゲリラたちにもよく取材した。彼らは生まれつきの戦士で、裸足にサンダルでカラシニコフ銃をかついでアフガニスタンの山地を歩き回り、ナジブラ・ソ連軍と戦っていた。彼らは一様に人懐こかった。スカッドミサイルによって、そういう戦士たちが百人単位で殺されるのだ。

 読売新聞によると、北朝鮮は、1970年代、エジプトから旧ソ連製のスカッドミサイルを手に入れて改良し、80年代半ばから、韓国を射程に収めるスカッドB(射程300㎞)とスカッドC(射程500㎞)を実戦配備した。

 93年には、日本本土をほぼ射程に収めるノドン(射程1300㎞)の発射実験に成功した。北朝鮮は短距離弾道弾スカッド約600基、中距離弾道ミサイル・ノドン約200基を保有している。北の独裁者がボタンを押せば、韓国も日本列島も阿鼻叫喚の地獄となる。

 今回、北朝鮮が「大成功した」とする「人工衛星搭載ロケット」、事実上の大陸間弾道ミサイルは、射程1万2000㎞でアメリカ東部のワシントンDCやニューヨークを射程圏内にすると言われる。ただ、まだ核弾頭を搭載する技術には成功しておらず、またミサイルが宇宙空間から大気圏に再突入する際の耐熱技術も未開発とされる。したがって、すぐにもアメリカの心臓部を狙えるわけではないらしい。

 ただ、ぼくには気になる報道があった。今回の打ち上げで、「ミサイルの1段目は分離後に爆発し約270個の破片になった」という情報だ。ミサイルを撃ち落とせる可能性がもっとも高いのは、打ち上げられてから間もないタイミングだとされる。だが、もし、1段目がばらばらだと、熱を感知してミサイルを撃ち落とす迎撃システムの赤外線センサーがうまく機能しない恐れが出て来る。1段目の破片も高熱だから、迎撃ミサイルは弾頭か破片か惑わされることになりはしないか。

 ぼくはカブールへ、いつもニューデリーからの直行便で入った。壮大な盆地の中央にあるカブール空港へ着陸する前、飛行機はらせん状に下降しながら、燃えるマグネシウム弾を撒きちらすのが常だった。地上の反政府ゲリラが、熱追尾式のアメリカ製地対空スティンガーミサイルで狙っており、それを惑わすためだった。だから、カブールへ入るのはいつも命がけだった。

 北朝鮮が1段目を自爆させ破片にして海上に落下させたのは、韓国軍に回収されて構造や機能を分析されるのを防ぐためだという報道が多い。だが、カブールの“故事”とおなじような方法を取り、迎撃を避けるのが主目的ではないだろうか。

 いずれにせよ、北朝鮮は手強い。日本の社民党は「北朝鮮の脅威をいたずらに煽るな」と“平和ぼけ”の声明を出したが、冷静に判断しても暴走する北はじゅうぶんに脅威だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ニューデリーの青空は追憶のなかに

 暦の上で春とは言え、日本列島はまだ寒い。先日は出雲でも5センチほど雪が積もった。空は、相変わらずどんよりとしている。晴れたかなと思ってもつづかず、いつの間にか雨が降り、雪になったりする。こんな季節には、ニューデリーの冬の青空が懐かしい。

 インドは暑い国だと日本人の多くは先入観を持っている。だが、少なくとも、ぼくたち一家が暮らしていた首都ニューデリーの冬の夜は、暖房が必要だった。この地方は「冬とモンスーンと夏の3季だ」とぼくのおじいさん秘書ヴァンカタヤは言っていた。

 現代日本の年の初めは、太陽暦の1月1日にはじまることになっているが、インドの年初をいつにするかは一概には決まっていないようだった。ニューデリーでは、2月後半から「1日に1度気温が上がる」と言われるほどで、3月にはもう夏の気配がただよう。暑さのピークは4月から6月にかけてで、それにつづきモンスーンがやってくれば気温はかなり下がり、インド人は大喜びする。

 日本で言えば梅雨だが、そのモンスーンが来ないと気温は下がらず農作物にも大打撃を与えて経済に致命的な悪影響をおよぼす。インドでは、かんがいなど農業技術がまだじゅうぶん発達していないから、かなりお天気次第なのだった。

 無事モンスーンが来れば、数か月にわたる猛暑で消耗した体を休めることができる。ニューデリーの8月ごろは東京などよりむしろ気温は低い。だが、9月の中旬ごろ、第2の夏「セカンドサマー」がやってくる。モンスーンの湿度をふくんでいるだけ最初の夏の暑さより「重たさ」が増しており、体にこたえる。人びとが高熱などでばたばた倒れるのがこの時期だ。

 それも10月後半には少し落ち着き、11月上旬にはずいぶん過ごしやすくなる。この季節に行われるのが、ヒンドゥー教最大の火の祭「ディワリ」だ。町中にろうそくの灯りをともし、ものすごい数の花火を打ち上げて盛大に祝う。この祭りをもって1年の始まりとする考え方もある。

