『日本人カースト戦記 ブーゲンヴィリアの祝福』
「プロローグ」と「第1部 1 ☆密輸ファミリー」
.プロローグ インドの壁
ふつうの日本人家庭に、インドのカースト制がそのまま入りこんできたらどうなるか。はちゃめちゃになるに決まっている。それだけではない。インドに住む日本人が作るコミュニティは、カーストの無数に細分化されたサブカーストのひとつとなっているのだった。
ふた昔前、ぼくは、新聞社の特派員としてニューデリーに駐在していた。妻の和余(ルビ=かずよ)と幼い息子・優士(ルビ=ゆうし)もいっしょだった。
やがて、和余がふたり目を身ごもった。そのころのインドは、おしなべて貧しく、医療水準も低かった。先進国からの駐在員家族で現地出産した例は、耳にしたことがなかった。それでも、妻とぼくはよく話し合い、ニューデリーで産むことにした。
かかりつけの『プライベート・クリニック』へ行き、カルヤン・サチデヴ院長に、ぼくたちの決心を話した。院長はシーク教徒で、ターバンを巻いている。
「とても光栄です。わたしたちのプライドにかけて、万全の態勢をとります。安心してください」
出産のため和余が入院すると、院長夫人は、揺りかごのようにかわいいベビーベッドを用意してくれた。院長夫妻に、内科医の髭(ルビ=ひげ)の医師も待機していた。別のクリニックの小児科医もきてくれた。看護師長以下4人の看護師もいた。たしかに、プライベート・クリニックの総力をあげた態勢だった。
赤ん坊は元気に生まれた。和余が、「舞」と名づけた。
そして、舞が1歳4か月になったとき、ぼくたちは日本へ帰った。気候や衛生事情、社会情勢が厳しいインドでの体験は、強烈な印象を残した。中でも、カースト制に翻弄された思い出は消えない。しかし、子どもたちに、インドの記憶はない。
やがて、妻とぼくのあいだで、こんなことを約束した。
「舞が20歳になるときインドを再訪し、子どもたちに、生まれ、育ったところを見せよう」
2008年、それが実現することになった。ぼくは、サチデヴ院長夫妻にあらためてお礼を言い、成長した舞を見てもらいたかった。しかし、プライベート・クリニックの住所は、すっかり忘れていた。インターネットで検索したり、知り合いの現役ニューデリー特派員に調べてもらったりしたが、分からなかった。
あきらめかけていた旅行出発の前日、書斎にあった古いファイルを開くと、プライベート・クリニックの住所を書いたメモが見つかった。正式名称は、ドイツ語表記だった。
Privat Klinik Dr.Sachdev
ぼくは、すぐネット検索にかけた。真っ先に出てきたのが『プライベート・ホスピタル』のウェブサイトだった。病院の住所はニューデリー近郊の新産業都市だったが、連絡先の住所が、ぼくのメモにあるものと一致した。サイトには、病院のメールアドレスがあり、英文のメッセージを送った。
3分後、院長の息子という人物から返信がきた。「父には、メールを転送しておきました。父の携帯電話番号は次の通りです。……」
ニューデリーのホテルに着くと、ぼくは、サチデヴ院長の携帯に電話した。
「あなたからのメールを、喜びとともに、驚いて拝見しました。お子さんが生まれたときのことは、家内もわたしもよく覚えています。あすの夕方、自宅にきてください。クリニックは閉鎖し、その後リフォームして家内と住んでいます」
翌日の昼、ぼくたちは、まず、プライベート・ホスピタルを訪問した。さらにあちこちを回った後で、市内の高級住宅街にあるサチデヴ院長の邸宅、旧プライベート・クリニックに向かった。慢性的な交通渋滞のため、30分ほど遅れてしまった。
待ちかねた夫人が、玄関の外をのぞきに出たところへ到着した。夫人は、舞を抱きしめた。
「あなたたちは、退院の日、この玄関先で記念写真を撮っていましたよね。さあ、今度はわたしたちがいっしょに撮りましょう」
そう言うと、夫人はいったん家の中に入り、アナログのカメラを取ってきた。ぼくたちは、デジタル・カメラを持ってきていた。カメラを取り替えながら、門番(ルビ=チョキダール)に、何枚も撮ってもらった。
院長夫妻のお宅の応接間には、ガラス製品や陶磁器など世界じゅうから集めたものが、展示品のように棚に飾ってあった。日本の皇室をめぐる話題からインドの結婚事情まで、話は尽きなかった。
帰りがけ、ぼくは、3枚の写真を持参していたことを思い出した。舞が和余のおっぱいを飲んでいるところ、院長宅玄関先での家族写真、そして、舞のかわいいベビーベッドに優士が立って遊んでいる写真だった。3枚目の写真を手にした院長夫人は、ぼくたちが思いもしていなかったことを口にした。――
インドは、今、世界の新興国として脚光を浴びている。ここにいたるまでには、大きな変革があった。
