『日本人カースト戦記 ブーゲンヴィリアの祝福』番外編

インド、紙オムツ、爆買い

 ニューデリーで暮しているとき、日本人の特派員仲間は7人いた。そのうちのひとりIさんは、日本へ帰国してしばらく経ったあと、会社を辞めて四国の実家へ帰った。どうしているのかと思ったら、年賀状で「家業を継ぎ、紙オムツなどを作っています」と書いてきた。

 四国でなぜ紙オムツなのか、そっちの方面はよく知らないのでわからないが、どこかの大手メーカーの下請けをしているのだろうか。それにしてもIさんは、家業とはいえ、ぼくの知り合いのなかでも異色の転身をした。

 じつは、ニューデリーと紙オムツは、ぼくたち夫婦にとっては忘れられない記憶がある。息子は、生後半年でインドへやって来た。前任者からの情報で、インドのベビー用品はほとんど使い物にならないから、日本で調達して来たほうがいいということだった。

 インドが経済自由化して「開国」するより前のことだから、ろくな製品はなかった。準備する量は3年分だった。わが夫婦は、赴任のずっと前から物資調達に着手した。まず、日本食で長期保存に耐えるものを確保しなければならない。味噌や醤油は業務用を手に入れた。

 自宅で作れる「ハウス本豆腐」という便利なものがあると聞き、それも買った。いまでも不思議だが、この製品をなぜ日本で売っていたのだろう。日本に住んでいる限りスーパーへ行けば豆腐などいくらでも買える。だから、海外赴任者のために開発したのだろうか。

 食料だけでもすごい量になったが、次に重要なのがベビー用品だった。文字通り乳飲み子を抱えて、スーパーなどを回った。息子はよく飲みよく出すほうだったから、紙オムツは吸収率がいいものを用意する必要があった。しかも、成長に合わせ段階的に大きなものが必要になる。研究の結果、アメリカ製のパンパースが一番合っているとわかった。

 さて、ニューデリーにまずぼくが単身赴任して、3か月遅れでやって来た妻子と暮すようになると、紙オムツは予想を超えてたくさんいった。現地の店でインド製を買ったこともあるが、使い勝手の面でパンパースとは比べものにならない。だから、出張や家族健康診断、旅行でシンガポールへ行ったときに手に入れた。かみさんによると、シンガポールのパンパースは日本で買うよりかなり高かった。それでも、ないわけにはいかないから大量に買って、飛行機の預け入れ荷物として持ち帰るのだった。

 あるとき、シンガポールの先輩特派員がニューデリーへ出張で来ることになった。「お土産は何がいい?」とあらかじめ聞かれたので、ためらわず「パンパースXLを」と頼んだ。空港へ出迎えに行くと、先輩は手に大きなパンパースの袋を持って現れた。

 また、日本から、友だちのルリコさんとマリさんがインド旅行に来たときのことだ。「何を持って行ったらいいですか?」とルリコさんが聞いてくれたので、やはりパンパースを頼んだら、「マリちゃんは花王に勤めているので、メリーズでもいいですか?」。もちろん、メリーズも喜んで使わせてもらった。

 先日、週刊新潮で中国人による爆買いの記事を読んでいたら、その懐かしいメリーズが大人気だという。都内のドラッグストアの男性販売員のこんな話が載っている。「あいかわらずの売れ行きです。販売個数制限をもうけても、まだ需要に供給が追いつきません」。指さす先には「紙オムツ3パックまで」と中国語で書いたポップとスカスカになった棚があったそうだ。

 「中国人観光客のお目当ては日本製の『メリーズ』。みなさん、個数制限ギリギリまで購入していかれます。でも、なかには、もう1回買うために変装して訪れる人もいるみたいですよ」

 じつは、メリーズは中国でもまったく同じ品質のものが生産されているという。それでも、かさばる商品をわざわざ日本で買って中国に持ち帰る。その動機はSNSなどの口コミらしい。当初、「日本から輸入したメリーズがすごい」という評価が拡散し、現地生産がはじまっても、“レジェンド紙オムツ”みたいに日本製が祭り上げられているそうだ。

 まあ、通気性のよさ、柔らかさ、吸収力のよさといった高機能の商品であることはまちがいない。

 紙オムツに限らず、中国人は中国製の商品を鼻から信用していないという社会背景があるだろう。それに、言論統制された国だから、SNSなどの口コミが日本では想像もできないほど発達しているのではないか。

 そう言えば、インドで暮しているときにも、口コミのすごさをよく体験した。いつも暇をもてあますお抱え運転手のヘンリーに聞けば、地域のたいていのことは知っていた。当時は、携帯電話はもちろん庶民には電話もなかったぶんだけ、口コミであっという間に広がるのだった。

 ぼくたちが、いよいよ日本へ帰るとき、処分品をガレージセールで売った。2、3日前、ヘンリーに「口コミでお客さんを集めてくれ」と言ったら、当日、大挙してかなり遠くのひとまでやって来た。

 紙オムツの想い出を書いていて、いまふっと思った。ぼくたち夫婦がシンガポールでやっていたことも、“爆買い”だったなぁ、と。変装する必要まではなかったが。

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横文字のサインはやめたほうが…

 ドイツ銀行は、大丈夫かいな。その赤字問題が、このところ日本でもメディアをにぎわしている。日本では、ドイツ銀行が日本銀行のように金融政策をになう中央銀行だと勘ちがいしている人もいるようだ。その名前が誤解を生みやすいのはたしかだ。でも、実際はふつうの市中銀行で、窓口業務もしているしATMコーナーなどもある。

 では、日本銀行に当たるドイツの中央銀行はなにかと言えば、それはない。EUに加盟している諸国の金融政策を一括して行うのはヨーロッパ中央銀行(ECB)だ。

 ドイツ銀行は、2015年12月期に決算が過去最大の約68億ユーロ(約8300億円)の赤字におちいったことが2016年3月に発表され、不安が広がっている。なにしろ世界でも有数の大銀行で、そこが大幅赤字で傾いたりすれば、ヨーロッパだけでなく世界経済に深刻な事態となる。

 ぼくもボンに特派員として赴任したとき、真っ先にしたのがドイツ銀行に口座を開設することだった。日本とおなじく開設には、公的な身分証明証がいる。ぼくはまずドイツ連邦新聞庁へ行き、特派員証(プレッセカルテ)を作ってもらった。そのためには、パスポートと新聞社のレターヘッド(社名などを印刷した便せん)に本社のお偉いさんの署名が入った正式レターが必要だった。

