インどイツ物語ドイツ編

インどイツ物語ドイツ編(36・終章)【愛兎RAB、絶体絶命】

      97年春

 ドイツを離れる日をXデーとし、わが家はてんてこ舞いの毎日を送った。仕事の引き継ぎの資料を作り、荷造りをし、車2台の処分も考えなければならない。

 妻が子どもたちの送り迎えとショッピングなどに使っていた仏ルノー社製の赤いクリオを、まず、中古車ディーラーで査定してもらった。最初のディーラーは、車が盗難未遂事件に遭い配線カバーがちょっと傷ついていることに難癖をつけてきた。

 そんな値段か、とちょっとがっくりしながらも、翌々日、別のディーラーに妻を連れて訪れた。すると、ろくにチェックもしないで「クリオは、何と言ってもヨーロッパのカー・オブ・ザ・イヤーになった人気車ですからねぇ」と、最初のディーラーの2倍近い買い値をつけてくれた。

 妻とぼくは顔を見合わせ、即、売ることに決めた。なんと、営業マンはぼくたちを待たせ、金庫からキャッシュの束を持ってきた。その場で愛車を引き渡して、取引はすぐに終わった。

 ボンで買い3年間乗りつづけた車だけに愛着もあったが、別れを惜しむ間もなかった。ぼくたちには、まだ、山のように処理すべきことが残ってもいた。

 95年の夏に買ったメルセデス・ベンツは、意外にも、売りさばくのがむずかしかった。ディーラーが言うには、サンルーフがついていないことと色がポーラーホワイトなのがネックという。ドイツ人は、日本人とちがって白い車はあまり乗りたがらないそうだ。

 「それだったら、どうせ日本でも車がいるんだから、持って帰ればいいんじゃない」

 妻のひと言が背中を押して、引越し業者に日本への個人輸出の手配を頼んだ。そのコストは、日本で改めて車を買うことを考えれば、数分の一ですむようだった。

 国際引越しの最大の難題は、またも、わが家のスーパースター、ウサギのRABだった。ボンからベルリンに移ったときも、結果として、こっそり飛行機のキャビンに乗せて運んだ。

 今回もその手でいくしかない。うわさに聞くと、まともに持ち帰れば、成田空港で検疫のために数日間、預けなくてはならないようだ。その手間とお金がもったいない。

 いよいよXデー当日、RABを小さ目のダンボール箱に入れ、それをバッグに納めた。ベルリン・テーゲル空港で、日本人学校のシノハラ校長とマツノ事務局長などに見送られ、国内線に搭乗した。ここでのセキュリティではX線にばっちり映ってしまったが、無事通過した。

 そして、フランクフルト空港で成田行きの国際便に乗る時だった。ぼくは持ち込み手荷物のノートパソコンのチェックを受けるため、家族とは別のカウンターへ行っていた。妻によると、大柄でがっしりした体格の中年のおじさん係官が、バッグの中にウサギが入っていることに気づいた。

 妻や子どもたちがどきどきしていると、係官はナイフかハサミのような刃物をどこからか持ってきた。

 わっ、RABちゃんが殺されちゃう!

 胸がどきんと鳴ったとき、警備員は、RABのダンボール箱に、ブスッ、ブスッと穴を開けた。

 なんだ、息がしやすいようにしてくれたんだ。親切なドイツ人はここにもいた。

 RABは無事、成田空港に着いた。税関では、子どもたちが問題の“密輸バッグ”を乗せたカートを押してすーっと通り抜けた。1歳と8か月のRABは、ついに日本の土を踏んだのだ。

 RAB用の大きなケージは、船便で運んだ。東京近郊に新居が決まり、ケージもやがて到着して、RABは元気な日々を送った。

 優士は、自宅から1キロ以上離れたところにある公立の小学4年生となった。東京のベッドタウンで人口急増地帯のため、クラス転入生は他に5人もいて、自然に溶け込んだ。「ベルリン日本人学校から来ました」と自己紹介したら、みんなエーッと驚いた。

 舞は3年生のクラスに転入した。あこがれのランドセルをしょって通学するのがうれしくてたまらなかった。

 ドイツからの生きたお土産となったRABは、のちにピーターラビット種の真っ白なお嫁さんをもらい、6人の子をもうけ、10歳と半年も生きて大往生した。

 ――完

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インどイツ物語ドイツ編(35)【焼き鳥注意報】

      97年早春

 「国際映画祭のパーティがあるんだけど、いっしょに行く?」

 どちらかと言えばミーハー系の妻は、「行く、行くっ!」と叫んだ。

 当日、子どもたちも連れて出かけると、ベルリンに10数件ある日本レストランの中でもっとも大きい店だったが、東京の終電くらいに込んでいる。

 店内のどこにどう行けばいいか分からない。

 「こんな所で迷子になったらみっともないよ」

 子どもたちの手を引いて進んで行った。人混みにぽっかりあいた穴の中へ迷い出ると、タカハシ大使夫妻が目の前に立ち、隣に浅黄色の和服を着た女性がいた。そこへ何台ものカメラが向けられている。あわてて脇へどくと、フラッシュがいっせいに光った。

 和服の人は、女優の岩下志麻さんだった。妻は知り合いにわが家のカメラを手渡し、岩下さんといっしょに撮ってもらおうと必死だ。でも、あたりはミーハー系であふれかえっている。

