インどイツ物語ドイツ編

ナチスのイメージカラー

 「ナチスと聞いて、何色を思い浮かべますか?」
 ギーガーさんが、レンタカーのハンドルを握ったまま、思いがけないことを聞いてきた。戦後50年に当たる1995年初秋のことだ。

 ぼくは、ドイツのボンからミュンヘンに飛び、その街の知人ギーガーさんに、取材旅行の運転手兼ガイドを頼んだ。

 ぼくたちが目指していたのは、オーストリアの北西部にある小さな町ブラウナウだった。そこに残るヒトラーの生家をオーストリア政府が買い上げて平和のための記念施設にする構想が持ち上がっていると聞いて、ぜひ訪ねたいと思ったのだった。

 「町の名前はBraunauでしょ。だからか、ナチスのイメージカラーはどうしてもbraunだと思ってしまうんです」

 braunは英語のbrownとおなじ発音、おなじ意味で、「褐色」のことだ。ギーガーさんの言葉に、なるほど、ドイツ人はそういう連想をするんだな、と考えさせられた。

 ナチスの機構にはさまざまな組織があった。そのなかでも、もっとも邪悪非道なことをしたとされるのがナチス親衛隊(SS)だった。その制服は、軍服マニアのあいだでは「世界でもっともカッコイイ」とされ、黒色だった。

 ぼくの記憶が正しければ、褐色の制服を着ていたのは、ナチスの機構とは別組織の国防軍だった。でも、ギーガーさんとおなじように、ナチスと言えば褐色を連想するドイツ人は、たくさんいるのかも知れない。

 そのころ、オーストリア内務省はブラウナウ町当局や家主の女性と近く生家の扱いについて協議する、というニュースが流れていた。内務省は「構想については、まだ白紙」としていたが、「反ファシズム・センター」とする案が有力だとされた。

 生家は、静かな住宅街に建つ集合住宅にあった。日本で言えば、古いマンションといった感じか。ヒトラーは、その二階のある世帯で、1889年の4月20日、税関吏の三男として生まれた。

 建物前の路肩には、ドイツ語でこう刻んだ大きな石碑が据え付けられていた。「数百万の死者は警告する。ファシズムを二度と許すな。平和、自由、そして民主主義のために」

 ヒトラー生誕90周年の際、極右グループがここに集まって騒ぎを起こしたことから、政府が「この地を極右・ネオナチの聖地としてはならない」という意味で建てた。1989年の生誕百周年にも極右グループが集まったため、政府が生家の扱いを検討してきたという。

 ヒトラーの生家をふくむ集合住宅は、当時のまま残っており、過去、地区の図書館や教育施設になったこともあった。

 ぼくとギーガーさんが訪れたときには、一階が公立の障害者作業センターとして使われていた。ぼくたちは中に入り、作業の様子を見せてもらい、写真を撮ったりした。さまざまな企業の下請けで機織りやミシン掛けなどをしていた。

 ヒトラーは、ユダヤ人だけでなく障害者なども強制収容し、多くを虐殺した。センターの責任者は「まったくの偶然ですが、そのヒトラーの生家でいまは障害者が働いている。このままでも平和の施設と言えるかもしれない」と話した。

 ここで、「平和」という言葉の意味するもののちがいを理解しておかなければならない。日本では、戦争の対語として平和を考えるが、ドイツやオーストリアでは、戦争と言えば、国と国が武器をもって戦ったことを連想するのではなく、ホロコーストのことをイメージする。

 ホロコーストとは、敵国人ではなく自国のユダヤ人や障害者、同性愛者を虐殺した人道犯罪であり、ほんらい戦争とはちがう次元の行為だった。だが、それこそが戦争犯罪だとヨーロッパの人びとはマインド・コントロールされてきたのだった。

 ここに、日本との決定的な差がある。ナチス・ドイツが遂行した第2次世界大戦での戦死者は、2000万人を大きく超える。それとはまったく別に、600万人もの人びとを虐殺したのがホロコーストだ。

 生家前の石碑に刻まれた「数百万の死者は警告する」という言葉は、戦死者ではなくホロコースト犠牲者の数だ。だから、オーストリア人の考える戦争とはホロコーストのことなのだ。

 時は経ち、2016年春、オーストリア内務省が「ヒトラーの生家があった建物を家主の女性から強制収用する方針」という情報をAFP通信が流した。「ナチスの支持者のために建物が利用される事態を避ける唯一の策が強制収用との結論に達した」という。

 政府は家主に買い取りを打診したり利用方法を話し合ったりしたが、まとまらず、2011年から空き家になっていたそうだ。

 このニュースは、ドイツでもオーストリアでも、ヒトラーを崇めナチズムを信奉する勢力がいまだにたくさんいるという現実を示している。中東・アフリカからの難民流入への反発で、むしろますます拡大している。

 ナチスの過去は、まったく克服されていないということだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

過激派とアイデンティティー

 「欧州でアラブ系移民らがテロを起こすのは経済的理由などではなく、その国の国民としてのアイデンティティーが欠落していることが原因だ」。イスラエル軍の元大佐でシンクタンク「エルサレム公共問題センター」のジャック・ネリア上級研究員が、共同通信の取材にこう語っている。山陰中央新報に掲載されていた。

 もちろん、パリの同時多発テロをめぐっての話だ。イスラム教徒の青年が過激思想に染まりテロに走る動機は、主に経済的理由だとするのが一般的だ。キリスト教徒が主体のヨーロッパでは、イスラム教徒の移民系住民は少数派であり、就職などで不利になりがちだという現実は動かしがたい。特に移民が集中する地区では失業率が高く、将来に希望を持てない青年が、社会に反発し過激思想に惹かれやすいとされる。

 アラブの本国では自分がイスラム教徒としてあまり意識することもなかった青年たちが、ヨーロッパでの厳しい生活のなかでイスラム教徒としての自分の出自に目覚める例も、いろいろ報道されている。しかし、生活圏は西洋で心が混乱する。そうした青年をイスラム教の名をまとった過激思想で感化するのが、イスラム国(IS)などのテロリスト集団だ。

 「アイデンティティーの欠落が原因」とのネリア上級研究員の指摘は、ぼくの体験から言っても、うなずけることがある。

 ドイツのボンに駐在していたころのことだ。旧西ドイツの暫定首都だったが日本人学校はなく、日本人の外交官をふくむ駐在員らの子どもは、現地のドイツ人学校かアメリカン・スクールに通うしかなかった。うちの子どもたちはアメリカン・スクールで学ばせた。