 口座開設申請書には、自分のサインをしなければならない。欧米には印鑑というものがないから、この申請書へのサインはとっても重要な意味を持つ。パスポート署名とおなじで、自分が自分であることを日本の実印に代わって証明するものだから、いい加減に書いたらあとで大変な目にあうことになる。

 当時は、ユーロが導入される直前のことで、ドイツの通貨はまだマルクだった。申請書へのサインは漢字で「木佐芳男」と書いた。それを見た窓口嬢は「シェーン(Schön)!」と感心してくれた。ダンケ・シェーン(どうもありがとう)とか言うときのシェーンだが、ここでは「ステキ、きれい」というほどの意味を持つ。欧米人の漢字に対する憧れは、いまに始まるものではないらしい。

 ぼくは、マルク建てのクレジットカードは、円建てカードがあればいいから作らず、小切手帳を作ってもらった。まとまった額の支払いには小切手で払う。もちろん、その際には銀行に登録してあるのとおなじサインをしなければならない。

 ドイツ銀行の登録サインを漢字でしたのには、ふたつの理由があった。漢字ならドイツ人などがまねすることがむずかしく、万一、小切手帳を紛失しても被害にあうことが避けられる。もう一つは、ある苦い経験からだった。

 インドのニューデリーへ赴任するときのことだ。前任者から東京へ長い手紙が来て、赴任前にすべき事務手続きなどがこと細かに書かれていた。その際、「ン!」と引っかかったのが「まず、ニューヨークに米ドル口座を開くこと」という一文だった。まだメールのない時代だから、ぼくはテレックスで「ニューヨークとあるのはニューデリーのまちがいではないですか?」と問い合わせた。でも、ニューヨークに作らなければならないという。

 そこで当時の東京銀行本店に行って、横文字のサインでニューヨークの口座を開設した。現地に行かなくても海外口座を作れるとそのとき知った。

 そして、いざニューデリーへ赴任すると、東京銀行ニューデリー支店で、インド通貨ルピー建ての支局口座と個人口座を開設し、小切手帳も作った。

 お金の流れは、じつにややこしかった。まず、東京本社の経理部からニューヨークのぼく名義の口座に、米ドルで給料の一部や特派員手当、毎月ぼくが請求する支局と出張の経費が送金される。給料の残りは、東京のぼくの日本円口座に振り込まれる。

 そして、少なくとも毎月1度、ニューデリー支店へ出向いて、米ドルの小切手を切り、ニューヨークからニューデリーの支局口座に送金してもらう。その際、米ドルからルピーに変わるわけで、そのときどきの為替レートによって損したり得したりすることになる。そして、支局口座から個人口座に、ぼくの給料として決まった額を振り込むのだった。

 なぜこんな複雑なプロセスにするのか。インド税務当局に、ぼくが総額いくらを本社からもらっているかを絶対にわからないようにするためだった。当時のインドと日本では所得にものすごい格差があり、バカ正直に収入の全額を申告したら累進課税で“天文学的な”所得税を取られ、仕事も生活もできなくなるからだった。

 だから、インド人の税理士を雇い、毎月、厳密な金の管理をしてもらっていた。その方法で問題なく過ごしていたのだが、任期が終わり日本へ帰るとき、東京銀行ニューデリー支店でひともんちゃくが起きた。口座開設申請書のサインと口座閉鎖申請書の横文字サインがかなりちがっていて、「これじゃ閉鎖できない」と言われてしまった。

 ふたつの書類を比べると、まるで別人がサインしたほどちがっている。もともと字はへただし、サインを英語で書くたびに少しずつ変化していたらしい。うーん、困ったな。インド人の窓口嬢ではらちが明かないから、日本人の支店長を呼んでもらった。支店長はパーティなどでよく会っていたから顔なじみだ。「まあ、身元ははっきりしているし、これで受け付けましょう」と言ってくれた。

 それ以来、どこの国へ行っても、サインは漢字で書くことにしている。シェーンだし。

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国家そのものがインチキな某大国

 パリ同時多発テロで、国際社会の関心が一気に、フランスとイスラム国(IS)に集まっている。しかし、その陰に隠れた観のある、ロシアの組織的ドーピング疑惑は、世界スポーツ史でも前代未聞の大スキャンダルだ。このニュースを聞いたとき、真っ先に思い出したのが、モスクワ特派員をしていた元同僚F君の話だった。

 アフガニスタンの現代史をふり返ると、1979年末、当時のソ連軍は、南の隣国へ戦車で一斉に侵攻した。そのころ、アフガニスタンの首都カブールには、親ソのナジブラ共産主義政権があり、そのナジブラ大統領の要請でソ連軍が入っていったことになっていた。だから、ソ連の行為は「侵略」ではなく「侵攻」と一般に呼ばれている。事実上は、侵略以外の何ものでもなかったが。

 それ以来、カブール首都圏など一部都市以外の山岳地帯を活動エリアとするイスラム反政府ゲリラ諸派は、アメリカなど西側の軍事援助を受け、侵攻ソ連軍・ナジブラ軍と戦っていた。そのアフガン内戦が何年もつづいた。

 F君がモスクワ特派員となって赴任したのは、そういう国際情勢のころだった。あるとき、ソ連政府が外国の報道陣をアフガニスタン領内の戦略拠点に連れて行く取材ツアーを企画した。ソ連軍は、アフガン政府の要請を受け治安維持に当たっているが、反政府ゲリラがいかに残虐な戦闘行為で無辜の市民の命を奪っているか、直接取材して世界に報道して欲しい、というのがソ連の狙いだった。

 報道陣一行は、戦闘ヘリに分譲して、アフガニスタンのある地方都市へ入った。そこのアフガン政府の建物で、軍事情勢について説明を受けている最中だった。窓外でドーンという爆発音が響いた。「いま、反政府ゲリラのロケット砲が市内中心部に着弾しました」。ソ連当局者は、あまり間をおかずそう解説した。

 F君は、着弾のタイミングの良さ、解説のあまりの手際の良さに「あ、これは、KGBを使ったやらせだな」とすぐ見抜いたそうだ。KGBは、ソ連の謀略を担う泣く子もだまる諜報機関だ。

 ソ連政府とナジブラ政権は親分子分のような関係で、KGBの指導によりナジブラ政権もKHADという諜報機関を持っていた。

 そのころニューデリー特派員をしていたぼくは、ナジブラ政権に取材ビザをもらい、ニューデリー空港からカブール空港へ直行便で飛んで、政権側の動向やカブール一帯の情勢を取材して、東京に原稿を送る仕事をしていた。