 それから翌年の2月までが、もっともいい季節だ。日中は涼しく空気はさわやかで、青空が広がる。日本の中秋を思わせる日々がつづき、ああこんな季節が1年中つづいたらインドも天国なのに、と思わせるものがあった。

 ぼくの第2子となる娘が生まれたのは12月9日で、抜けるような青空の下、真っ赤なブーゲンヴィリアが咲き誇っていた。日本に一時帰国して寒い季節に産むよりよほどいい、とかみさんの両親をニューデリーに呼んで出産した。

 それから20数年が経ち、読売新聞は「ニューデリー 大気汚染 死者年1万人」という信じられないニュースを伝えていた。

 大気汚染と聞いて、日本に暮らすぼくたちがまず思い出すのは北京だ。商社マンとして上海に住んでいる甥夫婦の話だと、そこでも大気汚染はかなりひどいそうだ。偏西風などの影響で日本にも中国大陸の大気が流れて来たりするから、ぼくたちは敏感になる。急激な経済発展で工場が乱立し、車の排ガス規制も追いついていないから大気が汚染される。

 読売記事によると、インドの公的機関の調査で、ニューデリー市内だけでも大気汚染が原因とみられる肺疾患などによる死者が年間1万人を超えるという。

 WHO(世界保健機関)が2014年に発表した「主要都市のPM2.5の年間平均濃度」では、東京の10に対し北京は56だった。日本のニュースで有名な視界不良の北京は、東京より5.6倍ほど汚染されていることになる。しかし、ぼくがかつて飛び回っていたインド亜大陸の各都市は、その比ではない。ニューデリーが世界約1600都市のなかでも最悪で153、インド西隣パキスタンの商都カラチが117、東隣バングラデシュの首都ダッカが86となっている。

 ぼくたち一家は、7年前にニューデリーを再訪したが、そのときはそれほど空気が悪い印象はなかった。しかし、経済は年7%前後で成長しつづけたから、汚染は幾何級数的に進んだらしい。

 かつてのインドでは、国産車アンバサダーや日本のスズキが現地生産するマルチなど車種は限られ道路はすいていた。あるとき、対向車が反対車線を走って来てぶつかる寸前、ぼくのお抱え運転手ヘンリーは冷静にそれをかわした。交通量はそれほど少なかった。

 経済も事実上の「鎖国」に近く、工場などの数も限られていた。だが、1991年、インド政府は経済の自由化に踏み切り、98年ごろから急激に発展し出した。ぼくたちが再訪したとき、19年ぶりに会った親友のプラメシュもスズキの新車を持っていて、ぼくたち一家をあちこちに連れて行ってくれた。そして、インドで初めて交通渋滞を経験した。

 経済発展にともなって電気も慢性的に不足しており、火力発電所で石炭をがんがん焚いている。その一方で、都市周辺ではいまでも野焼きがおこなわれており、それも空気を汚す原因となっている。デリー首都圏では2016年初めからマイカー規制に乗り出し、車両ナンバーの偶数、奇数で1日おきに通行を禁止する試みを実施した。排ガスもヨーロッパと同等に規制強化する政策を打ち出した。だが、その実効性を疑問視する声は根強い。

 冬場はとくに大気が滞留するため、連日、スモッグに包まれているという。あの抜けるような青空は、もうぼくたちの追憶にしかない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人命には軽重があるらしい

 パリの同時多発テロは、国際社会を変な方向に向かわせているのではないか。ローマ教皇はテロを「第3次世界大戦の一部だ」と言い、英国のキャメロン首相は「イスラム国(IS)」をヒトラーやナチに例える発言をした。いくらなんでも、それは安易で極端な言い回しだろう。欧米のメディアは発生から2週間近く経ったいまも、洪水のように事件関連の報道をしている。どうやら、集団ヒステリー現象にみえる。

 2015年1月に、パリの風刺週刊紙「シャルリーエブド」が襲撃されたとき、フランス国民は集団ヒステリーをみせていたが、今回はそれが欧米社会にまで広がり、欧米が主流をなす世界のメディアを席巻している。

 なぜ、メディアは、パリのテロをそこまで大々的に報道するのだろうか。その陰で、まったく無視されたテロ事件もあるというのに。それは、日本のメディアもおなじだ。というか、わが国のジャーナリズムは、いまにはじまったことではないが、無意識のうちに欧米の目で世界の事象をみてしまっている。

  パリ事件の前日に当たる2015年11月12日、中東レバノンの首都ベイルートで連続自爆テロが起き、40人以上が死亡した。イスラム国の犯行とされる。しかし、それについて日本をふくめ各国のメディアがどれほど報じただろうか。