 そういう生活では、子どもたちの日本語能力が日に日に落ちていく。それでは帰国してからの学業に差し支えるから、毎週土曜日午後には、日本語補習校というものが開かれていた。先生はドイツに在住する日本の教職免許を持っている日本人が中心で、補習校の運営は駐在員が毎年交代で受け持っていた。

 運営委員は4人(4組の夫婦)で、教室を借りている現地校との折衝、教室や廊下の掃除、トイレットペーパーの補給まで雑多な任務があった。ぼくたち夫婦も、1年間運営委員を務めた。

 補習校は、大きく言えば、駐在員の子どもたちの「日本人としてのアイデンティティー」をはぐくむ場でもあった。家庭では日本語を話していても、家にあるテレビはドイツ語かヨーロッパの英語放送で、学校に行けばドイツ語や英語をたたき込まれる。そういう日々を送っていると、自分が何者かわからなくなり不安になってくる。だから、日本語補習校は、単に日本語の勉強にとどまらず、「君たちは日本人なんだからね」と脳裏に“刷り込む”空間でもあった。

 補習校には、日本人の親がドイツ人と結婚してドイツで暮らすことを選んだハーフの子どもたちも通っていた。そうした子どもたちにとっては、日本語を学ぶだけでなく、日本人の血が自分にも流れていることを自覚させる意味があった。その点でもアイデンティティー教育の場だった。

 月曜日から金曜日まではドイツ語や英語と格闘せざるを得ない駐在員の子どもたちにとって、土曜日の補習校は楽しくてしようのない時間となっていた。昼食を終えてから親が車で送り届けるのだが、子どもたちは早く補習校へ行って友だちと校庭で遊び、母語の日本語で授業を受けるのが待ち遠しくてたまらない様子だった。

 学校へ行くのがそんなに楽しそうなのは、親にとってもうれしいことだった。また、親たちも子どもを送ったついでに、校庭の隅や学校の廊下で井戸端会議を開き、情報交換するのが常だった。そこで駐在員の人びとと知り合ったのは、海外生活を豊かにするうえでも大きかった。運営委員としての仕事はちょっと辛いときもあったが、親たちにとっても、土曜日の補習校が楽しみだったのだ。

 だが、補習校には、子どもたちの知らないところで深刻な問題を抱えていた。保護者のなかで、ドイツ人と結婚した日本人と駐在員の日本人のあいだに、目に見えない亀裂があった。日本語能力については、駐在員の子どもたちはネイティブだから得意であり、ハーフの子どもたちはついて行くのが大変だったことも理由の一つだった。現地校と補習校では立場が逆転するのだ。あるときはもめにもめて、保護者会を開き「補習校とは何か」という本質的な議論にまで至った。

 背景には、ドイツ人と結婚した親のアイデンティティーの問題があった。ドイツで長年暮らし、家庭でも主にドイツ語を話している保護者は、知らず知らずのうちにアイデンティティーが揺らぐらしい。

 一部のそうした保護者のなかに「過激派」とも言える人がいた。ことあるごとに、駐在員の保護者と衝突するのだ。ドイツ人はヨーロッパでも有数の自己主張が強い国民とされる。そのドイツ人的側面がドイツ人以上にアイデンティティーとして入り込み、自分がわからなくなっているとしか思えない人がいた。

 「その国の国民としてのアイデンティティー」の欠落が、一部の移民青年をテロに走らせるという指摘は、たしかにそうだろうと思う。フランスをはじめテロを軍事力で封じ込めようとする各国の指導者は、まだその心理学的理由に気づいていない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

真夜中のぐちゃぐちゃカレー

  おふくろのカレーライスは物心がついたときから食べていたし、学校給食ではカレースープが出て来るのが楽しみだった。では、本場のカレーをいつ食べたのが最初だったか考えてみた。

 それは1987年春、ニューデリー赴任の内示が出て、東京のインド大使館へビザ申請に行ったときのことだった。特派員としての滞在ビザをもらう関係で、プレスアタッシェつまり報道・広報担当の1等書記官へあいさつをした。

 「今度、家でホームパーティをするので、よかったら来てください」と言われた。インドでの人脈はゼロに近かったから、喜んで参加することにした。広尾の外交官用マンションだったと記憶している。外観は何の変哲も無い建物だったが、玄関から中へ通されると、日本のそこら辺にあるマンションとは比べものにならないほどゆったりした間取りだった。

 午後7時にと言われていたので、ほぼきっかりに訪問すると、まだ2、3人しかお客さんはいなかった。「アルコールは飲めますか?」とメイドさんにインドなまりの英語で聞かれ、ウイスキーの水割りをもらった。ウイスキーは日本のものだったと思う。名前を知らないインドのビールを飲んでいるひともいた。

 時間が経つにつれ、お客さんの数もだんだん増えてきた。最終的には約20人くらいにはなった。リビングルームは、それでも皆がソファに座って談笑できるくらいのスペースがあった。

 ぼくが、インドを訪れたことはないが今度ニューデリーに赴任すると話すと、親切にお勧めのレストランなどを教えてくれるひともいた。こちらは初めての「インド体験」で緊張しているうえ、慣れないインド英語を聞き取らなければならないので、水割りをなめるように飲んでいた。なかにはアルコールが禁制のイスラム教徒なのだろうか、ソフトドリンクを手にしているひともちらほらいた。

 おつまみは、ピーナッツや得体の知れないインド製の乾き物だった。だいぶん時間が経っても、食事が出て来る気配がない。人びとはひたすらアルコールなどを飲み、しゃべっている。のちにインドで暮らすようになって思い知るのだが、インド人はとにかくよくしゃべる。ホームパーティのようなプライベートだけでなく、公的な場でもおなじだ。「国際会議を成功させるには、インド人を黙らせ日本人にしゃべらせることだ」とよく言われるが、あれは本当だ。

 パーティは進みいい加減お腹がすいて来たのに、まだ食事は出ない。お客さんたちは、それが当たり前なのか誰も気にしていない様子だ。延々としゃべって飲んで、夜中の11時をとっくに過ぎたとき、ようやくカレーの匂いがしてきた。

 給仕のひとたちが、テーブルにさまざまなカレーを並べた。ホスト役のプレスアタッシェが、「お食事の用意ができました」と言うやいなや、お客さんたちはどっとカレーのテーブルへ押しかけた。

 インドなりの食事作法があるのだろうと、周りの人たちを観察した。みんな大きなお皿1枚に各種カレーを少しずつ取って自分の席にもどった。そして、いろんなカレーをぐしゃぐしゃに混ぜて、うまそうに食べ出した。なるほど、そうやって食べるのか。自分でもまねをした。