 いっぽうで、アフガニスタンの東隣パキスタンに入り、両国国境に近いペシャワールへ行って反政府ゲリラ側の取材をすることもよくあった。あるとき、ひとりでペシャワールの青空市場へ行き、果物や野菜を売る屋台や雑踏をカメラに収めていた。民族服シャルワーズ・カミーズを着てあごに髭を伸ばした、どこにでもいそうな男性が地面に座り込んでいた。その辺りにレンズを向け、シャッターを切ろうとした。すると、その男性は、手に持っていた新聞でさっと自分の顔を隠した。あ、あの男はスパイ要員だ。KGBかKHADか。いずれにしても、乱射テロなどが相次ぐ市場で情報収集しているのだろうと思った。

 今回のロシア・ドーピング疑惑で、KGBを前身とするFSB(ロシア連邦保安局)の深い関与が取りざたされている。WADA(世界反ドーピング機関)の独立委員会が1年近く調査してまとめた報告書には、旧ソ連やいまのロシアのインチキぶりには慣れているはずのぼくでも、あきれてしまう内容が克明に綴られている。

 ロシアには、薬物検査を任務とする「表」の検査機関とは別に、「裏」検査機関があり、選手から採取した1417の尿検体を、裏表の間ですり替えていた疑いが指摘されている。その検査機関に頻繁に出入りしていたのが、FSBの要員だったという。

 また、たとえば、シカゴマラソン3連覇を達成した女子選手は、ドーピングのもみ消しをするため、ロシア陸上連盟の幹部に賄賂を渡したことを告白した。その幹部は、事実が公表されるのを防ぐため、当時の国際陸連会長に1億円を超える賄賂を贈ったとされた。いまフランス当局が捜査中だが、パリ同時多発テロでそれどころではないかもしれない。

 WADA独立委員会は、国際陸連に対しロンドン五輪金メダリストをふくむ5選手、指導者4人、医師ひとりの永久資格停止を勧告し、検査機関の責任者を辞任に追い込んだ。でも、まだ、氷山のほんの一角に過ぎない。

 かつてソ連・東欧の共産圏諸国は、スポーツに国家の威信をかけ、国をあげた強化体制でいわゆる「ステートアマ」を生み出し、西側諸国に対して圧倒的な優位を築いた。独立委員会は「ロシアにはソ連時代の名残がある」と指摘し、国ぐるみの不正行為が展開されていたとの見方を示した。かつて旧東ドイツでも組織的ドーピングがあった。

 ロシアのプーチン大統領は、国として独自調査をするよう指示したと伝えられるが、国ぐるみで行っていた不正を、自分たちの手で明るみに出すことはないだろう。プーチンはまた、「責任は違反した個人が負わなければならない」とし、国としての責任逃れの方策を練っているようだ。

 ひとつだけ、はっきりしていることがある。共産主義国家とその後身国は「政治も経済もスポーツも、ほとんどがインチキだ」という事実だ。もちろん中国、北朝鮮も。

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インドに渡った仏教原典主義の「いま良寛さん」

 亡き父の新盆を前に、2015年8月6日、出雲の地元高齢者サークル主催による供養会が行われ、菩提寺へ参った。住職も亡妻の新盆を迎え、読経の後の法話でこう語った。「仏教の教えをひとにさんざん語って来ましたが、いざ妻を失ったわが身となると辛くて」。その言葉は、日本の葬式仏教の限界をうかがわせているように思えてならなかった。

 思いは、インド・ヒンドゥー教最大の聖地ベナレスの近くにあるサールナートへ出かけ、後藤恵照という僧侶に2日間のべ6時間以上にわたるインタヴューをしたときの記憶へ飛んだ。ニューデリー特派員をしていた1989年1月末、冬休みを取って訪れた。

 後藤師は、1933年、茨城県土浦市の在家に生まれ、18歳で曹洞宗のお寺に入ったが、日本の仏教のあり方に疑問を持ち、45歳にしてインドへ渡った。翌年、仏教の聖地サールナートに「法輪精舎 日本寺」を建立し、貧しい子どもたちのための学校も開いていまも健在だ。中学・高校の生徒数は計約800人、日曜学校の恒例食事会には1000人もの子どもたちが集まる。法輪精舎で修行中のある日本人青年は、師を「いま良寛さん」と呼ぶ。

 四半世紀前に行った未公開ロングインタヴューのダイジェストを、以下に記しておく。

                  ◇
 ――先生は、釈迦が説いたいわゆる原始仏教に対して自分が直接アプローチしていきたいとお考えですね。
 阿含経を読んでいると、お釈迦さまが病気をしたとか、非常に人間的です。ところが(日本に伝わった)大乗仏教では神格化してしまって実在しない人物を作り上げているんです。それにはぼくは、まったく興味がないわけです。

 ――釈迦も一修行者、インドで言うサドゥーということですか。
 そうです。そのひとがたまたま悟りを開いて説教したのであって、日本で言うような神通力的なものはなかったんです。

――日本の仏教イメージと、本来インドにあった仏教はまったくちがうものですよね。
 日本の仏教はとにかくきれいごとを並べているんですよ。色メガネを通して仏教を見ている。現実はそうじゃないのに。もともと、お釈迦さまは坊さんが葬式をすることを禁じているんです。坊さんは拝み屋じゃあないと。いまの坊主は金儲けのために葬式をしているが、それはまちがいです。

――では、釈迦が説いた本当のところは何なんでしょうか。
 善いことをすれば善人で悪いことをすれば悪人である。基本的にはこれだけです。

――死生観とか宇宙観についてはどうなんですか。
 一般民衆に対しては地獄や極楽について説いていますが、これはあくまでも通俗であって、より高い立場では死後の世界はどうでもいいとしています。証明できないんですから。

 ――では、釈迦が本当に言おうとしたのは何でしょう。
 心の迷いをなくせということです。それと、現在をよく生きなさいということ。過去はもう過ぎ去り、未来はまだ来ていないのだから。

 ――先生が目指しているのは、本来の仏教僧のあるべき生き方ですか。
 そうです。まあ、いまは寺を持っていろいろしてまして、お釈迦さまのような完全な姿はできないですが。ふつうのひとはお釈迦さまが仏教独自の教えを説いたと思っていますが、実は9割9分インドに根拠があるんです。仏教独自のものは悟りくらいでしょう。

 ――釈迦が悟ったというのはどうしてわかるんでしょうか。
 悟ると、そういう自覚が現れるらしいです。自分の主観の問題です。

 ――では、釈迦が悟りを開いた後はどんな生活をしていたんですか。
 同じですよ。時間が来れば托鉢に出かけて飯を食い、座禅を組み、信者が来れば説教をした。悟り以前と全然変わりません。