 時事通信によると、クウェートの新聞アルライは「レバノンの人々は、世界にとってレバノンの犠牲者はパリと同等でなく、忘れ去られたと感じている」と伝えた。

 エジプトのアルワタン紙も「アラブ諸国では毎日人々が死傷しているのに、なぜフランスばかりなのか」といったフェイスブック投稿者の違和感を伝えるコメントを掲載した。町の喫茶店では「世界は二重基準だ」と不満の声が聞かれたことにも触れ、「強い国は注目され、弱い国は(強い国より)悲惨な事件が起きても目を向けられないものだ」と語る大学教授の見解を紹介した。

 だが、世界のメディアにみるこうした反応の差は、強い国、弱い国の問題ではないだろう。白人、欧米中心の世界観が国際社会で当たり前になっており、欧米のこととなると俄然注目するためだと思われる。

 ぼくが新聞社の外報部(現・国際部)で記者をしているころのことだった。海外特派員がピッチャーとして送ってくる原稿を、キャッチャーとして受け取るのが主任務だった。同時に、外電をこまかくチェックし、特派員に関連情報を流すことも重要な仕事だった。

 もう一つ、特派員も送って来ず共同通信も配信して来ないが、日本からみて比較的重要な外電のニュースを独自に翻訳し、デスクに提稿して紙面に載せる仕事もあった。

 あるとき、バングラデシュでフェリー転覆事故があり1000人以上が溺死したという外電が流れてきた。これは大変な事故だと思ったが、特派員も共同通信も送っては来ない。だから、自分で外電を翻訳してデスクに提稿した。だが、そのニュースは1行も載らなかった。原稿を紙面に載せるかどうかは整理部(現・編成部)の担当であり、そこの判断でボツになったのだ。

 その日の1面には、アメリカの列車事故で数十人が死亡した記事が載っていた。新聞社の内部で、何かとんでもないことが起きているような気がしてならなかった。不条理というか、病的な何かを感じた。

 それからしばらくして、またもバングラデシュでフェリー事故があり、今度は約2000人が亡くなったという。それも翻訳したが、隣の席にいた先輩が「それでも、載らないかもしれないよ」という。じゃ、整理部が食いつきそうな情報として「川に投げ出された乗客のなかには、鮫に襲われた人もいた」という一文を加えた。すると、「バングラのフェリー事故で死者2千人 乗客サメに食われる」という見出しで小さく載った。

 ぼくはのちにニューデリー特派員となり、バングラデシュにも3、4度取材に入った。アジア最貧国とされ、首都ダッカにも高いビルなどほとんどないが、とにかく人間がたくさんいた。国土はデルタ地帯にあり、川がたくさんあってフェリーが重要な公共交通となっていた。

 日本のように厳格な安全基準はどうやらないようで、乗客を詰めるだけ詰めて運んでいた。だから、何かの拍子に重心が傾いたりすれば、あっけなく転覆してしまう。そのために、1000人単位の人が溺れてしまう事故が起きるのだった。

 現地で人命が軽視されているのも否定しがたいが、といって1000人、2000人の人が亡くなった事故を無視していいものだろうか。ある先輩は、「日本のメディアにとっては、事実として人命の軽重順位がある」と話し、第1が日本人、第2が欧米の特に白人、第3が近隣国の国民、そして第4がその他の有色人種とした。明治の「脱亜入欧」メンタリティーはいまもまったく変わっていないということなのだろう。

 パリのテロ事件を受けて、フェイスブックでは、自分のプロフィール写真上にフランス国旗を映し出す機能が搭載され、世界中で多くの人がこれを利用した。そのなかでエジプトの著名俳優アデル・イマム氏は「フランスよりレバノンの方が(エジプトに)近い。だから私は連帯を表明する」と述べ、自らの写真にレバノン旗を重ねたそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

難民急増 希望の地はどこにあるのか

 われらがサッカー日本代表ハリルJAPANは、2015年9月8日、W杯アジア予選でアフガニスタンと戦った。ホーム&アウェイ方式だから、本来ならアウェイの試合はアフガニスタン国内で行われる。だが、かの国の政情がそれを許さず、第3国イランの首都テヘランで開催された。

 テレビで日本を熱烈応援した。試合は日本が6対0と圧勝した。勝ったのはうれしかったが、なんだか弱い者いじめをしたようで、少し気の毒にもなった。

 勝敗とは別に、スタジアムにどれだけアフガニスタンのサポーターがいるのか気になった。ほんのわずかだけ、アフガニスタン国旗を振っているひとたちがいた。スタンドはガラガラだったが、スタジアムの外にはたくさんのアフガン難民がいた、と読売新聞で知った。彼らにはチケットを買う金銭的な余裕がなかったのだという。

 難民という言葉を聞いて、ふつうの日本人は何を思うのだろうか。ぼくにとっては、記憶から消すことのできない体験がある。ニューデリー特派員をしていた四半世紀前のことだ。インドを拠点に、アフガニスタン、パキスタンなど南アジア8か国がぼくの取材エリアで、各国を転々とする日々を送っていた。