サチデヴ院長は振り返った。
「ひどい時代には、所得税の最高税率が97パーセントでした。どんなに稼いでも、手元には3パーセントしか残らないんです。共産主義そのものです。その後、70パーセントに下げられましたが、それでも、真面目に納税する気にはなれません。経済活動で扱われるお金の半分から7割くらいは、ブラックマーケットに流れ込んでいたでしょう」
国営企業、国産品を重視し、経済に関しては鎖国のような時代がずっとつづいた。
サチデヴ院長夫妻は、オーストリアのウィーン大学で、ともに医学留学生として知り合ったという。東西冷戦期で、ソ連を盟主とする東側陣営とアメリカを盟主とする西側陣営が、にらみ合っていた時代だった。院長は「チェコ、ポーランドなど東側の国へも旅行しました」と言った。アテネ生まれでギリシャ国籍の夫人は「そんなこと、決して許されませんでした」と語った。インドは、東西どちらににも属さない『非同盟』諸国の雄とされていた。だが、夫妻の話からもうかがえるように、インドはソ連のなかば同盟国だった。
サチデヴ院長の言う「共産主義」は、インドなどの場合、一般に「社会主義」として語られる。
1989年、ドイツで<ベルリンの壁>が崩れ、ソ連東欧の社会主義体制は次々と倒れていった。ベルリンの壁は東西ドイツを分断し南北に走っていた、と誤解している人がいる。実際には、東ドイツ領内の陸の孤島だった西ベルリン市を、ソ連と東ドイツが取り囲んだ壁で、「社会主義体制の象徴」だった。1991年には、ソビエト連邦が崩壊し、ロシアなどばらばらな国々になった。
東側には属さなかったが、国内に社会主義という目に見えない<壁>をそびえ立たせていたインドも、この年、ついに行き詰まって経済危機にいたった。マンモハン・シン財務大臣は、政策を180度転換して、鎖国の廃止・対外開放と大胆な民営化に踏み出した。つまり、<インドの壁>は1991年に崩された。所得税の最高税率は、30パーセントに下げられた。経済発展の土台は、そのときようやく築かれ始めた。
かつて、ニューデリーに駐在する各国の外交官や特派員の間では、インドを巨大な航空機にたとえ、「いつ離陸するか」が話題になっていた。
インドを再訪し、さまざまな人たちに話を聞いて、あらためて知ったことがある。インドという巨大な航空機は、1991年から7年間ほどが滑走路を移動するタクシングの時期で、1998年ごろ、とうとう離陸した。それからおよそ10年経って今にいたる。しかし、まだ、安定軌道には乗っていない。カースト制も厳然としてある。
マンモハン・シンは、2004年から、首相としてインドを引っ張ってきた。
ぼくたちがインドで暮らしていたのは、1987年から1990年までだった。<インドの壁>が壊れる直前の3年間だったことになる。この本では、「第1部 ブーゲンヴィリアの祝福」で、<壁>がまだあったふた昔前、カースト制と格闘したぼくの家族の物語を中心に綴(ルビ=つづ)る。そして、「第2部 ベビーベッド」として、インド再訪記を付け加える。第1部と第2部の各編はそれぞれに対応している。
.第1部 ブーゲンヴィリアの祝福
.1 ☆密輸ファミリー
ぼくの妻と生後6か月になる息子が、海外生活にあたり、最初にしたのはパソコンの密輸だった。インドの首都ニューデリー近郊にあるインディラ・ガンジー国際空港が、犯行の現場となった。
息子の優士が生まれた1987年のころ、インドは、まだ、なかば鎖国のようで、電化製品は、家庭で使うものさえ自由に持ち込める国ではなかった。まともに申告すると300パーセントもの税金がかかる、と伝えられていた。
犯行の3か月前、ぼくは、まず単身でニューデリーに赴任していた。現地にワープロを持ちこんではいたが、仕事をしてみて不便さを感じ、こっそりパソコンを手に入れることを考えた。東京本社にいたとき、パソコンを少し触ったことがあり、その便利さを知っていた。
しかし、当時の会社は、仕事用とはいえ、記者がパソコンを買うのに1円も出してくれるような雰囲気ではなかった。ましてや、税金など払ってくれるわけがない。
東京にいる友人の佐藤に国際電話をかけ、秋葉原で買ってもらった東芝製のラップトップ型パソコンは50万円ほどだった。ハードディスクも付いてはいない、今考えればおもちゃのようなしろものだった。それでも、税金はざっと150万円もかかることになる。そんなお金を払えるものか。ぼくは、空港の税関をすり抜けるため、必死に情報収集を始めた。
ニューデリーの日本人コミュニティには、『ピーコック』という30歳前後の駐在員とその家族が親しくつき合うサークルがあった。その集まりのとき、近くやってくる妻子にパソコンを持ち込ませる計画を打ち明けた。