 ――釈迦は自分で悟りを開いたと言ったんでしょうか。
 お経にはそういう自覚が湧くと言う風に書いてあります。ぼくは原典主義者です。現代の仏教の発想からすれば異端かもしれないが、経典に従えば僕の方が正しいんです。

 ――仏教のファンダメンタリストですね。そういうのに興味を持つひともいますか。
 ぼくの言うような生活は現代では難しいが、歴史的事実としては正しいと言うひとはいます。

 ――釈迦と同じことを実践するには社会環境がちがいすぎるということですね。
 貨幣経済になり寺を経営しなければならないことが一番大きなちがいです。いまでも山にこもって悟りを開けるでしょうけど、する人がいないんじゃないですか。みんな人間の欲にとらわれていますよ。ぼくがここに学校を作っているのも欲です。でも布教のためには拠点が必要ですから。

 ――先生はここでインド人に本来の仏教を布教しようとされているんですね。
 原始仏教の布教会的なものを作って、何年か先にはヒンディー語で雑誌も発行するつもりです。お釈迦さまが説いたこと説かなかったことをやさしく説明してあげるような。お釈迦さまが説かなかったことは仏教ではないですから。

 ――われわれが仏像で見るような釈迦のイメージは「遠い存在」ですが、先生にとっては仏陀個人の具体的なイメージがあるわけですね。
 ええ。ボロボロの衣をまとって、頭を剃っていて、歩いて托鉢し、たまには空の鉢を持って帰り、座禅をして、といった人間としてのイメージしかないです。

 ――密教では神通力が強調されていますが、それはどうお考えですか。
 ぼくの立場から言うと、それは宗教ではあるが仏教ではないです。大乗仏教も理論的にはキリスト教などよりも優れた宗教だけれど、お釈迦さまの本当の教えではないです。

 ――仏陀の生き方を究極的な模範として生きたいわけですね。しかし現代では不可能なことも多いと。
 不可能なことの方が多いですよ。ところで、精進料理は日本や中国の大乗仏教の一部の習慣なんです。お釈迦さまは肉を食べました。結局、最後は肉の中毒で亡くなったのではないですか。遊行経には豚肉の料理を食べた後に下痢がはじまったとありますから。

 ――戒名については、どうお考えですか。
 中国にもありましたが、院殿居士は日本だけのものです。院号は天皇の隠居後についた称号で、殿は殿さまでしょ。それにいつの間にか値段のランクがついたんです。

 ――そういうお話をこの聖地サールナートでうかがうと、戒名など余計ばかばかしく思えますね。
 お釈迦さまの時代には仏像なんてものもなかったです。お経に仏像を作って拝みなさいとはどこにも書いてありません。坊さんには偶像崇拝を禁止しています。

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幻のケララ 日印の夢

 息子が2歳、娘が生後半年くらいのとき、ニューデリーのわが家から飛行機で真南へ飛んだ。目的地は、インド内部の高原にあるバンガロールだった。荷物があったので、空港からホテルへ直行した。

 フロント嬢は美人ぞろいで、しかもにこやかに迎えてくれた。この「にこやかに」というのは、ニューデリーなど北インドではまずお目にかかれない貴重なものだ。ロビーにあるソファでウェルカムドリンクのトロピカルジュースを出してくれた。気のせいか陽光が明るく、トロピカルドリンクがよく似合った。

 街へさっそく出てみると、空気もさわやかで家々に花がきれいに咲いていた。チョロチョロ走り回るいたずら坊主に気をつけながらも、家族で快適なお散歩ができた。

 夕食は、あえてホテルのレストランではなく、街なかの中華料理店へ行った。地元料理を食べてもいいが、どうせインドだからカレー以外にろくな料理はないのがわかっている。

 ゆったりした半円形のソファに座って注文をしていると、いたずら坊主がソファを乗り越えて隣の席に行ってしまった。だめだよ、そこは別のお客さんの席なんだから。連れ戻そうとすると、中年の紳士が「ああ、いいですよ。可愛い坊やだから歓迎します」と言ってくれた。

 それをきっかけに言葉を交わすことになった。ぼくたちはニューデリーに駐在している日本人だと自己紹介すると、その紳士は隣のケララ州から仕事で来たと言った。自然、名刺交換となった。ぼくたちが泊まっているホテルの名前も聞かれた。

 インドには7つの連邦直轄領と29の州がある。ぼくは、そのうち10くらいは行ったが、ケララ州にはまだ行ったことがなかった。そして、一番行ってみたい土地でもあった。話に聞けば、人びとは穏やかで識字率もインドではダントツに高いそうだ。つまり、民度がインド一番ということになる。

 そのころインドの人口は8億数千万で、そのうちの端数である数千万だけがまともな生活をし、残りの8億人は貧困ラインぎりぎりかそれ以下と言われていた。だから、インドの地方へ行くとき、気分良く過ごせるかどうかは地元の民度が握っているとも言えた。

 中華料理店で知り合った紳士は化粧品会社の経営者だそうで、「ぜひケララへ来てください。大歓迎しますよ」と言ってくれた。インド人でもお愛想でそういうことを言うひとはいるが、紳士は心から言ってくれたように思えた。

 だが、半年後には東京への帰任が決まり、ケララ州は幻の土地となってしまった。

 それから四半世紀が経ち、Uターンした出雲で、島根と鳥取の大視察団がケララ州を訪問したという地元紙の記事を読んだ。いまや人口が12億を超す巨大市場に足場を築こうと、中海・宍道湖圏域の市長会や経済団体が合同視察団を編成したのだという。

 ケララ州は逆三角形のインド亜大陸の南西端にあり長い海岸線に面している。44の川や水郷地帯が広がり、ぼくは知らなかったが「神に抱かれた国」「水の都」とも呼ばれているそうだ。何となく南国版の出雲っぽいところなのだろうか。

 日本政府は、拡張主義の中国を念頭に、戦略的な意味もあってインドとの結びつきをいっそう強めようとしている。2014年9月、両国政府は「特別戦略的グローバル・パートナーシップ東京宣言」に合意した。日本の対インド直接投資と進出日系企業数を5年以内に倍増させるのが目標だ。両国は地方同士の交流、協力も後押ししており、日本のODA(政府開発援助)も活用できる。今回の視察団は、ケララ州最大都市コチ市と水質浄化など10分野の交流に向け協議をはじめることで合意したという。