 最大の取材対象はアフガニスタン情勢だった。1979年末に、当時のソ連軍が突然、アフガニスタンに侵攻した。若いひとは知らないだろうが、そのためにモスクワで予定されていたオリンピックを、西側は歩調を合わせてボイコットした。日本も西側の一員だったから、やっと五輪代表になれた選手は全員泣いた。

 ただ、オリンピックに出られないことくらいは大したことではない、と特派員で現地へ行って痛感した。アフガニスタンの人びとのかなりの数が、ソ連軍侵攻のあと難民となった。国の東側に住んでいたひとはパキスタンへ、西側にいたひとはイランへ行った。

 ぼくの仕事のひとつが、パキスタンのアフガニスタン国境に近い街ペシャワール一帯へ逃れた難民の取材だった。難民の多くはテント暮らしで、食料や水をパキスタン政府から支給される。そのお金はアメリカが主に出していた。難民がいい仕事に就けるわけもなく、たいていは肉体労働をしてわずかな現金を稼いでいた。

 難民のなかには、アフガン反政府ゲリラもいた。ソ連軍が侵攻してから、首都カブールだけはソ連に支えられたアフガン共産主義政権が支配していた。この国は政治の構図がころころ変わったが、ぼくが取材に何度も通ったころ、反政府ゲリラはその共産軍と戦っていた。

 アフガニスタン領内で戦闘したあと、ペシャワールの難民キャンプへ帰ってしばらく休養し、また出撃するのだった。一般難民は言葉も通じずあまり親しく話す機会もなかったが、ゲリラたちのなかには英語のうまいひともいて、日本人特派員を歓迎してくれた。何と言っても、日本は味方の西側に属しているからだった。

 緑茶に貴重な砂糖を入れ、生のニンジンやダイコンを切ったものを、茶菓子代わりに出してくれるのだった。アフガニスタンの戦況や彼らの日常を聞くのが目的だったが、日本の話を質問されることもよくあった。あるとき「日本の軍隊は、どれだけ強いんだ?」と聞かれた。「憲法で軍隊はないことになっているが、自衛隊(SDF)というのがあって、実力は世界で10位くらいだと言われているよ」と答えると、「そりゃ、すごい」と感心された。

 ヨーロッパはいま、難民流入問題で大騒ぎとなっている。「イスラム国」とアサド政権の内戦状態になっている中東のシリアをはじめ、アフリカの紛争地域から逃げてきた人びとが、安住の地を求めて北へ北へ、ヨーロッパへと押しかけている。

 そのなかに、アフガン難民もたくさんいることを、最近の報道で知った。おそらくアフガニスタンの西側から逃れてきたと思われる。国連高等弁務官事務所(UNHCR)によると、いまアフガン難民は全体で約260万人いて、パキスタンに約150万人、イランに約95万人が暮らしているそうだ。ぼくが取材していたころより倍近くに増えている。

 テヘランなどにいるアフガン難民の一部が、ヨーロッパへ行く夢を持っている。ドイツは遠い希望の地で、そこへたどり着くためには多額の交通費はもちろん、運もいる。

 ドイツは今年中に難民100万人を受け入れる予定だが、難民認定を待つひとだけでも現在約30万人いるそうだ。その手続きや当面の住居、食料などはどうするのか。しかも、難民は労働者の職を奪ったり治安を悪化させる、とやっかい者扱いされる。ヨーロッパでもっとも豊かなドイツでさえそうだから、他の国はホンネではもっと冷たい。ハンガリーは、9月15日、難民が流入するセルビアとの国境を封鎖し、唐辛子の催涙ガスや放水で難民を追い返した。他の東欧諸国も、はじめから難民を拒否する姿勢をみせている。

 日本にとっても他人事ではない。もし、何らかの事情で北朝鮮の金正恩体制が崩壊すれば、大量の難民が日本海を渡ってやってくるかもしれない。中国の共産党独裁体制が倒れ、軍閥が割拠して『三国志』状態になれば、100万単位の難民が日本にも押し寄せる恐れがあると言われている。

 移民政策さえとっていない日本に、それだけの異邦人が一挙にやって来たら、国をひっくり返すような騒ぎになるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

たかがパクチー されどパクチー

 パクチーが手に入るか入らないかは、ぼくたち夫婦にとってはかなり重要な問題だ。人生の幸不幸を左右すると言ってもいいだろう。ま、そこまでではないが。

 インドから帰国した1990年春、東京近辺ではどうすればパクチーが入手できるか、研究を重ねた。その結果、池袋の東武百貨店の地下食品売り場にあるのを発見した。静岡産で1株がたしか250円くらいはしたと思う。インドの青空市場と比べると10倍以上だ。それでも当時は他で手に入らなかったので、通勤帰りにかみさんへの手土産として買って帰ったことがある。かみさんはたぶんお花よりパクチーのほうを喜ぶと思う(^-^q)。