 テーブルには食べ放題の日本食が並んでいるが、ここもラッシュだった。優士と舞は、かろうじてタレつきの焼き鳥を手に入れてもどってきた。

 やっと岩下さんの横があくと、子どもたちがつつーと近づいた。

 「焼き鳥、焼き鳥ッ!!」。

 妻が岩下さんの顔のまん前で、押し殺した声で叫ぶ。いかにも上等そうなお召し物にタレでもつけられたらたまらない。

 ぼくが映画関係者に取材をしているあいだ、妻はマネージャーらと食事をしていた岩下さんに頼み込んで、舞との写真を撮らせてもらった。

 妻は、今度は飲み物、食べ物の確保で忙しい。いつのまにかそばを離れた子どもたちを探すと、トイレに通じる廊下でだれかとおしゃべりをしている。

 「日本人学校のこと聞かれたよ」「あのおじさん、とてもやさしそうだった」

 最近の日本のテレビ・ドラマなど見る機会もないから、優士も舞も相手がだれか全然知らない。「やさしいおじさん」は、俳優の長塚京三さんだった。長塚さんも、子どもたちとの写真におさまってくれた。

 パーティは、ベルリン国際映画祭に参加した篠田正浩監督作品『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』のキャンペーンの一環だった。

 翌日曜日の朝、上映会を観に繁華街の映画館へ行った。日本人学校のアカミネ先生一家といっしょになった。ゲートで招待券を見せたが、細身の若い女性係員は「ちょっとここで待って」と通してくれない。しばらく立ったまま待つ間に、ドイツ人らがどんどん中へ入っていく。

 「どうして入れてくれないんだ」

 詰め寄ると、女性係員はドイツの典型的接客調でそっけなく言った。

 「18歳未満は、指定映画以外は観られないと法律で決まってますから」

 日本の映画配給会社が雇っていたドイツ人通訳もいっしょになって交渉してくれた。

 「きのうの上映会では、子どもも入れたじゃないですか」

 「きのうのことは知りません」

 こうなると、ドイツ人はテコでも態度を変えない。アカミネ夫人が「子どもたちはうちであずかってますから」と申し出てくれた。

 作品が、もしグランプリの「金熊賞」でも獲得すれば、ぼくは記事を送らなければならない。そのとき、どんな映画か観もしないで書くわけにもいかなかった。結局、アカミネ先生とわが夫婦だけが中に入った。

 日本では、原則として誰でも映画館に入れ、「成人向け」が例外としてある。ドイツはまったく反対で、未成年向けの指定映画があるらしい。いわゆる教育上よくない作品を子どもたちから遠ざけるためだが、民放テレビを観れば、そんなルールがあるとは信じられない。

 週末の深夜に限られてはいるとはいえ、下のヘア丸出しの過激番組がいくつもある。いわゆる本番のバッチリ映った番組が流れることもある。夜のパーティに親が出かけた後、子どもたちがこっそりチャンネルを合わせているかもしれないではないか。男女の愛欲の極地を描いたとされる日仏合作映画『愛のコリーダ』が、ノーカットで放送されたこともある。

 庭の芝刈りは昼寝時間帯はだめ、洗濯は夜8時まで、と何でもかんでも法律で決められている。もともとはドイツ式合理主義から生まれたのだろう。その合理性が時の流れとともに失われても、一度決めたことはちょっとやそっとで変えようとしない。

 逆に、社会でいろいろ不都合があっても、「法律にないから」と変な理由であまり問題にならないことも少なくない。

 『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』は、篠田監督渾身の力作で、戦後の混乱期に戦死した長男の遺骨を郷里に埋葬するため、家族で旅に出る物語だ。描写はノスタルジックで、成人向けどころか文部省推薦にさえなりそうな作品だった。

 日本での一般公開より3か月近くも早く、しかも招待券で観ることができた。前夜のパーティでは「ミーハー写真」を撮り、おいしい日本食までごちそうになった。それでも、映画館を出るとき、未成年締め出しですっきりしないものが残ったのは事実だった。

 ぼくたち一家は、もうすぐドイツでの任期を終え、日本に帰ることになっていた。ボンとベルリンでの日々は、文化のちがいは痛感しながらも、実に面白く楽しかった。

 引越しと後任への引継ぎ準備でほとんど寝る暇もないある日、タカハシ大使夫妻が、ぼくたち夫婦を大使公邸でのさよなら昼食会に招いてくれた。タカハシ夫妻とは、もともと、ボンの週末テニス仲間で、いっしょにテニス合宿に行ったこともある。そして、偶然、同じ時期にベルリンへ転勤になった。

 昼食会のメインディッシュはフォアグラのソテーだった。大使に、ドイツでの取材と生活の感想を聞かれた。ぼくは赤ワインのグラスを手にしたまま、即座に答えた。

 「ひと言で総括すれば、“Nicht schlecht”ですね」

 この言葉が大使夫妻に大受けした。「そうですか。ニヒト・シュレヒトですか。言い得て妙だな」

 英語で言えば“Not bad”、悪くない、という意味だ。

 正直に言って、かつてインドを離れるときには、これでやっと日本へ帰れる、と思った。今回は、子どもたちも「もう2、3年はいた~ぃ」と言っている。いろいろあったが、さまざまな人たちと知り合い、親切なドイツ人もたくさんいた。ドイツ暮らしは、確かに、悪くはなかった。