 日本の自治体でインドと提携し交流しているのは広島県や横浜市など8県市で、中海・宍道湖圏域のように県境を越えて官民で連携するケースは初めてらしい。

 ぼくがケララの紳士と会ったバンガロールは、いまでは「インドのシリコンバレー」として世界的に知られるほどにIT産業が盛んだ。ケララ州も、そこまでではないが漁業や観光のほかIT産業でも伸びつつある。ITと言えば、松江市で誕生したプログラミング言語Rubyを使う企業も多いというから、とっかかりはすでにある。

 とはいえ、よくある話ながら、IT産業が伸びるのにごみ処理が追いついていない。3年前に建設されたIT企業151社の集積地「インフォパーク」では、200万人が出すごみを1日300トン処理している。焼却ではなく生ごみにEM菌を混ぜて肥料化するだけだ。隣接の埋め立て処分場はプラスチックごみであふれている。ここで日本企業の出番がくる。廃プラスチックや紙くずを固形燃料に変える技術がすでにある。

 ぼくの独断と偏見だが、島根・鳥取視察団はいい州を選んだと思う。世界銀行と国際金融公社が各国のビジネスのしやすさをランク付けした「ドゥーイング・ビジネス2014年版」で、インドは190か国中134位と96位の中国より悪い。でも、ケララ州はインドで一番つきあいやすいのではないか。

 現地の日本人はわずか52人で、日本語のできるひともほとんどいないようだが、親日的で、「印日商工会ケララ」は日本語教育や技術セミナーを積極的に展開しているという。

 バンガロールの中華料理を味わった翌朝、ホテルフロントに思わぬプレゼントが届いていた。ケララ州の紳士が、わざわざ化粧用パウダーなどを持ってきてくれたのだった。

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文化的距離を考える

        ――『日本人カースト戦記 ブーゲンヴィリアの祝福』番外編

 たまには、ちょっと理屈っぽい話を書いてみる。ぼくたち一家は、日本→インド→日本→ドイツ→日本と住んできて、ある意味、それぞれの文化に振り回された感がある。

 乳飲み子を抱えインドに赴任したときは、がーんという強烈さで文化の決定的差を思い知らされた。絶望的な貧困は目と鼻で感じる。たとえば、半裸の子どもとぼろぼろの衣服を身にまとった母親が、網膜に焼き付く。何十日も体を洗っていないのではないかと思える体臭に襲われる。

 ヒンドゥー教寺院に行くと、スピーカーから流れる大音響のマントラに迎えられる。カースト最上位のインド人助手バルドワージに言わせれば、ヒンドゥー教は「信徒の五感に訴える宗教」なのだった。

 まず、大音量で耳に訴え、きつい香料で鼻に訴える。極彩色の寺院とご神体で目に訴え、寺院の建物やご神体に触り皮膚に訴える。そして、スパイスの効いた供物が舌に訴える。

 すべてが強烈で、日本の寺院の静謐と真反対にある。仏教がインドで生まれ、仏教はインドでヒンドゥー教の一派と考えられていることが信じられなくなる。

 インドでは、ヒンドゥー教だけでなく社会そのものが強烈だ。ふた昔前ニューデリーで3年間暮らし、5年前に再訪して感じたのだが、街はいまも昔も「お年寄りや体の不自由な人に優しい」というコンセプトの対極にある。バリアーフリーなど聞いたことがないし、路線バスでも飛び乗り飛び降りはふつうだ。

 タクシーから降りて料金を払うとき、客がわれわれ外国人だとメーター通りの額ではまず受け取らない。たいてい「このメーターは壊れているから、○○ルピーだ」と言われた。ときには「子どもが難病に罹っていて…」などと、運転手が泣き落としに出る場合もある。こちらは、智恵を絞り心を鬼にして対抗しなければならない。

 日本へ帰ってきたらきたで、しばらくは違和感を感じた。議論をできるだけ避け、言いたいことも婉曲的に言わなければいけない。ののしるなどすれば、人間関係が決定的に悪くなる。インドではそんなことはない。

 顔の平板な何とへらへらした国民だろう、と思った。渋谷のスクランブル交差点に行くと、そんなニッポン人が何百人と一斉に向かってくるのでちょっと怖くなる。でも、日本人だから、いつの間にか日本仕様の生活に慣れた。

 そして、ドイツへ行った。議論、口論の日々がまたやってきた。それでも、大声で口角泡を飛ばすインド人の話しぶりとはややちがう。スーパーに行けばさすがにドイツで、日本にもない便利な製品をいろいろ売っている。ドイツ製ソーセージは言うまでもなく、フランス産ワインやスイス産チーズなどがリーズナブルな価格で買える。

 文化の差はもちろんある。フランクフルトの日本人板前さんが言っていた。「ドイツの海でも、結構いい魚は捕れるんです。でも、卸市場を通して店に仕入れると、鮮度が極端に落ちていたりする。何でだろ、と思い漁港へ視察に行ったら、鮮度抜群のイワシを手が冷たいからと言ってぬるま湯でさばいていたりする。魚は鮮度が命なんだという日本では当たり前のことを教えてあげないとだめなんです」

 だが、こういうことはごく一部だ。街は清潔で路線バスはお年寄りや体の不自由な人に優しく、タクシーの運転手が料金を適当につり上げるなんてこともない。それどころか、目的地に着けば、運転手がさっと車を降りて重いスーツケースを運んでくれる。

 日本へ帰り、タクシーに乗ったらわざと遠回りして売り上げを稼ぐやつがいた。重いバッグを運んでくれることもない。ある年、世界各国の特派員アンケートで「世界でもっともタクシーのレベルが高い都市」として東京があがった。しかし、ぼくの経験ではそんなことはない。ドイツのタクシーが世界一だろう。運転手が親切で料金も東京より安く、車は95%以上がベンツなのだから!