 新聞特派員の出撃基地であるかつての職場・外報部(現・国際部)でも、パクチーが話題になったことはある。世界各地での生活経験がある面々がそろっているから、自然とそういう話で盛り上がる。食べることに興味のない記者は乗ってこないが。

 ぼくはまだ行ったことはないので断言はできないものの、アフリカ、中南米にもパクチーはあるようだ。面積や人口から考えると、パクチーを食べているひとのほうが地球の多数派だと言えるだろう。

 インドでのパクチーをめぐる想い出のなかでもっとも強烈なのは、チキンカレーのパクチー乗せだ。ぼくはニューデリー特派員とは言いながら、パキスタンやアフガニスタンへしょっちゅう出張していたので、インド国内で取材旅行をする機会は案外少なかった。それでも、南アジア情勢が少し落ち着いたら、お抱え運転手ヘンリーの運転で近間へ出かけたり、長距離列車や飛行機の国内線で出かけたりした。

 あるときには、わが家の赤ん坊を子守りのお姉ちゃんに任せて、かみさんにインドの田舎を体験させようと、ヘンリーの運転でニューデリーから南へ車を走らせた。途中、マトゥーラという古代からの都市があり、幹線道路脇の料理店で昼食をとった。日本式に言えばドライブインといったところだ。

 親友プラメシュは、こんなアドバイスをしてくれたことがあった。「インドの田舎で、不潔な店しかないときには、肉が腐っている可能性があるから、ベジタリアンカレーにしたほうが絶対に無難だよ」。マトゥーラの店は、インドの田舎にありそうな何の変哲もない感じではあったが、不潔そうでもなかったので、チキンカレーを注文した。

 出てきたのは、インドではごくふつうの骨つきチキンカレーだ。ユニークなのは、上にパクチーがどっさり乗っていることだった。カレーのスパイスのひとつとしていわゆるコリアンダーつまりパクチーの乾燥粉末を入れるのは一般的だが、生のパクチーを乗せて出てきたのは初めての経験だった。

 ぼくとかみさんは、これもいいんじゃない、とばかりぱくついた。う、うまい! カレーは絶品で、乗せられたパクチーと見事に調和している。こんな田舎にこんな美味いカレーがあるなんて、さすがインド!

 インドにいた3年間に、いやというほどカレーを食べた。地方へ取材旅行したときなど、メニューにカレーしかないから1週間も食べつづけた。メニューにはカレーという言葉はなく、ただチキン、マトン、ベジタリアンなどと書かれているのだ。そのなかでも、マトゥーラのパクチー乗せカレーに匹敵する最上の1品としては、プラメシュと食べたカルカッタ(現コルカタ)のエビカレーしか思い浮かばない。

 ぼくとかみさんは、マトゥーラでパクチーの底力を再発見したのだった。

 時は流れ、ドイツへ赴任し再帰国してからしばらく経ったころ、かみさんは東京近郊のある食品会社へ勤めはじめた。ベトナムが起源の生春巻きやタイ風エスニックスープが日本でブームになりつつあるころのことで、会社では大量のパクチーを扱っていた。食材が残ることが日常的にあり、かみさんはパクチーをもらって帰る日もあった。

 まず使ったのが海鮮中華サラダ・シャカシャカだった。次に思いついたのはタイスキだった。タイスキというのは、語源は「タイのすき焼き」とされているが、日本のすき焼きとは似ても似つかない。肉類や魚介類、野菜、豆腐などなんでも鍋にぶち込んでパクチーの効いたピリ辛のたれにつけて食べる。首都バンコクなどには、現地でCOCAと呼ばれるタイスキの店がいっぱいあって、にぎわいを見せている。伝統的なタイ料理もうまいが、ぼくはこのタイスキが大好物だった。日本の輸入食品店には瓶入りタイスキのたれを売っていて、パクチーを刻んで入れれば本場風のが食べられるのだった。

 シンガポールで食べた鍋料理スチームボートにもパクチーは入っていた。それをヒントに、わが家ではシャブシャブのポン酢にパクチーを入れることもよくあった。食品会社でパクチーの葉だけを使い残った根っこ部分をもらったときには、浅漬けにした。これがまたいけるのだ。

 そして、2013年秋、出雲へUターンすることになり、パクチーの種を買って帰ることにした。出雲でパクチーを売っているとは思えなかったからだ。プランターに撒いて育てようとするのだが、なかなか大きくならない。ネットで調べてプランターの形状や土の種類、日当たり加減などを研究し、どうにか少し食べられるようにはなった。だが、まだムシャムシャ味わえるほどには大きくならない。

 たかがパクチー、されどパクチー。その奥は深い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

たぶんに政治的なノーベル平和賞

 2014年ノーベル平和賞に決まったパキスタン出身のマララ・ユスフザイさん=英バーミンガム在住=は、「この受賞は終わりではなく、始まりに過ぎない」とし、改めて女子教育の普及に向けた決意を語った。まだ17歳であり、史上最年少のノーベル賞受賞者となるが、その前途はあまりにも多難だ。