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(34)【夢の学校 白雪姫も大人になる】

     97年早春

  「ツーガーベ、ツーガーベ!」

 ステージに勢ぞろいして終演のあいさつをする日本人の児童生徒に、ドイツの子どもたちからアンコールを求める大合唱が飛んだ。

 ベルリンのドライリンデン小学校。近所にある日本人学校が、全校でドイツ語劇『白雪姫と7人の小人』を熱演したのだ。

 全校といっても、小中学生合わせてわずか10数人。ドイツ統一の熱狂の中で創設準備が進められ、4年前開校した。だが、その後、日本企業の撤退が相次いだため、首都機能が99年にボンから移ってくるまで、日本人社会も学校もこぢんまりしたままだ。

 日本では最近、クラスや学年の枠を超えた「タテ割り教育」が学校改革の一環として試みられているが、ここではそれがいやおうなしに実現した。大きな子は自然に小さな子の面倒を見、下の子は上の子に刺激されて伸びて行く。家族的な、いじめも不登校も無縁の世界だ。

 『白雪姫』はもともと、学校祭で上演された。週に2時間、ドイツ語の授業があるが、低学年や転入間もない子にドイツ語のせりふは難しい。本番ひと月前、Mちゃんは練習でべそをかいていた。でも、1週間ほどに迫ったある日、発音などの指導にあたる事務局長に、自分からせりふを口にしてみせた。「これでいいでしょ」と笑顔を添えて。

 学校祭に招かれたドライリンデン小学校の副校長は、全員参加のドイツ語劇に舌を巻き、即座に自校への「出張公演」を依頼した。

 当日、開演を前に、副校長はこうスピーチした。

 「日本人の子どもたちにとって、ドイツ語のせりふを覚え、劇を演じるには大変な努力があったはず。そのことを考えながら見て下さい」

 ドイツの子どもたちは一般的に、劇場などで行儀がいいとは言いがたい。だが、幕が開くと静まりかえった。「ドイツ語でも私にはあんなにうまくできない」。3年生のウリーちゃんは幕あいに興奮していた。

 「ドイツ人には学校間交流という発想がなく、開校以来、すれ違いと試行錯誤の連続でした」と、日本人学校のある関係者は語る。それでも毎年、日本式の運動会などにドイツの先生と児童を招いてきた。

 昨年来、ドライリンデン小学校の4年生全員が担任の先生に連れられ、突然、日本人学校にやってきて、先生も含め全員に手作りの「お菓子の家」をくれた。日本の遊びや食事を一緒に楽しむ「交流会」に招待したことへのお礼だという。「4年かかってようやく大きな手ごたえがあった」と先生たちは感激した。

 「ドイツの子は乱暴で、欲張りだなどと、うちの学校の子どもたちにも偏見があった。劇をこれほど真剣に見てもらい、それもなくなるでしょう」

 アンコールの大喝さいに包まれ、舞台衣装の「小さな外交官」たちはほおを染めて立ち尽くしていた。ステージのそでで、先生や事務局長は目を潤ませていた。

 (読売新聞1997年2月24日付けから)

    ☆★☆★☆★☆★    ☆★☆★☆★☆★    ☆★☆★☆★☆★

 ベルリン日本人学校の元在籍生は、西暦で「0」と「5」のつく年の夏、東京で大同窓会を開いている。卒業生だけでなく、親の仕事の関係で数か月だけ在籍した者でも、参加資格がある。

 出身地は全国にまたがり、海外で活躍する者も少なくない。幹事団は、大学2年生の世代が担当することになっている。

 2005年夏、第1回が信濃町のレストランを貸し切って開かれた。出席した卒業生は約50人だった。一番の特徴は、保護者たちが元在籍生以上にたくさん参加することで、広いレストランは人であふれた。

 子どもは都合がつかなくて出席できなくても、親だけが参加するケースもある、珍しい同窓会だ。

 幹事団は、元在籍生にメールで連絡をとり、欠席者をふくめた名簿を作成、会場で手渡してくれた。そこには、各自のコメントが集められていた。

 「自分探しの途中です」(ユキ)「大学生活をエンジョイしてます」「都内の大学で2年生です。勉強よりも趣味のオーケストラに夢中、目の前の今を楽しむ毎日です」(フウコ)

 成長したんだなぁ。

 「 卒業生第1号結婚しました」(ユキ)というのもある。もうそんな年ごろになった人もいるのか。

 「ハンガリーのリスト音楽院に通学しております」(ケント)。将来が楽しみだ。

 先生たちからは、こんなコメントが寄せられた。「ぎりぎりまで日程を調整したのですが、出張や会議やらで出席できなくなりました。北海道の空から乾杯!」(シブカワ)「懐かしかった。なんかウルウルきましたよ。ヴァンゼーの公園で遊びたいね」(オグラ)

 そのオグラ先生は、ベルリンの現地採用で、学校創設準備以来のメンバーだ。同窓会には妻子を連れての一時帰国中で、参加してくれた。日本人学校では、先生と子どもたちの仲もすごく良かった。オグラ先生は個人的に、ある夏、ケンゴ君、コウスケ君、コウジ君と森のなかでキャンプをし、カヌー遊びをしたという。子どもたちも、その時のことをもちろんよく覚えている。