 海外2か国で生活体験をし、ぼくは自然に「文化的距離」という言葉を思いついた。試しにヤフーで検索してみたら、そのものずばりの言葉はネット上にほとんどなかった。例外的にあったのが、こんなブログの一節だ。

 <身体的な距離感の他に、文化的な距離感というのもある。大切なプレゼントを渡すなら、相手の胸の前が原則であるにしても、日本文化固有の和室で贈り物をするのに、その方法は使えない>

 <距離感を決定する、より重要な要因は文化的な親近感でしょう。ドイツのアメリカ化は行き過ぎだと嘆くドイツ人が大勢います。近年では、ハロウィーンやバレンタインデーまでドイツに入ってきました。一方、文化が大きく違う地域、例えば南米諸国では、アメリカは一般的に嫌われがちで、アメリカ化も進んでいないそうです>

 インドを再訪したとき、19年ぶりに合った親友プラメシュに、日本とインド、日本とドイツの「文化的距離」の差について私論を語ってみた。日印のほうがずっと遠い。英語でうまくぼくの意図が伝わるかなと心配だったが、ちゃんと分かってくれた。彼はアメリカに留学して、英米文学のPh.D(博士号)を取った。さまざまな国の出身者と友だちになり、ぼくの言うcultural distanceを身をもって経験していた。

 もっとも、プラメシュとぼくは、文化的距離が奇跡的に近く、だから親友になった。

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テロとレイプ――インド社会の病理

 ボストンマラソンの爆弾テロ事件にに吹っ飛ばされたように、日本のマスメディアはほとんど伝えなかったニュースがある。

 そこには、世界の新興国として注目されるインドの、どうしようもない負の側面があるのだが。

 2013年4月14日、ニューデリー東部の自宅近くで遊んでいた5歳の女の子が、行方不明になった。両親は懸命に探し、警察に駆け込んだが無視された。

 丸2日後、一家が暮らすアパート建物の1階にある部屋の中から、住民が少女のうめき声を聞きつけた。女の子はレイプされ、水も食べ物もない部屋に放置されていた。

 すぐ病院に収容されたが、性器にろうそくや瓶を挿入されて傷ついており外科手術や感染症の治療が必要だった。一命はなんとかとりとめた。

 女児が発見された部屋に住んでいたマノージという22歳の男が、インド東部ビハール州で逮捕された。マノージは、女の子を殺してしまったと思い込み、列車に乗って出身地へ逃走していたという。

 供述によると、約2時間にわたって拷問のような性的いたずらをした。

 両親は、警察が「医療費」の名目で“口止め料”として2000ルピー(約3700円)を渡そうとしたと主張している。

 事件発覚直後から、地元の警察署前などで大規模な抗議運動が行われた。デリー中心部の公園脇でも複数の女性団体・学生団体メンバーら約200人が集まり、「警察署長は辞職せよ!」などとスローガンを叫んだ。

 地元警察のトップ3人が停職処分とされた。そのうち2人は、両親の訴えに対し適切な対応をしなかった責任を問われた。もうひとりは、女の子の収容されている病院の前で、市民らが警察に対する抗議を行っていたとき、参加者の若い女性を平手打ちにしたシーンがテレビで放映され、処分された。

 インドでは、昨年12月、やはりデリーで女子学生が集団レイプされなぶり殺されて以来、若い女性や女児への性的暴行事件が相次いでいる。いずれも、警察の無能ぶりを露呈したものとして、抗議運動は全国に広がっている。

 2014年に総選挙を控える政府与党は、強姦罪への死刑適用など厳罰化法案を成立させたが、5歳の女の子が被害に遭った次の週にも、首都で未成年に対する3件の強姦事件が発生した。

 インド警察の無能ぶりは、いまにはじまったことではない。20年以上前のことだが、ぼくたち一家が住んでいたころにも、おなじような事件はくり返されていた。警察官は、「官憲意識」が強く、市民の味方になるより権力を振りかざすケースのほうが多い。そして、警察官に限らず、“袖の下”がなければ動こうとしない傾向がある。

 アジア人権センターが最近発表した統計レポートによると、2001年から2011年までのあいだにインドで報道された児童レイプ事件は48,338件にのぼる。2001年には2,113件だったが、2011年には約3倍の7,112件に急増している。

 統計レポートは、「事件の多くは警察に届けられず、表に表れた数字は氷山の一角だ」としている。

 この統計を引用したニューヨーク・タイムズ・グローバル版は、「インドの女性や子どもにとって他の国以上に性的暴行被害へのリスクが高いかどうか、たしかなことは言えない。犯罪統計は当てにならず、国別の比較調査も行われていない」とする一方で、インド政府が十分な対策をとっているのかということが政治問題化している、と指摘する。

 ぼくがみるかぎり、こうした事件の背景には、やはり貧富の格差にともなうフラストレーションや社会の矛盾があるだろう。

 2008年にインドを再訪したとき、最高学府デリー大学で教鞭を執る旧友のプラメシュは、“格差の恐怖”を口にしていた。そのとき、深刻な社会問題となっていたのは、イスラム教徒の一部過激派によるテロだった。

 過去約20年間、経済的な急成長を遂げるインドだが、イスラム教徒に貧しい者が比較的多いのは現実だ。格差が広がり、絶望的になってテロに走る若者の絶対数も、それだけ急増している。テロは宗教的理由というより社会的なところに主因があるだろう。

 ボストンマラソンでの爆弾テロは、アメリカで起こったことだけに、日本のメディアも背景などについて大きく取り上げつづけている。でも、インドでは、死者が数人程度のテロは、残念ながら日常茶飯事だ。

 インドのテロとレイプは、貧困=絶望というある意味で同根の部分があるように思えてならない。

 そして、女性蔑視や男尊女卑の風潮が、日本などで考えるよりはるかに深刻であることも大きな要因になっている。うちのかみさんも、使用人らを相手にそれで苦労した。

 くわえて、インドにはカースト制があり、下位カーストの女性ならレイプしてもあまり罪悪感などはなく、社会もそれを容認する面があることも否定できないとされる。

 経済的に突っ走るインドは、そのスピードとともに矛盾も広がっているのだ。

 --毎週木曜日に更新--

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この季節、涙目のマスターがうらやむ話

 床屋談義というのは、古典落語の時代からある。どうでもいい天気の話から世間話までさまざまだが、案外、勉強になったり、ふと昔のことを思い出させてくれたりする。
 家族や仕事関係の人と話しているのとは、またちがった、独特の気楽さがあるからかもしれない。

 「いい季節になりましたねぇ」
 マスターに髪を切ってもらいながら、とりとめもない話がはじまる。
 「でも、この季節、わたしゃ苦手なんですよ」
 マスターの声が、冴えない。
 「ひょっとして、花粉症?」
 「そうなんですよ。6年前にデビューしちまって」

 マスターは、涙ながらに語った。もちろん、悲しくて泣いてるわけじゃない。
 奥さんは、結婚したてのころから、ひどいスギ花粉症だった。マスターが外から帰ると、叫ぶように言う。「そのまま入っちゃだめ! 外で花粉を落としてきて!」

 めんどくさいなぁ、と思いつつもしょうがない。いったん玄関の外へ出て、服に着いた花粉を払ってから家に入る。
 「そんなに花粉、花粉って、大騒ぎするようなことかい、って思ってたんですよ」