 ニューデリーでインド人主催のパーティに出るようになって、なぜ彼らがカレーを混ぜるのか納得した。たとえば、「ダル」と呼ばれる豆のカレーは、常にものすごく辛い。それだけを単独で食べることは、ふつうインド人でもしない。だから、ダルを辛み調味料みたいにして自分好みの辛さに調節するわけだ。日本のように肉といろんな野菜をいっしょに入れたカレーは、なぜかない。各単品カレーを混ぜると、味が絡み合い深みが出る。

 週間ポストの巻頭に「『究極のカレー』大研究」という特集があった。大阪では最近、混ぜることを前提にしたカレーが台頭しているのだという。本場の食べ方が、やっと日本にも到達したのだろうか。

 記事は「混ぜるカレー」の決定版として『ロッダグループ』という店のギャミラサセット(¥1500)と名づけられたワンプレートカレーを紹介している。やはり1枚の大きめの皿にいろんなカレーを盛って混ぜて食べるのだ。ところが、それはスリランカの家庭で食べられているスタイルだとされている。その店のシェフがスリランカ出身なのかもしれないが、インド文化圏ならどの国でもぐちゃぐちゃカレーを食べる。

 プレスアタッシェのホームパーティで、食事が終わるとデザートが出た。彼が「本国から取り寄せたんですよ」というアイスクリームを、インド人の客らは「懐かしいなぁ」と言って笑顔で食べている。ぼくも少し試してみると、内心ウゲッと言いたくなるような独特の味だった。思えばそのとき、彼我の食文化の決定的なちがいを初体験した。

 食事が終わると、招待客は全員さっと引き上げていった。帰宅すると午前1時を回っていた。本場では、カレーは真夜中に食べるものなのかと思った。だからか、男女とも中年になるとみんな大きなお腹をしている。

 その日の食事にも事欠くひとが億単位でいるのに、新聞を開くとダイエットサプリの広告が目につくのもインドの現実だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

民衆の夢を裏切ったフォルクスワーゲン

 ドイツの自動車大手フォルクスワーゲン(VW)社の排ガス不正問題はひどい。そんなことが許されるわけがない。

 このニュースを聞いて、過ぎ去った日の、ある感動したエピソードを思い出した。ベルリン特派員をしていたころの話だ。読売新聞大阪本社から、珍しくファクスが直接届いた。「ノーベル化学賞の候補になっている京大名誉教授が、発表当日はワイマールのホテルに滞在するので張りついていて欲しい」という内容だった。

 その先生の名前は失念したが、ファクスには研究内容の説明や経歴の資料があった。ホテルの名前も書いてあったから、すぐにぼくも予約を入れ、発表前日、列車でワイマールへ向った。当日、チェックインした先生に話をうかがうと、隣国オーストリアでの学会に参加したあと、旧東ドイツの都市ワイマールへ来たのだという。奥さんもいっしょだった。

 「わたしが受賞することは、万にひとつもないでしょう」とは言いながら、取材には快く応じてくれた。なぜか日本の他のメディアは来ておらず、AP通信の若いドイツ人男性カメラマンがひとり姿を見せた。

 賞の発表までには、まだかなり時間があったから、ぼくは夫妻を街に案内し、いっしょに昼食もとった。文豪ゲーテが政治家としても活躍した地で、文化施設にはこと欠かない。一流の研究者はさすがだな、と思わせる話をたくさん聞くことができた。野球でも研究でも三振を恐れずホームランを狙え、というのもそのひとつだ。

 結局、先生は受賞できなかった。そのあと、カメラマンが「時間があれば、ぼくのオフィスに遊びに来ない?」と言ってくれた。ドイツ人にそんなお誘いを受けるのは、珍しいことだった。帰りの列車まで時間があり、彼の車でAP通信ワイマール支局へ行った。

 支局には年配の男性記者もいた。カメラマンは「ちょっと待ってて」と、近所の店から地元名物というクッキーを買ってきて、コーヒーを煎れてくれ、4人で談笑した。旧東ドイツの地方は方言がきつくて、ぼくのドイツ語能力では手に余ることがよくあった。でも、ふたりは標準ドイツ語をゆっくり目に話してくれたので、じゅうぶんコミュニケーションがとれた。

 カメラマンが「どんな車に乗っているんですか?」と聞くので、「メルセデス・ベンツです」と答えたら、「さすがにね」と言った。そして、彼はこういった。「西の市民の憧れはやっぱりメルセデスです。東は経済力がまだ足りないから、憧れはフォルクスワーゲンなんですよ」

 そろそろおいとまする時間になると、彼は残ったクッキーを袋に入れて「これ、列車のなかで食べてください」と、駅まで送ってくれた。

 東西ドイツが再統一されたあと、それぞれの市民のあいだは何となくぎくしゃくしていた。西は東のひとを「二級市民」あつかいすることもあった。でも、東には、西が経済発展で失ってしまった何か大切なものが、まだ残っている。西が合理的、ビジネスライクなのに対し、東にはまだ人情がたくさんある。ぼくは、先生夫妻とカメラマンにもらったとても温かいものを感じながら、ベルリンへ帰った。

 アメリカで発覚したVW社の排ガス不正問題は、世界に広がっている。アメリカでは刑事事件に発展しそうで、車を買った顧客たちが、集団訴訟を起こす準備をはじめたとも伝えられる。

 VW社は、米環境保護局(EPA)が排ガスのテストを行うときだけ、それを検知して排ガスを低下させる違法ソフトウェアを搭載していた。実際に顧客が運転するときにはその機能を停止させるため、窒素酸化物(NOx)を基準の最大40倍も排出するという。このソフトが埋め込んであるのは、2009年から15年までにアメリカで販売されたゴルフなど48万2000台のディーゼル車だ。ヨーロッパでも、同様の不正があったと調べが開始された。VWは、問題に関わる車両が全世界で約1100万台に上ると発表している。

 トヨタを抜いて世界一の車メーカーになろうとしていた巨大企業が、人体をふくむ自然の保護より金儲けを優先していたわけだ。今回の不正は、単なる数値の粉飾とはちがい、環境やひとの健康に害を及ぼすことを承知の上での犯罪だと見なされる可能性が大きい。ドイツ当局も、詐欺罪の適用を考えている。ドイツは、世界が認める名車の国で、国民はそれを誇りにしていた。それだけに、VWスキャンダルはショックだろう。