 ぼくは、ニューデリー特派員をしていた3年間のあいだに、13回も西隣のパキスタンに入った。パキスタンのアフガニスタン国境に接する北西辺境州には、アフガン難民が多数逃れてきてキャンプで暮らしていた。

 難民のなかには、アフガンの7つの反政府ゲリラ組織があって、ぼくら西側のジャーナリストは、主に彼らの動向を取材するのだった。アフガニスタンに侵攻したソ連軍が、首都カブールだけ統治するナジブラ共産政権を支えていた。ゲリラ各派は、パキスタン領内に出撃基地を構え、アフガニスタンへ入っては、ソ連軍・ナジブラ政権軍と戦っていた。ゲリラ7組織に、アメリカをはじめとする西側諸国が武器弾薬などを与えていた。

 ソ連とアメリカは、にらみ合うだけで、一発の銃弾もミサイルも互いに撃つことはない「冷戦」を展開していた。アフガニスタンでは、銃弾・砲弾の飛び交う「熱戦」がくり広げられていた。日本で暮らす大半のひとが“平和ぼけ”しているあいだにも、日本は西側諸国の一員として、アフガン熱戦の半ば当事者の立場にあった。

 ゲリラ7組織の指導者は親日的で、時間さえ合えば取材に応じてくれた。ぼくは結果として指導者7人全員に単独インタヴューすることができたが、それぞれの思想には微妙な差があった。

 一番強硬だったのは、イスラム党ヘクマティヤル派のヘクマティヤル党首だった。カブール大学工学部時代にイスラム原理主義グループを結成し、スカートをはいた女性に向って機関銃をぶっ放したという伝説の持ち主だった。ゲリラ7派のなかで最大の勢力を保っていたから、アメリカから来る軍事援助も最大だといわれていた。

 スカートに向って銃を撃つのを、彼らは当然と考えていた。肌はもちろん髪であれ顔であれ、夫以外の男に見せるのはイスラム女性としてふしだらだというのだ。

 今回、ノーベル平和賞がマララさんに与えられるのは「西側の価値観によるものだ」と、パキスタンのイスラム原理主義組織は非難する。だが、ほんの20数年前まで、西側は、組織こそちがうがイスラム原理主義者を政治的、軍事的理由で支援していたのだ。

 ソ連邦が崩壊して冷戦が終わり、さらに、9.11テロに象徴される新たな脅威としてイスラム過激派が台頭したことにより、世界の構図はすっかり変わってしまった。そういうなかでの今回の平和賞決定であり、たぶんに政治的なものがうかがわれる。

 受賞者のマララさんは、2012年、パキスタン・スワート渓谷で2007年ごろから勢力を伸ばした新興イスラム武装勢力「パキスタン・タリバン運動(TTP)」に銃撃され、瀕死の重傷を負った。その指導者ファズルラの影響下、スワート渓谷だけで2008年までに400におよぶ学校が爆破され、学校教育が禁じられたという。

 ぼくたちが、パキスタンやアフガニスタンを飛び回っていたころには、まだ、TTPの影も形もなかった。いま世界最大の難題のひとつとなった中東の過激派「イスラム国」も当時は存在しなかったのに、いつのまにか大勢力になった。

 マララさんへの平和賞で思い出したが、ぼくはカブールに滞在しているとき、連載を書いた。その最終回が「因習、差別と闘う女性」というタイトルだった。

 <アフガン婦人中央協会のダドマーフ理事長は、ブレザーとスカートにブーツをはいていた。・・・ゲートから一歩外に出ると、「チャドリ」姿の女性が気にかかる。頭から足元まですっぽりと布で覆われ、顔の所だけ網の目になっている。チャドリをかぶるのは、地方出身か年配の人たちという。

 そのチャドリを脱ぎ、男性と一緒に仕事をしたアフガン女性の第1号とされる人がいた。各地の婦人組織を束ねる全アフガニスタン婦人協会(会員・公称15万人)のマスーマ・ワルダク会長(59)だ。

 「女性解放の運動は、すでに1919年、アマヌラー王政下で始まった。女性を抑圧する政権もあったが、少なくとも59年には、女学校や女性専門病院で、チャドリをかぶる必要はなくなった。今、カブール大学の約6割を占める女子学生が、どれだけファッショナブルな服装をしているかは、ご存じでしょう」

 ワルダク会長は、さらにこう述べた。「78年の4月革命以降、女性の社会的地位についての意識が、男女ともに大きく変わったことは否定できません」

 ダドマーフ理事長は「イスラム原理主義指導者らは『女は家に戻れ、チャドリをかぶれ』と言う。カブールでも古い習慣を強いるなら、女性は闘う」と言った。デリーにいる亡命アフガン知識人の男性もこんなことを言っていた。「西側は原理主義派主体のゲリラ勢力を支援している。だが、もし彼らがカブールの政権を取ったらどうなる。時計の針を30年も50年も逆回しすることになるんですよ>