 タカシ君は、学校のすぐそばにあった湖ヴァンゼーが全面凍結した時のことが印象に残っているという。「みんなで氷の上を歩いて、かなり遠くまでいってみた」

 トモコちゃんは、小5から中1まで在籍した。ドイツ語劇『白雪姫』でヒロインの白雪姫を演じた。王子様が最後のシーンでキス(のふり)をするとき、ドキドキした。いまでは、銀行員となった。

 2010年夏には、信濃町の同じレストランで、第2回大同窓会が開かれた。前回以上の参加者で、会場はわいわい大にぎやかとなった。

 キヨシ君は、この同窓会に出るためだけに沖縄から弾丸で参加した。卒業生第1号結婚したユキさんは、母親4年生になった。非常勤でホテルの専門学校の英語講師をしている。ガーデニングにはまっていて、庭でのんびり娘とお茶をするのが何よりの楽しみという。

 コウジ君のように、ほんの短いあいだしか在校しなかったが、「人生のなかで決定的な体験になった」という者たちも少なくない。

 北海道大学大学院の1年生カオル君は、空路、飛んできてくれた。カオル君と同じクラスだった優士は欠席したが、こんなコメントを寄せた。

 「社会人1年目です。日本で最初に作られた知的障害者施設で働いています。常盤貴子さん主演で映画化もされた施設です。最近は趣味で写真撮影をよくしています。ミクシィで公開したりしています」

 センダ先生も、一度日本にもどった後、ふたたびベルリンで暮らしているが、わざわざ同窓会に参加してくれた。

 ブラジルのリオデジャネイロ日本人学校に赴任していたアカミネ先生も、任期を終えて帰国し、大分から家族連れで参加した。閉会前の先生のあいさつで初めて知ったことがある。

 ベルリンにいるとき、ぼくが先生に「日本に帰ったあとも、みんなで集まれる親子同窓会を開けば楽しいでしょうね」と提案したのだという。言い出しっぺはぼくだったのか。

 ぼくは、ボンで日本語補習校の運営委員をしていた関係から、ベルリンの学校でも保護者会長兼理事をさせられていた。日本人学校へ顔を出す機会も多く、アカミネ先生とそんな話をしたのだろう。本人はすっかり忘れていたのに、それが実現した。

 実は、同窓会の第0回というのがあり、その時は、アカミネ先生たちが主導して開かれた。席上、次回からは子どもたち自身が幹事役になることが決められ、こうして2回の本番を重ねたわけだ。

 そして、第2回の同窓会でも、次回の幹事団が決められた。いまは高校生だが、幹事になるときには大学生の年代で、きっとうまくやってくれるだろう。

 新旧の幹事団に拍手!

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(33)【晴れのち晴れ=後編】

      96年晩夏

 「日本の運動会みたいに、明け方から場所取りするなんてことなくていいわね」「日本では、校庭のフェンスを乗り越えて入って、厳重注意される人がいるくらいだものねえ」

 お母さんたちがぺちゃくちゃやりながら、長机ひとつの「本部席」の横にシートを並べる。とはいえ、大人も出番が次々あり、席を暖めている暇がない。

 「ラジオ体操第1」も全員参加だ。「30年ぶりくらいかなあ」と言いながら、体を動かすと、それだけで結構疲れる。ドイツ人親子も見よう見まねでぎこちなくやっている。

 大人だけの競技では、わが夫婦がAチームの主将にさせられた。竹篭を背負って走っていき、ドッジボールを地面にワンバウンドさせて篭に入れる。コーンを折り返して帰ってきて、ボールを取り出し篭を次の人に渡す。

 オグラ先生がお手本を見せてくれた。「先生、よく似合ってますよーぉ」。ぼくが声をかけると、妻が調子に乗って「お猿のかごやみたーい」と言う。「私もそう思ったけど、悪いから口にしなかったのに」とアヤコちゃんのママがつぶやく。

 トップバッターはかなりのプレッシャーがかかる。何とか一発でボールが入り、内心「よかったーぁ」と叫びながら折り返した。Aチームの面々や子どもたちからの大歓声が快感だ。

 つづいて妻も一発で決め、意気揚々と帰ってきた。Bチームの主将になったカオル君のパパは何回やっても入らず、すっかりあせっている。2番手のママも大苦戦だった。これなら、Aチームは圧勝しそうだ。

 わが夫婦は、日本にいたとき、子どもの幼稚園の運動会でも「賞品稼ぎ」で鳴らした。優士が年小組の時、2人3脚縄跳びで1等賞になり本部席で受け取ったのは、なぜか醤油の小瓶2本だった。しばらくの間、わが家のキッチンにはのし紙を巻いた醤油瓶が誇らしげに飾られていた。

 ベルリンの運動会で、わがチームはいつの間にか大逆転されてしまった。それでも体を動かしたから、お昼の缶ビールがうまい。隣の席はアカミネ先生一家で、奥さん手作りの豪華弁当を広げている。先生に缶ビールを渡そうとしてやめた。「勤務中ですもんねえ」と言うと「本当は飲みたいんだけど」と恨めしそうだ。

 わが家の弁当も負けてはいない。妻はいつも行楽弁当に関しては、実家の母親の流儀を受け継ぎ、こだわりを見せる。巻き寿司、稲荷寿司、鶏の唐揚げに必ずおでんが付く。練り物はもちろんうずらの卵や筍の水煮など、外国では手に入りにくいものをどこかで見つけ、2、3日前から気合いを入れて仕込む。