 とはいえ、ぼくに言わせれば、ドイツが国際社会に向ってアピールする「環境保護大国」というイメージは、もともとかなりマユツバだ。たとえば、ドイツ名物の高速道路「アウトバーン」は、原則としてスピード制限がない。こっちが時速190キロで飛ばしていても、あっという間に追い越される。高速で走行すれば、それだけ有害物質も多く排出するから、環境政党・緑の党は、ずっと前から、スピード制限をするよう選挙公約で訴えてきた。

 だが、世界一スピード狂のドイツ人は、それを受け入れない。それでいて、「森林の枯死」をどうするかとか騒いでいるのだから、お話にならない。

 フォルクスワーゲンは「民衆の車」という意味だ。ワイマールのカメラマン君の夢をぶち壊したVWの組織的不正は、ぼくも個人的に許せない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

よだれが出るタルタルステーキ――ポーランド

 生の牛肉に卵黄などを乗せた韓国料理「ユッケ」が、食べられなくなったのはいつだったか。ネット情報によると、2011年5月に『焼肉酒家えびす』で集団食中毒が発生し、10月1日から生食用牛肉の新しい衛生基準が施行された。これによって、「ユッケ」「牛刺し」「牛タタキ」などが食べられなくなった。

 腸管出血性大腸菌やサルモネラ菌などに感染する可能性があるから、というのが理由だそうだが、健康な大人ならまず大丈夫という説も根強い。日本は何でも官僚が牛耳る国で、万一食中毒が発生したら食品衛生当局の責任が問われそうだ、と禁止にしたのだ。

 お腹が減って怒りを覚えていたら、ポーランドの絶品タルタルステーキを思い出し、たまらない気持ちになった。このまま、ワルシャワへ飛んで前に行ったレストランへ飛び込もうか、と発狂しそうになった。

 ドイツのボンに駐在していたとき、ポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語地名アウシュビッツ)にある「アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所」へ、旧ソ連軍による解放50年の記念式典を取材に行った。最新の学説では、ドイツから移送されたユダヤ人約150万人がそこでガス室に送り込まれ虐殺されたといわれる。

 テーマから言って気の重い取材だった。首都ワルシャワから地方都市クラクフまで列車で行き、駅前で世界から集まった報道陣用の大型バスに乗り換えてアウシュビッツへ着いた。問題のガス室のすぐそばまで行って写真を撮った。「こんな狭いガス室で100万単位の人間を殺せるかなぁ」とは思った。だが、ヨーロッパではホロコーストを否定するような言説は法律違反なので、ひとり言にとどめた。

 帰りはその逆コースをたどり、バスでクラクフまでもどった。同行した英語のうまいワルシャワ支局の取材助手のおばさんが、「美味しいものを食べにいきませんか?」と誘ってくれた。

 そして注文したのがタルタルステーキだった。ヨーロッパで美食の国と言えばフランスだから、タルタルステーキもフランスが本場かと思っていた。しかし、助手のおばさんは、「何言ってるんですか。これはポーランド発祥の料理ですよ」と言う。

 彼女は、ぼくがドイツからやって来たのを知っているから、こんなことも言った。「ドイツに住んでるなんて、かわいそうですね。こっちなら美味しいものがたくさんあるのに」

 ぼくは、反論できなかった。ドイツで美味いものと言えば、街角の屋台で売っているソーセージの炭火焼きに一部のブランドのビール、小麦を原料とする白ビールなどに限られていた。そうそう、トルコ系移民が売る、グリルした羊肉と生野菜をパンにはさみピリ辛のドレッシングをかけたデーナー・ケバブも、ぼくたち家族のお気に入りだった。つまるところ、ドイツの高級レストランで出る食事は、たいていの場合、論評に値しない。

 さて、待ち焦がれたころ、タルタルステーキが登場した。まず、見た目が、う、美しい! ナイフで皿の端にあるアンチョビをちょっととり、ステーキにつけてフォークで食べる。適度な塩味と牛肉の旨味がからまって、ナイフ、フォークがとまらない。赤ワインで喉に流し込んだが、これなら白ワインでもいけるかもしれない。

 生の牛もも肉を粗めのミンチにし、ケッパー、みじん切りの玉ねぎとピクルス、ニンニク、ウスターソース、粒マスタード、オリーブオイル、コショウ、塩で味をつけるそうだ。卵黄を中央に乗せるときもある。ユッケはその韓国版だ。

 助手のおばさんは、勝ち誇ったような顔で食べている。そのとき、ロンドン支局駐在の同僚日本人カメラマンもいっしょだった。「これ、すごいね。こっちにいるあいだに、もう一回、食べたいね」。そんな会話を日本語で交わし、ワルシャワでもう一回食べた。

 そんな想い出をたどっていると、読売新聞日曜版に、歌人の佐佐木幸綱さんが「タルタルステーキの魅力」というエッセイを書いていた。文化庁文化交流使として、2012年、ドイツのケルンとフランスのリヨンに住まいを確保し、ポーランド、オランダ、スイスなどに足をのばしたという。

 「中でも忘れられないのはポーランド第2の都市クラクフ」。国立大学日本学科の学生が優秀で古文まで読めたのがまずひとつ。もうひとつが「クラクフのポーランド料理レストランで食べたタルタルステーキの美味さ」と書いている。

 「(店へ案内してくれた日本学科の)メイヤ教授によれば、ポーランドのタルタルステーキは、タタール人から直接伝授された本格派だという。七百年も昔、十三世紀にタタール人の国・モンゴルが、ポーランドに侵攻してきた。そのときにタルタルステーキも入ってきた」「タタール人は馬肉を食っていた。ポーランド人は馬を大切にしていたので食うにしのびず、牛を食うことにしたんです」

 フグの肝を命がけで食べさせろとは言わないが、ほんのわずかの中毒の可能性だけで、生肉の楽しみを奪ってしまう日本の官僚主義は、煮ても焼いても食えない(~_~;)。

 魚でも肉でも「生」が好きな日本で、なぜ、タルタルステーキが普及しなかったのだろうか。そうだ、自分で作っちゃおう。それなら、保健所も手が出せないだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

売春を合法に、という世界の潮流

 日本はホンネとタテマエの国だ、とよく言われる。ぼくが知る限り、諸外国でもこのふたつは使いわけられていて、日本がそれほど特殊というわけではないと思う。よく、日本では「日本ほど○○な国はない」とか「日本人は○○だ」とか、海外事情に精通してもいないのに訳知り顔で語るひとがいて、それに何となくうなずく風潮がある。あれは“島国根性”の一種で、陸続きに比較する外国がないから、そういう言説がまかり通ってしまう。