 そのアフガニスタンもパキスタンも、原理主義派タリバンが勢力を伸ばした。
 マララさんは、時計の針を逆回しする強大で狂信的な勢力と闘わなければならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『インド特急便!』(光文社 2009年5月25日初版発行) 解説

ジャーナリスト 木佐芳男(元読売新聞ニューデリー特派員)

 インドは果たして超大国になるか――。本書『インド特急便!』の原題のサブタイトルは「新しい超大国の未来」となっている。振り返れば過去一〇年ほど、世界各国の政治家や外交官、ジャーナリストなどのあいだで、時おり、このテーマが口の端に上って来た。

 本書の序章には、「リベラルな超大国」という言葉が出て来る(26ページ)。おそらく、この本の最重要キーワードだろうと思われる。リベラルという言葉は日本語に訳しにくく、そのままカタカナで使われることが多い。そもそも、「リベラル」は「超大国」という言葉になじむものだろうか。辞書をみると、リベラルとは「政治的に穏健な革新をめざす立場をとるさま」とされ、「本来は個人の自由を重んじる思想全般の意だが、主に一九八〇年代のレーガン米政権以降は、保守主義の立場から、逆に個人の財産権などを軽視して福祉を過度に重視する考えとして、革新派を批判的にいう場合が多い」ともいう。「自由主義的な」と訳せばポジティブな意味あいになるが、ネガティブな使われ方もあるということだ。さらに、リベラル右派という言葉もあり、ややこしい。

 オバマ米大統領の評価をめぐる二〇〇九年四月一〇日付け朝日新聞の座談会で、中山俊宏津田塾大准教授は「リベラル派と規定されがちだが気質は極めて保守的」と評し、保守の対極にリベラルを置いている。水野孝昭朝日新聞論説委員は「オバマ氏は『イラク反戦』を掲げたリベラルだった。しかし選挙中の人種問題の演説や就任演説では保守のキーワードである『責任』を使った」と同様の発言をしている。このような例を見ても、政治・経済・軍事で他国を圧倒するはずの超大国に「リベラルな」という形容詞を付けることにはいささか違和感があるかもしれない。

 本書の著者は巻末近くで「リベラルな超大国」について論じるのだが、そこに至るまでの著述について触れておく。インドが新興国として注目を集めるようになったここ数年、わが国でもインドをテーマとするさまざまな本が出版された。しかし、そのほとんどは、経済的躍進を中心とするインドの新しい側面に注目するあまり、この大国が抱える影の部分を無視ないし軽視する傾向があり、誤ったインド像を提示する恐れをはらんでいる。本書も初めから読み進めると、「インドという国は、計り知れない年月のあいだ積み上げられてきた因習を振り払い、貧困を脱せんとし、(一部の評判によれば)一国が経済的・政治的大国になるとはどういうことか、先進国に目にもの見せようとしている」(11ページ)などという勇ましい記述にいきなり出くわす。そして「第一章 世界を驚かせたインド人プログラマーたち」では、インド躍進のきっかけとなったIT(情報技術)産業をとりあげ「これぞまさに、目覚めつつあるインドの新たな姿だった」(34ページ)と持ち上げる。第二章はアメリカ企業からの委託を受けたコールセンターなどオンライン・ビジネスの盛況ぶりを取り上げている。近年のいわゆるインドものの本を読んでいる読者の中には、「この本よ、お前もか」と嘆息する人もいるかもしれない。

 しかし、本書の真骨頂はそれに続く章にあると言えるだろう。著者は、インドIT産業のシンボルである南部の都市バンガロールで、あえてスラム街に足を踏み入れ、「第三章 お隣はスラム街~新興インドの光と影~」を書く。第四章では後進地域の女性たちに焦点をあてる。男尊女卑の風習が根強いインドでは、常に女性たちが虐げられてきたからだ。女児の誕生は往々にして歓迎されず、出産前に性別診断をし人工妊娠中絶が広く行われていることも報告する。

 ここまでがインドの今を語る<横軸>であるとすれば、第五章ではイギリス植民地時代にまでさかのぼり、<縦軸>を語っていく。インドは第二次大戦の終結前後、大英帝国からの独立闘争を展開し、一九四七年にはついに独立を果たす。「実は今日のインドの底力と経済的な自信の秘密を語る上で、自由を求める闘争とその成功は重要な鍵になる」(182ページ)という指摘は、かなり斬新な視点だ。そして第六章では、「世界最大の民主主義国」について、独立以来の歩みを踏まえて説いていく。「インドの民主主義は予測不可能な面もある」(206ページ)としながらも、軍事クーデターなどが一度として起きたことがないインド現代政治史を肯定的にとらえる。