 「優士、アルミちゃんのお父さんに渡して」と1缶を持たせた。「“文部省後援”の行事だからアルコールはまずいかなと思って持って来なかった」と言っていた。金属の研究で博士号を取った人で、石部金吉かと思えばとんでもない。金属に入れ込むあまり、長女にアルミニュームからアルミと名付けた。本名はもちろん漢字で、とても可愛い感じの名前だ。次女が生まれ「ニューム」と付けようとして、さすがに奥さんに反対されたという。

 子どもたちはさっさとお昼を済ませ、グラウンドで遊んでいる。ドイツ人の子どもたちは1輪車に挑戦しているが、そう簡単にはいかない。タロー君や舞が得意そうに乗り回している。

 雷鳴が急に近くで聞こえ出した。遠くの雲も一段と黒くなったようだが、頭上の空はまだ青い。

 午後の最初のプログラムは綱引きだった。参加者全員がふた組に分かれ、ドイツ製らしいちょっと細目のロープを持った。ちょうど日本総領事館のタカハシ大使夫妻が激励に来てくれた。「今ごろグリーン上かと思っていましたのに、わざわざ来ていただいて、ありがとうございます」

 とても気さくなおふたりだから、ぼくが綱引きに誘うとふたつ返事だった。「えっ、いっしょに引いてくれるの!」。よその奥さんたちが驚いている。

 理事長が「ツィーエン(引けっ)で引くんだよ」とぼくたちのチームに声をかける。日独合同だからかけ声はドイツ語だ。たかが綱引きでも、ホイッスルが鳴ればみんな真剣になる。3回戦い、1対2で負けてしまった。

 次の子どもたちの競技の写真を撮ろうとして、手に力が入らない。「明日はひどい筋肉痛かなぁ」という声があちこちで聞こえる。

 運動会の定番、玉入れ競争は今回初めて取り入れられた。先生たちがベルリン日本語補習校から借りてきてくれた。篭はひとつしかないから赤白対抗とはいかない。来賓もドイツ人親子もふくむ参加者全員をその場でふたつに分け、1回戦勝負となった。

 「ひとおつ(アインス)」、「ふたあつ(ツヴァーイ)」と2か国語のカウントが続く。35対42。優士たちのチームから歓声があがった。

 ハイライトはリレーだ。大人たちの参加を呼びかけるアナウンスがあると6、7人のドイツ人が、集合場所へ歩いていく。高めのヒールの靴をはいた女性もいる。日本人はひとりも出ない。日本人学校の運動会なのにドイツ人だけが走るのをながめるのは悔しい。しかも最後のプログラムだ。

 全力疾走などしばらくしていないからひっくり返るかもしれないが、ひとりでも参加することにした。集合場所から保護者の応援席に手招きすると、タロー君とマユミちゃんのパパたちがきてくれた。アルミちゃんのパパも「ビールの借りがあるから」と加わった。
 まず、日本人の児童生徒が紅白戦をした。人数合わせでシノハラ校長先生は舞と一緒に走った。マツノ事務局長も重そうな体で力走した。

 いよいよドイツ人親子と日本人の大人の番だ。適当に分かれると、たまたまぼくが列の最後に立っていたのでアンカー用の青いベストを渡された。係りのセンダ先生が白鉢巻をたくさん持っている。ぼくは「どうせなら雰囲気を出したいから」と1本もらい頭を締めた。

 スタートのホイッスルが鳴り、ドイツ人のちびっこが飛び出していく。しゃがんで順番を待っている間、じわっと緊張感が湧いてくる。リレーで走るなんて中学校以来か。

 ぼくたちの組は快調でぐんぐんリードしている。気がつくとタロー君のパパが走っている。次がアルミちゃんのパパで、もうアンカーにくる。

 バトンを受け取った時、相手チームは最後から2番目の選手がまだゴールラインで待っている。何かおかしいな、と思いながら走りだした。若いころのイメージで走ると下半身がついていかずころんでしまうと言われる。7割ぐらいの力で、と言い聞かせ走っていると意外に早くゴールが近づいてきた。

 「もう1周、もう1周」という声が聞こえる。え、やっぱり人数が合ってなかったのか。ゴールに飛び込んだままもう一度コーナーを回った。胸が痛い。2周も走るんならやめておけばよかった。振り向くと差は詰められていない。ゴールではセンダ先生たちが白いテープを張って待っている。万歳しながら走り込むと足がよろけそうになった。子どもたちの歓声が初めて耳に入った。

 閉会式で校長先生があいさつしていると、雨が落ち始めた。空はなんとか持ってくれた。学校もどうにか続けていけるだろう。人口350万人を抱えるヨーロッパ屈指の大都会の片隅に、大人たちもドイツ人も巻き込んだこんな寺小屋のような学校があった。伝説になる日はそう遠くないだろう。

 〔短期集中連載〕

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北朝鮮を嗤えない すぐそこにもある独裁メカニズム

 読売グループをめぐる“清武の乱”が世間を騒がせている。これを横目でみていて、1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件を連想した。

 第2次大戦中、敗色濃厚となったドイツ国防軍のシュタウフェンベルク大佐が、ヒトラーのいる総統大本営会議室に爆弾をしかけた。爆発はしたものの、ヒトラーは危うく難を逃れた。実行者の大佐や同志の反ヒトラー派将兵グループは、身柄を拘束され、惨殺された。