 とはいっても、これだけはまちがいなくタテマエ論だと思うことがある。売春のことだ。1957年(昭和32年)4月1日に売春防止法が施行され、売買春は法律で取り締まられるようになった。一方で、堂々と売春は行われている。いわゆるソープランドだけでなく、東京の一流ホテルのロビーなどでも高級コールガールをみかけることはある。

 セクシーな大和撫子の「夜のおもてなし」を何よりの楽しみに来日する海外スターは珍しくもない。よく「日本食が大好きで、ニッポン大好きです」と言うスターがいるが、あれはホンネでは「日本“色”が大好きで、ニッポン大好きです」なんだとも言われる。

 日本でもたまに、売春組織が摘発されてニュースになることもあるにはあるが、ふだんは「そんなものはないことにして」きれいごとの日々が過ぎていく。

 そんなタテマエの日本に、ちょっと衝撃的なニュースがとどいた。2015年8月11日、国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)が、売買春の合法化を支持する方針を決定した。アムネスティ・インターナショナルと言えば、世界中に700万人の会員・支持者がいて、大きな発言力を持つ国際社会でもっとも有名な人権団体だ。

 アイルランドのダブリンで開かれた総会に、70か国から約400人の代表が出席し、売買春のほか、売春あっせん、売春宿の経営をふくむ「合意の下での性労働に関わる行為」について、「全面的に合法化すべきだ」とする決議を賛成多数で採択したのだ。

 「性労働者の人権保護につながる」というのが主旨だが、当然、反対派からは「人権団体としての信用性に傷がついた」と批判の声が上がった。それでも、シェティ事務局長は「性労働者は世界で最も軽視された職業集団であり、差別と暴力、虐待の危険に常にさらされている」とし、合法化を目指す意義を強調したそうだ。

 東京をふくめ世界のどんな都市にも、売春施設はあるし売春婦もたくさんいる。そのなかで、個人的にもっとも印象的だったのが、ドイツ第2の都市ハンブルクへ出張したときの体験だった。

 日本のあるメーカーの駐在員が、「ジャーナリストならみておいたほうがいい場所がありますよ」と、夜、アルトナ魚市場へ連れて行ってくれた。この市場は18世紀前半からあるといい、昼間は観光スポットとなっているところだ。日がすっかり落ちた市場の敷地に、おびただしい数の若い女性が立っていた。「あそこにいる娘は目がとろっとしているでしょう。ほら、あそこにも。明らかに薬物中毒です」。女性たちは売春婦で、物色する客の車に拾われ近くのホテルへと行くのだという。

 市場から少し離れたレーパーバーンという長さ800メートルほどの通りは、ドイツ随一の売春街として有名だ。いかがわしいクラブやバーなどが建ち並び、いわゆるストリートガールがたむろしている。

 別の機会には、旧東西ドイツ国境付近の幹線道路沿いに、たくさんの売春婦が立ち、男の車に拾ってもらうのをひたすら待っているのを見かけた。寒風のなか、若い女性たちはカラフルなスキーウェアを着ていた。

 ふた昔も前の見聞だが、ドイツでは2002年に21歳以上の売春が合法化されたから、いまでは事情も変わっているかもしれない。現在、首都ベルリンだけで約700もの売春宿があり、売春婦の数はドイツ全土で40万人といわれる。ヨーロッパでは、売春が合法化されている国は珍しくない。

 世界には、自主的にその職業を選んだ女性もいるだろうが、薬物でうつろな目をしていた魚市場の娘たちの顔が忘れられない。彼女らは、政府が認めた「慰安婦」だったり、マフィアがあやつる「性奴隷」だったりしたのではないか。女性の人権や尊厳が踏みにじられているケースも少なくなかっただろう。旧日本軍の公娼だった慰安婦より境遇はむしろ厳しかったかもしれない。それが、合法化で改善されただろうか。

 朝日新聞は、2014年8月、いわゆる従軍慰安婦をめぐる「吉田証言」についての虚報を認めながら、「問題の本質は(強制連行の有無ではなく)女性の人権だ」と論点をずらして開き直った。売春をめぐる世界の現状に目を向ける意思がある、とでも言うのだろうか。それならまず、多数派を占めていた日本人の慰安婦について、強制連行があったか、いくら収入があったか、客を選ぶ自由はあったか、行動の自由はあったかなど徹底取材して書くべきだ。それが女性の人権と尊厳を擁護する報道の第一歩ではないか。

 朝日が虚報を認めて1年以上が過ぎたが、女性とくに売春婦の人権についてキャンペーンを張る気配などまったくない。売買春合法化の世界潮流をどう考えるのだろうか。

 朝日をはじめとするタテマエの偽善者らは、売春にかぎらず、自分たちに都合の悪い海外の動きについては、目をつむり、聞かなかったことにする。アムネスティ・インターナショナルの合法化決議についても、知らんぷりをするのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

もう時効だから書ける、役得のテニス観戦

 東京「有明テニスの森公園」の敷地内にある有明コロシアムは、観客席1万を備え、開閉式の屋根を持つテニスの殿堂だ。上の方の席からでも、コートがよく見えファンにはたまらない。いつもは、緊迫した空気と歓声に包まれているが、その日は笑い声が絶えなかった。

 かみさんが正月に録画しておいてくれたテレビ朝日系「夢対決2015 とんねるずのスポーツ王は俺だ!!」を、やっと観る時間ができた。

 われらが錦織圭と、昨年、彼の専属コーチになって全米オープン準優勝、世界ランク5位に導いてくれたマイケル・チャンが、とんねるずと対戦する。熱血指導の松岡修造さんも、もちろん参戦する。

 とんねるずがまともに戦って勝てるわけはなく、さまざまな奇策が登場した。木梨憲武さんは、ラケットを2本持ち出して二刀流でコートを動き回る。一番笑えたのは、ネットをずらし、とんねるずのコートをうんと狭くして戦う新戦法だ。卓球の福原愛ちゃんがやらされたのを、テニスでも初めて取り入れた。有明コロシアムのネットポールは自由にずらせるようになっているのを、初めて知った。

 マイケル・チャンの少し広くなった額を見ながら、ちょうど20年前のことを思い出した。ドイツのフランクフルトで、現役ばりばりの彼が熱闘を演じたときのことだ。

 当時ぼくは、特派員としてボンに駐在していた。体育会系でショートヘアが似合うゲルマン美人の取材助手クラウディア嬢が、ぼくを誘惑するように言った。「今度、フランクフルトでATPツアー世界選手権があるんですけど、大会のプレスカード(記者証)を取って観にいったらどうですか?」。彼女もテニスが大好きだった。