 しかし、6年前の春先、やたら鼻水が出てとまらない。そのうち、目がかゆくてたまらなくなり、医者へ行ったら、スギ花粉がアレルゲンとわかった。

 「べつに、山へ入ったわけでもないし、どうして、突然、こんなことになったのか、さっぱり腑に落ちないんですよね」
 花粉症デビューとは、そんなものだ。

 薬を飲んで目薬をさし、なんとか仕事をがんばっているマスターには悪いが、ぼくは、ちょっとした自慢話を抑えられなかった。

 「ぼくも一時期、花粉症に悩んだんですけど、すっかり治ったんですよ」

 マスターは、そんないい治療法があるならぜひ教えて欲しい、とハサミを動かす手を止めた。

 「いや、それが、治療法じゃないんですよ。インドに3年間いたあいだにすっかり治ってしまって、それ以来、鼻も目もなんともないんですよ」

 お釈迦さまの生まれた国で、ヒンドゥー教やイスラム教の本場でもある天竺は、なにかにつけ霊験あらたかで、花粉症も治してくれる。そういうことなら面白いが、たぶんそんなんじゃない。

 つまるところ、インドにはスギがないからだ。スギがなければスギ花粉も飛ばず、鼻炎のアレルゲンがないのだ。

 でも、それだけじゃ、日本にもどれば、元の木阿弥になる可能性が高い。

 しかし、ぼくだけじゃなく、インドで花粉症が完治した人を何人も知っている。じゃ、なにが原因なのだろう。

 ぼくの場合、治ったのは花粉症だけじゃない。水虫もすっかり退散したのだ。

 新聞社の東京本社で国際ニュースをあつかっているころ、不寝番勤務があった。午前0時に出社し、午前3時ごろから8時半までは、完全にひとりで外電をチェックし、世界中のニュースに目を配る。

 大ニュースが起きれば、その地域を管轄している特派員や本社の上司に緊急連絡し、修羅場を迎える。
 社内では、一応、つっかけ禁止令というのがあった。でも、夏場など、どうせアルバイト学生しかいない未明のオフィスで、革靴をはいたままもいやだから、つっかけでぺたぺたと歩き回っていた。

 そのつっかけを、モスクワでの語学留学から帰ってきた1年後輩のF君が、不寝番のとき、勝手にはくようになった。冷戦が終結するよりちょっと前のころで、当時のモスクワはソ連の首都だった。

 まちがいなくつっかけが感染源で、水虫をうつされてしまった。
 「えへ、ぼくもモスクワで水虫になったんですよ」。
 F君は、悪びれもせずに言う。

 そのころ、インフルエンザのソ連型というのが有名だったが、“ソ連型水虫”も強烈だった。足の指のあいだの皮膚がぼろぼろになり、かゆい、かゆい。

 ところが、それもインドですっかり治ってしまった。

 医学的根拠は知らないが、あの過酷な気候風土が体質を根本から変えたのだ、としか思えない。ソ連のバイキンマンなど、インドのバイキンマンにかんたんにやっつけられちゃったのだろう。

 理髪店のマスターは、しみじみ言った。
 「ここの店はたたんで、インドで開業しようかなぁ」

 マスターの腕だったら、きっと繁盛するだろう。

 --毎週木曜日に更新--

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日本食・日本酒フリークのひとり言

     ――『日本人カースト戦記 ブーゲンヴィリアの祝福』番外編

 卵かけご飯のための醤油が売れているという。卵かけご飯のためのライスというのもあるようだ。たかが卵かけご飯だが、その奥は深い。

 ぼくは、心底からその奥の深さを知っている。

 インドのニューデリーに特派員として駐在していたとき、日本食への愛に目覚めた。なかでも、卵かけご飯は、夢のまた夢だった。

 日本に生まれ育ったから、日本食は当たり前に食べていた。むしろ、チーズやハンバーグを初めて口にしたときの驚きを覚えている。

 現代の日本は、食が欧米化していると言われる。だが、日本食というベースがあってこその欧米化じゃなきゃだめだと思う。

 戦後、ほとんどの日本人が、「日本食は特別に美味しく、また、手に入れるのには大変な努力をしなければならない」という状況に置かれたことがない。

 ぼくの一家がインドに駐在していたふた昔、日本食品店などというものはなかった。ニューデリーに日本食レストランというふれこみの店『東京』ができたことはある。

 そのオープンキャンペーンに、日本人駐在員とその家族を招待してくれた。お任せのコース料理で、まず出てきたのはおにぎり、最後に出てきたのは焼き鳥だった!

 ぼくたちは、ため息をついた。ある程度予想はしていたが、日本食の売りであるはずの生ものなど、望むべくもなかった。

 その日本食レストランは、当時成田からの直航便を持っていた日本航空(JAL)とインド資本の提携によるものとされていた。JALが築地で仕入れた生鮮食材をニューデリーまで運んできて、店で提供する計画だった。

 しかし、そのころのインドは、経済的には“鎖国”をしていて、正規の輸入手続きをするとべらぼうな関税をかけるのが常だった。

 『東京』の経営陣は、JALとインド当局がついているのだから関税はなんとかなると甘くみていた。だが、現実には税関当局は煮ても焼いても食えなかった。日印親善、日印交流の拠点とするべく頑張ってみたが、当局は原則論を曲げなかった。

 というより、税関職員はJALが生鮮食材を運んでくるたびに、袖の下を期待していたようだった。インドという国は、当時もいまもそういう国だ。

 堂々と店を出すのに、日本のナショナルフラッグキャリアーが恒常的にわいろで食材を確保するわけにはいかない。こちらも原則論を曲げなかったから、名前だけの日本料理店になってしまった。

 ニューデリーで日本食を確保するには、涙ぐましい努力をしなければならなかった。日本人だから、ふとお豆腐が食べたくなったりする。そういうときにはハウス食品の『手作り ほんとうふ』という商品が活躍した。日本産丸大豆の粉末を凝固剤で固めると、なんとなく絹ごし豆腐になった。

 あるとき、ぼくのかみさんは、日本人学校の某先生が日本からにがりを持ってきていることを知った。それを少しわけてもらい、インド産の大豆をゆでて絞り、本格的なお豆腐を完成させた。

 さっそく、親しい日本人を招いてホームパーティを開いた。「自家製のお豆腐をご用意しています」というのが売りだった。

 招かれた人たちは「そうは言っても『ほんとうふ』じゃないの」と言って口に運んだ。「それじゃ、わが家手作りの証拠に、おからの料理も出します」

 テーブルにおから料理を運んで来たときには、歓声があがった。かみさんの株も一気にあがった。

 生卵の思い出も忘れられない。インド産の卵なんて死んでも生では食べられない。日本人の誰かが、国外出張か旅行でシンガポールに行ったとき、伊勢丹の食品売り場で卵パックを大量に買い込み、手荷物として飛行機でデリーまで運ぶ。「シンガポールのお土産で~す」と、親しい人に2個3個と配って歩く。