 戦後、ヒトラーは<悪いドイツ人>の象徴=絶対悪とされ、それを排除しようとしたグループは、(西)ドイツで<善いドイツ人>として英雄視された。

 国防軍は正規軍であり、ナチス親衛隊などナチ組織とは、いちおう一線を画していた。したがって、シュタウフェンベルク大佐らはナチスではなかったが、生粋の軍国主義者であり、ヒトラー亡きあとも民主的な国家再建を目指していたわけではない。ヒトラーがトップにいる限り敗戦は免れない、とし国防軍が戦争を主導するため決起しようとした。

 そういう意味では、どっちもどっちだ。しかし、トム・クルーズ主演の米映画『ワルキューレ』(2008年)でも、大佐らを美化して描いていた。

 “乱”に失敗し巨人軍の代表兼GMを解任された清武氏とは、ぼくは30歳前後のころ机を並べて仕事をした。敏腕記者として鳴らし、巨人軍に移ってからも数々の新機軸を打ち出してきた。

 清武氏は、ナベツネこと渡邉恒雄・読売グループ会長のコーチ人事介入に耐えられず、その独裁体制に風穴をあけようと決起し、つまづいた。

 世界の独裁体制には、大きく分けて北朝鮮型とナチス型があると思う。北朝鮮では、抗日パルチザンのリーダーだった金日成が、大戦終結直後、ソ連の支援を受けて北朝鮮労働党を組織し、北朝鮮の指導者となり、やがて72年に独裁者となった。2011年12月19日に急死した金正日は、父親の独裁権力を世襲した。

 つまり、北朝鮮では、民衆があずかり知らないところで、上からの独裁体制が築かれた。 これに対し、ヒトラーは一兵卒からのなり上がり者だった。巧みな演説と不思議なカリスマ性で人心を掌握し、選挙によって第1党の党首となり、首相の座についた。ナチ党を基盤として国民をつぎつぎとナチ化し、独裁体制を固めていった。出世しようと思えばナチになるになるのが一番であり、一般国民のほとんどもナチズムに酔った。

 つまり、ナチスドイツは、下からの独裁だった。

 ナベツネ独裁体制は、ナチス型だ。もちろん、読売新聞が戦争や大虐殺をしたわけではない。あくまで、組織論から考えればパターンがよく似ているということだ。

 ナベツネが大学生時代、共産党員だったことは一般に知られている。ある事件で宮本顕治の逆鱗にふれ、党を除名された。その後、保守に傾くようになった。

 読売に入ると政治部に所属し、自民党・大野伴睦の番記者となった。中曽根康弘氏とも盟友関係となり、政界、社内で影響力を持つようになった。そのころ「組織は5%の人間を押さえれば、全体を牛耳れる」と語っていた、とぼくはある人物から聞いたことがある。それは、共産党のシンパ作りの手法そのものだという。

 ナベツネは、まず、政治部の5%を確保し、それから部全体を掌握した。つづいて、経済部を手中に収めた。社会部とはまだ敵対していた。

 だが、社長になって少し経ったころからか、社会部、社会部出身の幹部を篭絡していった。出世しようと思えばナチになるになるのが一番、という原則がここにもある。

 清武氏も、その当時は「あの人も、ナベツネの軍門に降ったか」などと言っていたのを思い出す。編集局でも、ぼくがいた外報部(現国際部)をふくめ、大多数の記者はナベツネに反感を持っていた。

 なにしろ、言論機関でありながら、紙面には言論の自由などなかった。なにか核心を突くスクープ記事の原稿を書いても、社論や社の政治利権に反すれば、ナベツネ自身ではなくナベツネ体制の尖兵となった幹部が握りつぶしてしまう。清武氏も社会部などにいてそういう経験をしたことを、本人の口から聞いたことがある。

 社内で出世するということは、ナベツネの軍門に降ることとほぼ同義語だった。そして、社内にはミニナベツネがいくらでもいた。

 ナベツネは、ぼくもメンバーだった社内の「憲法研究会」にほぼ毎週顔を出した。頭のキレはずば抜けていたが、権力志向があまりにも強く、方向性をまちがえていると思う。

 ある週刊誌は今回の“乱”をめぐり、「清武氏が巨人軍内でミニナベツネになっていた」と報じた。彼自身は、ナベツネの軍門に降ったわけではない、と思っていたのかもしれないが、はたから見ればヒトラーの威を借るナチ幹部と同じだっただろう。

 独裁体制下で、人がどんどんナチになっていくのは、読売に限ったことではない。たとえば、創業家出身の前会長が不正に106億円もの借り入れをしていたとして大騒ぎになった大王製紙でも、「絶対的に服従する企業風土があった」と朝日新聞は伝えている。

 権力者の軍門に降るのは、人の習いなのだろう。つまり、ナチはあなた自身かもしれない。少なくとも、あなたのそばには、ナチがたくさんいる。

 --毎週木曜日に更新--

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インどイツ物語ドイツ編(32)【晴れのち晴れ=前編】

                96年晩夏

 遠くに黒い雲がのぞき、かすかに雷鳴も聞こえる。頭の上には、どうにか青い空が広がっている。

 グラウンドでは運動会がたけなわで、「人間ムカデ」がうごめいていた。白組の舞は1、2年複式クラスの同級生タロー君とのペアだった。ふたりのお腹と背中でドッジボールをはさみ、のろのろと進んで行く。「白組、ボールがはずれて苦戦しています」。ラジカセからBGMが流れ、低学年の担任で放送係のリカ先生が解説を入れて盛り上げる。