「まず、一番のハードルはX線装置ですね」
藤原さんが言った。パソコンなどのメーカーNECの駐在員だから、反応は早かった。飛行機に搭乗するときチェックインカウンターで預け入れた手荷物は、着陸した飛行場でベルトコンベアーに乗せられて、乗客の前に出てくる。ニューデリーの空港では、その前にこっそりX線をかけ、電化製品などが隠されていないかどうかチェックしているという。
「ブツが入っている手荷物には、チョークで印をつけ、税関カウンターで引っかけるんですよ」
知らなかった。そんなことをされるなら、預け入れ手荷物には忍び込ませられない。藤原さんの同僚の下野(ルビ=しもの)さんが口をはさんできた。
「パソコンのサイズはどれくらいです?機内に持ち込んで、こっちの空港では、ベビーカーの座席下に隠しちゃう手があるんじゃないですか」
パソコンの大きさは大したことはないはずだから、やればできそうだった。すると、商社・丸紅で鉄鋼をあつかう森廣さんが、身を乗り出して言った。
「そう、それですよ。インド人は子どもが大好きだから、税関職員も子ども連れはまずフリーパスらしいですよ」
そして、まだ子どものいない森廣さんは、大胆なことを発案した。
「ベビーカーを奥さんひとりで押していって、万一、呼び止められたら、赤ちゃんを思い切りつねって泣き出させればいいんじゃないかな。インド人は子どもの泣き声にはめっぽう弱いから、すぐ通してくれますよ」
話を聞いていたピーコックの十数人の面々は、いっせいにうなずきながら盛り上がった。
「それ、それっ。奥の手はそれですよっ」
ぼくは、日本の妻・和余に電話して、友人の佐藤から届けられたパソコンが、ベビーカーの下のかごに入るかどうか確かめさせた。すっぽり入り、上からバスタオルでもかけておけば隠せるという。作戦はそれで決まった。ふぅーっ。
だが、ぼくには、ニューデリーの空港へ初めて降り立ったとき目にした光景が、気にかかっていた。ぼくの前にいた女子学生風のブロンド嬢は、あと2、3メートルで税関エリアを通り抜けられるというところで呼び止められた。出口わきにもあるX線装置に手荷物のすべてをかけられ、スーツケースを開かされていた。
鼻髭(ルビ=ひげ)をたくわえた税関の係官が、ビキニのショーツやブラジャーなどを一つひとつ取り出し、目の前に持ち上げて「所持品検査」をしたのだった。女の子は目に涙をためながら、抗議もできず、官憲のセクハラに耐えていた。――
ぼくの妻子を、そんな目に遭わせることだけは、何としても避けたかった。密輸犯にもプライドはある。
妻子は、成田発バンコク経由デリー着の便で飛んでくることになった。ぼくは、ちょうどそのころ、インドの東隣りバングラデシュの首都ダッカが騒乱状態になり、急きょ出張した。状況によってはダッカを離れられなかったが、かろうじて、タイの首都バンコクの国際空港乗り継ぎ(ルビ=トランジット)ロビーで合流できた。
3か月ぶりに見る優士は、ひと回り大きくなり、首もすっかりすわっている。頭はくりくりに剃り上げられていた。赤ん坊の髪を記念の筆にしてくれる業者があって、頼んだという。ずっしり重くなった優士を抱き上げると、目が潤んでしょうがない。成田空港で和余と優士と和余の両親に見送られたとき、ふたたび会える日がくるのだろうかと不安がぬぐえなかった。インドは、気持ちの上で、それほど遠い国だった。
感激にひたるのもそこそこに、ぼくは、われらが密輸作戦を和余に語った。
「えーっ、つねるの?」
「だから、それは万一、呼び止められたときのことだよ」
「でも、どこをつねったらいいの?」
密輸の実行犯になる覚悟を決めた和余の質問は、もっともだった。
「どこって言われても……。おむつから出てる太ももの下あたりを思いっきりいけばいいんじゃないの」
息子が号泣し、税関の係員があわてて通してくれる光景が頭をよぎった。そううまくいけばいいのだけれど。
インディラ・ガンジー国際空港には、予定より少し遅れて着陸した。機内から出ると、さっそく折りたたんでいたベビーカーを広げ、パソコンをかごに隠して作戦準備を完了させた。和余は成田空港で、中型のスーツケースのほか、日本の食材や身の回りのものを詰めたダンボール3箱を預け入れていた。それらにはやばいブツは入っていないから、すべてぼくが運ぶことにした。
日本時間でいえば、すでに午前5時ごろだった。優士は眠っていたが、和余は時差ボケになる余裕などなく、犯行を前に目を輝かせていた。
「いいか、堂々とわき目もふらず、あそこのカウンターの前を通り過ぎるんだぞ」
ベビーカーを押す和余のロングヘアーが遠ざかっていく。ぼくは、ベルトコンベアーから預け入れ手荷物が出てくるのを待ちながら、祈るような気持ちでそれを見送った。