 ATPツアー世界選手権というのは、いまで言うATPワールドツアー・ファイナルのことだ。ATPワールドツアーの年間最終戦で、レース・ランキングなどによりシングルス8人、ダブルス8組が選出され年間王者を決定する。

 ちょっと調べてみたら、第1回大会は、1970年に東京都体育館でペプシ・グランプリ・マスターズとして行われたそうだ。以降、名称を変えながら各国持ち回りで行われた。ぼくがボンにいたころは、何年かつづけてフランクフルトが会場になっていた。

 クラウディア嬢によると、新聞社のレターヘッドに申請書を書いて大会主催者に送れば、たぶんプレスカードはもらえるという。ぼくはスポーツ記者ではないが、ドイツ連邦政府新聞情報庁に登録した正式な外国人特派員だからだいじょうぶらしい。

 問題は、東京本社にどういう口実で出張申請をするかということだった。当時、ATPツアー世界選手権に出場できるような日本人選手がいるわけはなかったから、正攻法では許可が下りないだろう。

 そこで、動機は不純ではあるが、クラウディア嬢に協力してもらって、出張の口実探しをはじめた。そして見つかったのが、「ロスチャイルド家展」という催しだった。ロスチャイルド家は、言うまでもなく世界的財閥で、いまではアメリカのファミリーだと思われている。だが、そのルーツはフランクフルトにある。

 ロスチャイルドのスペルはRothschildで、「ロスチャイルド」は英語読みであり、ドイツ語読みでは「ロートシルト」となる。ロートシルト家は、神聖ローマ帝国自由都市フランクフルトのユダヤ人居住区(ゲットー)で暮らすユダヤ人の家系だった。ロートシルト(赤い表札)の付いた家で暮らすようになってから、ロートシルトと呼ばれるようになった。やがて銀行業で財をなしたが、ナチスによって反ユダヤ主義プロパガンダの格好の標的とされたことなどから、亡命した。

 これだけの材料があれば、じゅうぶん記事が書ける。東京本社のほうはそれでOKだ。さっそくクラウディア嬢に申請書を書いてもらい、ぼくがサインして郵送すると、しばらくして取材許可が下りた。

 フランクフルトの大会会場で、ぼくの席は前から二番目だった。強打のピート・サンプラス、のちにハリウッド女優ブルック・シールズと結婚するアンドレ・アガシなど、そのころのスーパースターが次々と戦った。一番声援を受けたのは、ドイツ出身のボリス・ベッカーだった。何しろ弱冠18歳でウィンブルドンを制し、一躍、ドイツにテニスブームをもたらした栄光の選手だった。

 トッププロの試合を生で観るのははじめてだった。サーブは軽く200キロを超える。ある試合では、サーブに頭を直撃された線審がふらっとするシーンもあった。

 なかでも印象に残ったのが、マイケル・チャンだった。台湾系アメリカ人で、独特の粘り強さがあった。絶対に取れないだろうと思われるコートぎりぎりの球を、「ウッ、ウッ」と声を出しながら拾いまくる。決勝では、わずかの差でボリス・ベッカーに敗れたが、アジア系選手として堂々の戦いぶりだった。

 そのマイケル・チャンが専属コーチになったのだから、錦織圭が技術、メンタルとも格段に強くなったのはうなずける。

 とんねるずの番組では、アンドレ・アガシも登場した。すっかりおじさんになっていた。今度は、ATPワールドツアー・ファイナルで錦織圭の勇姿が観たい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ビール、ビール、ビール

 フィリピンの首都マニラへ初めて出張した30年前、国産ビール『サンミゲル』に大感激した。ビールってこんなにうまいものかと心から思った。日本でがぶ飲みすればトイレが近くなる。フィリピンは常夏の国でいくら飲んでも汗になるのか、トイレ通いした記憶がない。サンミゲルはスペイン系の財閥メーカーが開発したものだそうで、そのラベル名もスペインの人名という。

 東京へ帰ってきてしばらくしたころ、あの味とのど越しが忘れられず、輸入ビールを飲ませる店へわざわざいった。大いに期待していたのだが、ラベルはサンミゲルでも、飲んだ感じは全然ちがった。やはり、あの気候風土のなかで飲むから旨いのだ。

 ドイツのビールも同じで、特に、ヨーロッパの乾燥してさわやかな夏にアウトドアで飲むのが最高だ。ドイツでビアガーデンといえば、文字通り庭園や公園の緑に囲まれたところで飲む。何でもラベルが5000種もあるそうで、住みはじめたころは、どの銘柄を飲めばいいのか迷った。そのうち少しずつ勉強し、おおざっぱに言って3種類のビールがあることを知った。

 一般的なのがピルスナーと呼ばれている。チェコのピルゼン地方が発祥といい、日本でふつうに飲むビールの製法はこのピルス系だそうだ。もうひとつが、ケルシュと呼ばれていた。これはドイツのケルン地方が発祥だとあるビール党から聞いた。大麦と小麦から作られるという。アルコール度数がやや低く色も薄い感じがして、飲んべえにとってケルシュはややパンチに欠けてもの足りないイメージがあった。

 ぼくがドイツで初めて飲んでとても気に入ったのが、ヴァイツェンビールだ。日本語では白ビールという。ピルスナーがビール麦から作られるのに対して、このヴァイツェンビールは小麦から作られる。ホップは入れないので苦みはなく、やや甘い。日本の甘酒を薄くしコクを増したような感じと言えばいいか。

 これは、絶対に肉料理に合う。本場ミュンヘンへ行ったとき、現地のひとが案内してくれた醸造所付属のレストランでは、豚のすね肉のグリル焼きをかぶりつきながら飲むのだった。いまでも、その味を思い出して、すね肉とヴァイツェンビールのためだけにでも、ミュンヘンへ行きたくなる。

 そもそも、ドイツのレストランでは、ミネラルウォーターよりビールのほうが安いことも珍しくない。その理由は税率にあり、ビール0.5リットル当たりわずか約6.5円で、日本の17分の1しか税金がかかっていない!