 第七章には特筆に価する取材の跡が見られる。一九九一年の経済危機をきっかけに、それまでの社会主義的な国家統制経済から市場経済に大転換して以降のインド社会の病理を指摘するのだ。若き精神科医であるバガト博士が「カウンセリングと心理療法を提供する支援組織と、医師としての自身の仕事を通じて」、「現代インドの生活に満ちているストレスと精神的な苦悩がいかほどのものか、真に理解できたという」(240ページ)とする。「離婚、薬物乱用、家庭内暴力、それに鬱病はいずれも増加している」(242ページ)。

 被爆国・日本の読者の多くが少なからぬショックを受けそうなのは、核保有国となったインドを取り上げる第十章ではないだろうか。一九九八年五月、インドは国際社会を出し抜く形で核実験を強行した。インド政界は与野党を問わず、そして民衆の圧倒的多数も諸手をあげて支持したのだった。「核兵器実験は国民に強力な一体感をもたらした」(366ページ)とするインド人ジャーナリストのコメントを紹介している。「国際情勢のなかで、わが国はかなり重要なプレーヤーになりつつあります。それが核実験の結果であるというのなら、それはそれでかまいません」(369ページ)という政府の国家安全保障問題顧問を務めた人物の言葉も取り上げている。隣の敵対国パキスタンが、わずか二週間後に核実験を行い、インド亜大陸での核戦争は現実の恐れとなった。しかし、著者は、よく言えば客観的にこの問題を扱い、あえて直接的な批判はしない。

 そしていよいよ第十一章でこう述べる。「インドにも越えるべき壁はある。それでもやはり、アメリカが一〇〇年以上ものあいだ占有してきた世界的な役割に近い立場に、インドは移行しようとしている――すなわちリベラルな超大国である」(391ページ)。「アメリカの憲法と権利章典は、ヨーロッパの啓蒙主義とフランス革命の思想を土台とし、本質的に『リベラル』な国家の基礎を築いた。『リベラル』に代わることばは思い浮かばない」(392ページ)とも書く。だが著者は、ベトナム戦争やイラク戦争など負の側面については論じようとはしない。アメリカをリベラルな超大国と規定し、インドが第二のアメリカのようになると結論づけるのは、やや性急で飛躍があると思える。

 私もかつてニューデリーの特派員を務め、二〇〇八年にはインドを再訪した。名門デリー大学で英語・英米文学を教えインドの宗教・社会について数冊の著作がある親友に「インドは超大国になると思う?」と水を向けた。彼は「アメリカみたいに、という意味でなら、なれはしないし、なりたくもない」と答えた。その立場は大国志向の強いインドでは少数派かもしれないが、そういう冷静な声があることも確かだ。だいいち、世界は多極化の方向へ動いており、超大国が存在できる時代ではなくなりつつあるのではないか。

 しかし、本書にそうした弱点はあっても、カナダ出身で英BBC放送の南アジア各国特派員を歴任した著者が、二〇年近くにわたってインドを見つめ、実情をできるだけ誠実に伝えようとした姿勢は高く評価できる。インドには、貧富の格差の広がり、相も変わらぬカーストをめぐる争い、イスラム過激派の台頭とそのバックラッシュともいえるヒンドゥー教徒の過激化など、多様で複雑な現実がある。現代のインドを知る書物として一冊をあげるとすれば、本書をおいて他にないと思う。

 インドは近年、九パーセント以上の経済成長を続けてきた。二〇〇八年九月以来の金融危機のあおりを受け、二〇〇九年三月の輸出総額は前年同月比でマイナス三〇・四三パーセントと大幅に落ち込んだ。二〇〇九~一〇年の成長率は、政府の見込みで六・五~七・〇パーセントにとどまると予測されている。だが、日本とちがい内需は旺盛で、曲折はあっても経済面では疾走していくだろう。いっぽう、政治面では迷走するかもしれない。総選挙は二〇〇九年四~五月に行われるが、二大全国政党は衰退傾向にあり、特定のカーストや地域の利益を代表する多くの小党との連立しか道はない。財務大臣として一九九一年以降の経済改革を断行し、二〇〇四年に首相となった国民会議派のマンモハン・シン氏が続投できるかどうかが焦点となる。仮にヒンドゥー教右派のインド人民党を主体とする連立政権ができれば、イスラム教国パキスタンとの関係が再び緊張する恐れもある。イスラム過激派のテロもさらに激化するかもしれない。

 インドを外国人としての目で見るとき、出身国がちがえばまた異なった視点があるはずだ。私事だが、二〇〇九年九月、『日本人カースト戦記』(文芸社)という本を上梓する。かつてインドに住んでいたとき、使用人数人を抱え、家庭のなかにカースト制がそのまま持ち込まれてしまった。また、インドに暮らす日本人コミュニティは、各カースト階層が無数に分かれたサブカーストの一つのようなものとして、インド社会に存在していた。そうした体験に再訪記をあわせ連続エッセイとして綴ったものだ。インド像を立体的に捉えるべく、本書とあわせて手にとっていただければ幸いである。

  二〇〇九年四月記

| | トラックバック (0)