 「国語の先生なのにリカっていうんだよ」

 この春、新しい担任になった先生のことを舞は口をとがらせながら話していた。ジョークなのか本気なのか。舞の考えていることは、いつものように親にも分からない。

 舞とタロー君はよちよちながらどうにかコーンを折り返し、次の子どもたちにバトンタッチした。赤組の2番手で登場した優士はタカシ君、ドイツ人の女の子と3人で2つのボールをはさんで進んだ。3、4年の中学年クラスだから難易度が高い。最後の高学年と中学生のチームは4人で3つのボールを運んで行く。両組の人数が合わないので、一番若いオグラ先生が加わっている。

 8月最後の土曜日、ベルリン日本人国際学校の第4回運動会が、微妙な空の下で始まった。「皆さんが一生懸命がんばれば、お空の神様はきっと雨を降らすのを待ってくれるでしょう」。来賓代表の学校理事長があいさつした。

 小学5年のコージ君は、ちょうどこの日、日本に帰らなければならなかった。お父さんの研究留学にくっついて来て5か月ほどベルリンで勉強したが、楽しみだった運動会にはぎりぎりで間に合わなかった。前日、「来年は日本の夏休み中に開いてください。きっときます」と先生たちに言い置いて帰って行ったという。

 小中学生の数は、マイナスひとりで16人になった。あとひと月するとさらにふたり減る。入れ替わりが激しいから、きっとまた子どもたちは増えるはずだが、当分はさみしくなる。

 運動会でも、児童生徒以外の数の方がはるかに多かった。保護者、先生の家族に、理事長夫妻や日本総領事館からの来賓もいる。会場を貸してくれたドライリンデン小学校の子どもと親も20人ほど来て、オープン競技にどんどん参加してくれた。

 グラウンド脇のフェンスには、中学生たちが描いた万国旗が張られ、ささやかな大運動会に華をそえている。児童生徒会の体育委員が用意した横断幕も「全力をつくし、力を合わせてがんばろう!」と喝を入れている。

 1学期の終わりごろ、ひとりだけいた中3の男の子が帰国し、小1から中2までの8学年となった。プログラムの出場者欄を見ると、子どもたちの出番はすべて「全児童生徒」となっている。運動能力はまちまちなはずなのに、どうやってひとつの競技をさせるのだろう。「人間ムカデ」を見てうなずいた。工夫すれば何とかできるものだ。

 「なわとび」というあっさりしたタイトルのプログラムもあった。子どもたち全員が縄跳びをしながら登場し、低学年から順番にテクニックを披露していく。舞たちはふつうの縄跳び、優士たちは両手を体の前で交差させる「綾飛び」、高学年と中学生はその2重飛び「ハヤブサ」に挑戦する。

 先生が長縄をぐるぐる回すところへ小さい子から順に飛び込んで行く。1年坊主のカオル君がぴょこんと飛んで出ていくと、舞は長縄のリズムに合わせて飛びながら自分の両手に持った短縄で縄跳びをするという高等テクニックを見せてくれた。

 「とてもじょうずにリズムを取っていま~す」とリカ先生がマイクで声援してくれた。見物席から拍手が起こった。「よくあんなことできるわねえ」。妻が写真を撮るのも忘れて見ている。

 優士は長縄を飛びながらパートナーとバスケットのようにボールをパスをして見せた。その周囲を4、5年生の女の子たちが1輪車に乗りながら縄跳びをして回って行く。

 子どもたちのチームワークの良さには定評がある。1学期の最後、学校近くのヴァンゼー湖畔にある研修センターで、全校参加の「夏期学校」が2泊3日で開かれた。中学年の男の子が体調を崩し階段のところで戻してしまった。そばにいた子どもたちは、すぐにティッシュペーパーで後始末した。先生を呼びに行ったのはその後だった。

 4月のある昼休み、たったひとりの新入生サトル君が初めて1輪車に乗ったとき、2年生の女の子ふたりが両手を持って練習につきあっていた。九州から着任したばかりのアカミネ先生は、父親参観の日に保護者全員の前でわざわざその目撃談を披露した。

 2年生の女の子と言えば、そのひとりは舞のことだ。家ではお兄ちゃんと喧嘩ばかりしているのに、やるじゃないか。

 大きな子が小さな子の面倒を見る。困っている時は助け合う。当たり前のことが当たり前にできるのは、子どもたちも先生方も、日本の学校に比べずっとゆったりしているからだろう。

 89年11月9日、ベルリンの壁が崩れる現代史のドラマが起きると、ドイツに熱狂ムードが生まれた。日本などにも飛び火し、ベルリンがヨーロッパの中心都市になるような錯覚が生まれた。企業が相次いで殺到し、駐在員の数が壁のあったころとは比べられないほど増えた。

 家族を呼びよせるとなれば日本人学校がいる。できたばかりの日本商工会が設立準備を始め、日本政府に申請した。「統一ドイツの首都に日本人学校がないわけにはいかないだろう」と、あっさり認められた。子どもの数がどれくらいになるか予測もつかないままだった。統一の熱狂がハプニングのように生んだ学校だった。

 ベルリン市教育省が認可した私立の学校法人で、商工会の一組織、学校理事会が運営に当たる。日本からはプロの教師6人が派遣され、93年4月に開校した。

 子どもの数がさらに減って自然閉校になってしまう恐れもないわけじゃない。今日の空模様のように、いつも心配がつきまとう。唯一の希望は、首都機能がボンからベルリンへ移る世紀の変わり目に日本人家庭が一気に増えることだ。