 世界全体を見渡すと、新興国の経済成長もあってビールの消費量は増えるいっぽうらしいが、本場ドイツではビールを飲む人が減っている。読売新聞によると、ピークの1976年から約3分の1も減ったそうだ。

 ぼくが住んでいた1990年代半ばには、まだ、飲酒運転の規制もそう強くはなく、「ランチにビール派」は結構いた。しかし、次第にきびしくなり、社会のアルコールへの寛容度が下がった。

 ビール離れのもうひとつの理由が、ダイエットだそうだ。ドイツは2007年に発表されたEUの肥満度調査で、男性75%、女性59%と共にヨーロッパ1位となった。たしかに、アメリカ人ほどではないが、ドイツ人の肥ったひともすごい。あるとき、ゴルフ場であった中年男性は、お腹が大きすぎて芝の上のボールが見にくいからと、ゴムバンドで脂肪の塊を縛っていた。

 さて、わが日本のビール業界も揺れている。350mlの場合、酒税はビールが77円、発泡酒が47円、第3のビールが28円のところ、政府与党は、これを段階的に見直して将来的に税額の一本化を目指す方針を打ち出した。業界だけでなく飲んべえにとっても、歓迎すべきか反対すべきか、判断がむずかしいところだ。

 本物のビールは安くなるからいいとして、家で飲むささやかな楽しみの発泡酒と第3のビールは値上がりすることになる。そもそも、発泡酒と第3のビールは、本物のビールの酒税が高いから、それを回避するために日本のメーカーが開発した世界に誇るアルコール飲料だ。それが高くなったら、意味が薄れてしまう。

 日本が開発した世界に誇るビール飲料のもうひとつが、プリン体ゼロ、糖質ゼロの製品だ。プリン体ゼロは痛風の予防になるし糖質ゼロはダイエットにつながる。ぼくは、もうだいぶん前から、晩酌にまず飲むアルコールはサッポロ極ZEROと決めていた。本物のビールに比べコクがやや劣るのはやむをえないが、飲み慣れると結構いける。

 このサッポロ極ZEROが爆発的に売れつづけて、2014年9月、キリン、サントリー、アサヒがいっせいに同じゼロゼロ商品を売り出した。4銘柄を飲み比べてみたら甲乙つけがたいものがあり、日替わりでいこうかと思っているところだ。

 ヨーロッパでは、和食ブームに乗って、アサヒのスーパードライを中心に日本のビールがよく売れているらしい。ついでに、ダイエットにもいいゼロゼロ・ビールで殴り込みをかければいいんじゃないか。ヨーロッパにも痛風で悩むひとは多いらしいから。

 もっとも、ビールの製法を法律・ビール純粋令で厳密に決めているドイツは、受け入れないかもしれない。「あれはビールじゃない、発泡酒ですよ」と説得すればいいか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

インどイツ物語ドイツ編(36・終章)【愛兎RAB、絶体絶命】

      97年春

 ドイツを離れる日をXデーとし、わが家はてんてこ舞いの毎日を送った。仕事の引き継ぎの資料を作り、荷造りをし、車2台の処分も考えなければならない。

 妻が子どもたちの送り迎えとショッピングなどに使っていた仏ルノー社製の赤いクリオを、まず、中古車ディーラーで査定してもらった。最初のディーラーは、車が盗難未遂事件に遭い配線カバーがちょっと傷ついていることに難癖をつけてきた。

 そんな値段か、とちょっとがっくりしながらも、翌々日、別のディーラーに妻を連れて訪れた。すると、ろくにチェックもしないで「クリオは、何と言ってもヨーロッパのカー・オブ・ザ・イヤーになった人気車ですからねぇ」と、最初のディーラーの2倍近い買い値をつけてくれた。

 妻とぼくは顔を見合わせ、即、売ることに決めた。なんと、営業マンはぼくたちを待たせ、金庫からキャッシュの束を持ってきた。その場で愛車を引き渡して、取引はすぐに終わった。

 ボンで買い3年間乗りつづけた車だけに愛着もあったが、別れを惜しむ間もなかった。ぼくたちには、まだ、山のように処理すべきことが残ってもいた。

 95年の夏に買ったメルセデス・ベンツは、意外にも、売りさばくのがむずかしかった。ディーラーが言うには、サンルーフがついていないことと色がポーラーホワイトなのがネックという。ドイツ人は、日本人とちがって白い車はあまり乗りたがらないそうだ。

 「それだったら、どうせ日本でも車がいるんだから、持って帰ればいいんじゃない」

 妻のひと言が背中を押して、引越し業者に日本への個人輸出の手配を頼んだ。そのコストは、日本で改めて車を買うことを考えれば、数分の一ですむようだった。

 国際引越しの最大の難題は、またも、わが家のスーパースター、ウサギのRABだった。ボンからベルリンに移ったときも、結果として、こっそり飛行機のキャビンに乗せて運んだ。

 今回もその手でいくしかない。うわさに聞くと、まともに持ち帰れば、成田空港で検疫のために数日間、預けなくてはならないようだ。その手間とお金がもったいない。

 いよいよXデー当日、RABを小さ目のダンボール箱に入れ、それをバッグに納めた。ベルリン・テーゲル空港で、日本人学校のシノハラ校長とマツノ事務局長などに見送られ、国内線に搭乗した。ここでのセキュリティではX線にばっちり映ってしまったが、無事通過した。

 そして、フランクフルト空港で成田行きの国際便に乗る時だった。ぼくは持ち込み手荷物のノートパソコンのチェックを受けるため、家族とは別のカウンターへ行っていた。妻によると、大柄でがっしりした体格の中年のおじさん係官が、バッグの中にウサギが入っていることに気づいた。

 妻や子どもたちがどきどきしていると、係官はナイフかハサミのような刃物をどこからか持ってきた。

 わっ、RABちゃんが殺されちゃう!

 胸がどきんと鳴ったとき、警備員は、RABのダンボール箱に、ブスッ、ブスッと穴を開けた。

 なんだ、息がしやすいようにしてくれたんだ。親切なドイツ人はここにもいた。

 RABは無事、成田空港に着いた。税関では、子どもたちが問題の“密輸バッグ”を乗せたカートを押してすーっと通り抜けた。1歳と8か月のRABは、ついに日本の土を踏んだのだ。

 RAB用の大きなケージは、船便で運んだ。東京近郊に新居が決まり、ケージもやがて到着して、RABは元気な日々を送った。

 優士は、自宅から1キロ以上離れたところにある公立の小学4年生となった。東京のベッドタウンで人口急増地帯のため、クラス転入生は他に5人もいて、自然に溶け込んだ。「ベルリン日本人学校から来ました」と自己紹介したら、みんなエーッと驚いた。

 舞は3年生のクラスに転入した。あこがれのランドセルをしょって通学するのがうれしくてたまらなかった。

 ドイツからの生きたお土産となったRABは、のちにピーターラビット種の真っ白なお嫁さんをもらい、6人の子をもうけ、10歳と半年も生きて大往生した。

 ――完

| | トラックバック (0)