 もらった人たちは、闇屋で買ったジャポニカ米を炊いて、涙を流さんばかりに卵ご飯を口に入れ、ささやかな幸せを噛みしめるのだった。

 そういう生活を3年間つづけた。だから、日本食へのあこがれははんぱじゃない。

 高級なブランディやウィスキーは、日本の値段よりかなり安い免税店でいくらでも買えた。だから、あこがれなどというものはなかった。たまに日本からの出張者が手土産に持ってくるパック入りの日本酒が、左党の日本人には宝物だった。

 時は移り、2012年春、わが日本政府は、ユネスコの世界無形文化遺産に「和食 日本人の伝統的な食文化」を提案した。早ければ2013年11月に登録されるという。カロリーは少なく、ミネラルなどが豊富で、長寿世界一の秘訣としてキャンペーンすればいい。

 日本酒と焼酎も「国酒」として海外に売り込む。コクシュというのは聞き慣れないが、「日本酒」では焼酎をふくまないし、日本産独自の酒類としてやむを得ず命名したのだろう。

 そのうち、日本食と国酒の良さを知らないのは日本人だけになったりして。

 --毎週木曜日に更新--

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トイレの神様はどこに

 以前、東京の有線放送英語版のDJをしているオーストラリア人青年と友だちになった。「スタジオへ遊びに来ない?」と誘われ、本番中に行ってみた。英語ニュースは共同通信英語配信の原稿を読み、音楽はリクエストの曲を流すだけでなく、自分の好みで選ぶ。ディレクターなどスタッフはおらず、ひとりで勝手に放送している。

 「何か聴きたいミュージックある?」「じゃ、サーモン&ガーファンクルを」。自分の選んだ曲が目の前から、有線放送に乗って伝わっていく。とても新鮮な感覚だ。

 その青年は日本語がほとんどできないのに、クロールの選手が泳ぐように東京で巧みに生きている。秘訣を聞くと、一冊の薄い本をバッグから取り出した。

 『サバイバル日本語』

 「これ何?」「まあ、いいから開いてごらんよ」

 ローマ字で例文が書かれ、英語で意味が書いてある。一番上の文章はこうだった。

 「BENJO WA DOKODESUKA?」(Where is a bathroom?)   

 「これがサバイバルするための日本語の最重要会話だよ」

 ぼくは思わず笑ったが、たしかにこれは大切なことだ。言葉も通じず街の仕組みも知らない異国では、トイレを確保するほど重要なことは他にない。パスポートや現金を取られないようにし、身の安全を保つのはその次のことだ。

 たとえば、日本人であるぼくたちが東京をぶらついていて、急にお腹が痛くなったとする。トイレをどうやって探すか。

 ダウンタウンなら、たいていパチンコ店がある。いい台を探すふりをして奥のほうへ入っていき、自然な感じでトイレに入る。東京にもあちこちに公衆便所があるが、ちょっと恥ずかしい思いをして場所を聞くより、パチンコ店のほうが早い。

 ある程度きちんとした服装をしているなら、シティホテルもお勧めだ。ゴージャスな気分でBGMを聴きながら落ち着いてできる。いずれもタダだ。

 東京へ来てまもない外国人には、パチンコ店へ入るという裏ワザはまず思いつかない。だから「便所はどこですか?」という一文が、日本でサバイバルするための第1章となるのだ。

 さて、トイレといえば、映画『テルマエ・ロマエ』を思い出す。古代ローマの公衆浴場設計技師ルシウス(阿部寛さん)が、現代の東京下町にタイムスリップを繰り返し、日本の銭湯文化を古代ローマに取り入れて大成功するファンタジックコメディだ。

 主なテーマはお風呂だが、世界に類例のないあのシャワー付きトイレも登場する。これに驚嘆したルシウスは、ローマ皇帝ハドリアヌス(市村正親さん)のために似たようなものを製作して絶賛される。

 銭湯とシャワー付きトイレという日本の古今の文化文明に古代ローマ人が驚く。この映画が大成功したのは、それが日本人には何とも痛快だからだろう。

 作品はイタリア全土でも公開されるという。ほとんどのイタリア人は『ウォシュレット』なんて知らないから、ほんとに日本のすごさを感じるかもしれない。

 日本のトイレ事情は世界最高峰にあるが、その対極にある国も少なくない。

 ニューヨーク・タイムズのグローバル版2012年6月15日付けの一面トップには、インド最大の都市ムンバイ(旧ボンベイ)の、厠の写真がでかでかと載っていた。厠はもともと「川屋」であり、川の流れの上にせり出した便所のことらしい。日本にも、昔はこういうトイレがあった。

 写真は、まさにどぶ川の上にある掘立小屋のトイレだ。アカデミー賞8部門などを取ったイギリス映画『スラムドッグ$ミリオネア』(2008年)に出てくる、ムンバイのスラム街の便所小屋そのものだ。

 インドの国勢調査によると、全国の世帯の半数以上にトイレがない(!)。いまでは世界屈指の新興国とされ、目覚ましい経済発展を遂げつつあるが、国の実情はそんなものだ。

 トイレの数が絶望的に足らず、特に女性は日々、大変な思いをして小用を足している。それ自体が「基本的市民権、人権」の侵害だとして、市民活動家らが“小用権キャンペーン”を始めたのを受け、ニューヨーク・タイムズは大きな記事にした。

 都市部の貧困家庭にはトイレがなく、不潔でも公衆トイレを利用するしかない。男性は小用だけならたいてい無料でできるが、女性は必ず2ルピー、ときには5ルピーも取られる。市の雇ったトイレ係の言い分はこうだ。「女性は小用だけかどうか確認できない」

 1ルピーは現在の為替レートだと約2円にすぎないが、1日29ルピー以下が貧困ラインとされるインドの貧しい人びとにとっては、かなりの出費になる。「子どもが下痢でもしたら、いったいどうやって払えばいいか」。女性は水分を極端に控えるため、熱中症になることもよくある。

 家にも街にも清潔なトイレがあり、いつでも行けるのがどれだけ幸せなことか。

 DJのオーストラリア人青年は、実際にトイレで困ったことがあるのだろうか。「トイレッて言えば通じることを、こっちに来て知った。問題は英語があまり通じず、女の子を口説けないことのほうだよ」

 --毎週木曜日に更新--

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