インどイツ物語ドイツ編(35)【焼き鳥注意報】

      97年早春

 「国際映画祭のパーティがあるんだけど、いっしょに行く?」

 どちらかと言えばミーハー系の妻は、「行く、行くっ!」と叫んだ。

 当日、子どもたちも連れて出かけると、ベルリンに10数件ある日本レストランの中でもっとも大きい店だったが、東京の終電くらいに込んでいる。

 店内のどこにどう行けばいいか分からない。

 「こんな所で迷子になったらみっともないよ」

 子どもたちの手を引いて進んで行った。人混みにぽっかりあいた穴の中へ迷い出ると、タカハシ大使夫妻が目の前に立ち、隣に浅黄色の和服を着た女性がいた。そこへ何台ものカメラが向けられている。あわてて脇へどくと、フラッシュがいっせいに光った。

 和服の人は、女優の岩下志麻さんだった。妻は知り合いにわが家のカメラを手渡し、岩下さんといっしょに撮ってもらおうと必死だ。でも、あたりはミーハー系であふれかえっている。

 テーブルには食べ放題の日本食が並んでいるが、ここもラッシュだった。優士と舞は、かろうじてタレつきの焼き鳥を手に入れてもどってきた。

 やっと岩下さんの横があくと、子どもたちがつつーと近づいた。

 「焼き鳥、焼き鳥ッ!!」。

 妻が岩下さんの顔のまん前で、押し殺した声で叫ぶ。いかにも上等そうなお召し物にタレでもつけられたらたまらない。

 ぼくが映画関係者に取材をしているあいだ、妻はマネージャーらと食事をしていた岩下さんに頼み込んで、舞との写真を撮らせてもらった。

 妻は、今度は飲み物、食べ物の確保で忙しい。いつのまにかそばを離れた子どもたちを探すと、トイレに通じる廊下でだれかとおしゃべりをしている。

 「日本人学校のこと聞かれたよ」「あのおじさん、とてもやさしそうだった」

 最近の日本のテレビ・ドラマなど見る機会もないから、優士も舞も相手がだれか全然知らない。「やさしいおじさん」は、俳優の長塚京三さんだった。長塚さんも、子どもたちとの写真におさまってくれた。

 パーティは、ベルリン国際映画祭に参加した篠田正浩監督作品『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』のキャンペーンの一環だった。

 翌日曜日の朝、上映会を観に繁華街の映画館へ行った。日本人学校のアカミネ先生一家といっしょになった。ゲートで招待券を見せたが、細身の若い女性係員は「ちょっとここで待って」と通してくれない。しばらく立ったまま待つ間に、ドイツ人らがどんどん中へ入っていく。

 「どうして入れてくれないんだ」

 詰め寄ると、女性係員はドイツの典型的接客調でそっけなく言った。

 「18歳未満は、指定映画以外は観られないと法律で決まってますから」

 日本の映画配給会社が雇っていたドイツ人通訳もいっしょになって交渉してくれた。

 「きのうの上映会では、子どもも入れたじゃないですか」

 「きのうのことは知りません」

 こうなると、ドイツ人はテコでも態度を変えない。アカミネ夫人が「子どもたちはうちであずかってますから」と申し出てくれた。

 作品が、もしグランプリの「金熊賞」でも獲得すれば、ぼくは記事を送らなければならない。そのとき、どんな映画か観もしないで書くわけにもいかなかった。結局、アカミネ先生とわが夫婦だけが中に入った。

 日本では、原則として誰でも映画館に入れ、「成人向け」が例外としてある。ドイツはまったく反対で、未成年向けの指定映画があるらしい。いわゆる教育上よくない作品を子どもたちから遠ざけるためだが、民放テレビを観れば、そんなルールがあるとは信じられない。

 週末の深夜に限られてはいるとはいえ、下のヘア丸出しの過激番組がいくつもある。いわゆる本番のバッチリ映った番組が流れることもある。夜のパーティに親が出かけた後、子どもたちがこっそりチャンネルを合わせているかもしれないではないか。男女の愛欲の極地を描いたとされる日仏合作映画『愛のコリーダ』が、ノーカットで放送されたこともある。

 庭の芝刈りは昼寝時間帯はだめ、洗濯は夜8時まで、と何でもかんでも法律で決められている。もともとはドイツ式合理主義から生まれたのだろう。その合理性が時の流れとともに失われても、一度決めたことはちょっとやそっとで変えようとしない。

 逆に、社会でいろいろ不都合があっても、「法律にないから」と変な理由であまり問題にならないことも少なくない。

 『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』は、篠田監督渾身の力作で、戦後の混乱期に戦死した長男の遺骨を郷里に埋葬するため、家族で旅に出る物語だ。描写はノスタルジックで、成人向けどころか文部省推薦にさえなりそうな作品だった。

 日本での一般公開より3か月近くも早く、しかも招待券で観ることができた。前夜のパーティでは「ミーハー写真」を撮り、おいしい日本食までごちそうになった。それでも、映画館を出るとき、未成年締め出しですっきりしないものが残ったのは事実だった。

 ぼくたち一家は、もうすぐドイツでの任期を終え、日本に帰ることになっていた。ボンとベルリンでの日々は、文化のちがいは痛感しながらも、実に面白く楽しかった。

 引越しと後任への引継ぎ準備でほとんど寝る暇もないある日、タカハシ大使夫妻が、ぼくたち夫婦を大使公邸でのさよなら昼食会に招いてくれた。タカハシ夫妻とは、もともと、ボンの週末テニス仲間で、いっしょにテニス合宿に行ったこともある。そして、偶然、同じ時期にベルリンへ転勤になった。

 昼食会のメインディッシュはフォアグラのソテーだった。大使に、ドイツでの取材と生活の感想を聞かれた。ぼくは赤ワインのグラスを手にしたまま、即座に答えた。

 「ひと言で総括すれば、“Nicht schlecht”ですね」

 この言葉が大使夫妻に大受けした。「そうですか。ニヒト・シュレヒトですか。言い得て妙だな」

 英語で言えば“Not bad”、悪くない、という意味だ。

 正直に言って、かつてインドを離れるときには、これでやっと日本へ帰れる、と思った。今回は、子どもたちも「もう2、3年はいた~ぃ」と言っている。いろいろあったが、さまざまな人たちと知り合い、親切なドイツ人もたくさんいた。ドイツ暮らしは、確かに、悪くはなかった。

 〔短期集中連載〕

| | トラックバック (0)

より以前の記事一覧