 ――つづく

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(31)【さみしい天然ブリ】

  「いい時に来ましたねえ。あなたはほんとに運のいい人だ」

 シェフの青木栄弘(ひでひろ)さんが、ニコニコ顔で現れ、鮮魚のショーケースの前へ連れていってくれた。氷を敷き詰めた中から舌ビラメやカレイがのぞいている。子どもたちも初めてのレストランで知らない人たちばかりだから神妙だ。

 青木さんがスイッチを押すと、透明ガラスのケースカバーがゆっくり開いた。

 「わあー、おもしろーい」

 舞が声をあげる。奥の方に大きな魚が横たわっている。

 「これ、今日入ったばかりの天然ブリですよ。こんなにいいのは滅多に入らないです。3匹仕入れてさっき1匹さばいてあるから刺身にしましょうか。フォーア・シュパイゼ(前菜)にちょうどいいでしょう」

 魚の頭をなでるように青木さんが言う。

 「イタリア料理の刺身なんてどんなのかしら。海鮮中華みたいに塩コショウと香味野菜で食べるとか」

 テーブルで妻は待ちきれなさそうにしている。そのころ、まだカルパッチョという料理は、日本では一般的でなく、ぼくたちは洋風刺身を食べたことがなかった。

 あの青木さんが自信を持って出してくれるというんだから、きっとうまいんだろう。こっちだって、さっきからやたら唾が出てきて困っている。

 「ねえ、ナイフとフォークでお刺身食べるのぉ」

 真っ白いナプキンをいじりながら、優士がもっともな質問をした。

 ベルリンの象徴ブランデンブルク門からほんのちょっと南の旧東側へ下ったところに青木さんのイタリア・レストランがある。かつてシュタージ(旧東独秘密警察)要員などが住んでいた高級アパートの1階だ。1年近くかけ、自分たちで床のタイルを張り壁を塗って、110席の店舗を完成させたという。

 もともと札幌の食堂の息子として生まれ、高校生のころから包丁を握っていた。大学卒業後、伯母の中華レストランを手伝ったが、「どうせやるならパリに行ってフランス料理を」と考えた。まず、札幌のホテルに勤め、西洋料理の基礎を学んだ。

 25歳の誕生日の直前、親戚のいたベルリンへ渡った。そこからフランスのビザ取りを狙ったが難しいと分かり、日本料理店で働いた。

 74年秋、美食家で知られた指揮者カラヤンも行きつけの超一流店『ベルリン・リッツ』へドイツ語の履歴書を持って行くと、「明日から働いてくれ」と言われた。

 「その店のシェフ、ベルナーフィッシャーさんは、個人でミシュランの2つ星を持っていた恐らくドイツで唯一の人で、以前からあこがれていたんです」

 そんな話を、この前きた時に聞いた。海外で活躍する日本人を紹介する欄のためインタヴューを申し込んだらふたつ返事でOKしてくれた。「記事が出たら持ってきます」というと「じゃ、家族連れできてください。何か適当に作って出しますから」と言ってくれていた。

 土曜日の夕方、電話もしないでやってきたのだが、どうやら大当たりの日だったらしい。

 シェフお薦めのイタリア産白ワインをちびちび飲んでいると、やっと前菜が出てきた。

 「わー、きれいね」。妻が盛りつけの華麗さにまず関心する。

 レッド・オニオンのスライスに薄緑のチコリ、飾り包丁を入れた真っ赤なラディッシュをアクセントに添え、その上に桜色の大きな切れのブリが6枚盛りつけられている。皿の脇には緑鮮やかな西洋タンポポの葉が敷かれている。これもサラダにすると結構うまいものだ。皿の端にはキノコのようなものがある。よく見るとビー玉のように丸めたワサビがゆでパスタの傘をかぶっている。

 青木さんは「札幌のホテル時代、結婚式料理の飾り付けなどでデコレーションの修行をしたのも役だってますよ」と言っていた。料理はまず目から、なのだ。ドイツ料理はそうでもないが。

 まったく同じ前菜の皿が子どもたちの前にも並べられ、しょうゆベースのドレッシングが出てきた。小さなスプーンで魚にすくってかけ、おもむろにナイフを入れて口に運ぶ。適当に乗った脂が口の中で広がっていく。

 「役得よねえ。なんか申し訳ないわね」

 その役得のおこぼれに預かっている妻が、いちばん不遠慮に桜色の切れ端を口へ運んでいる。誰にということもないが、確かに申し訳ないような気がする。

 「お刺身の左側から切って食べなさい」

 妻の忠告も、舞の耳にはほとんど入っていない。最近ステーキを自分で切って食べるのが気に入ってナイフ、フォークの使い方には慣れているはずなのだが、ときどき「左右音痴」になる。2年生になった今でも漢字を鏡に写したように左右逆に書いたりするプッツン嬢なのだ。

 もっとも、どう切ったってうまい。ふだんの舞なら「こんなにたくさん、食べられなーい」と言うところだが、今はそんなそぶりもない。優士は早くもほとんどを平らげ、舞が残すに決まってる野菜に手を出した。

 「どうですか」

 青木さんが厨房からやってきた。まだ時間帯が早くお客さんの入りが少ないから、シェフも余裕がある。感想を聞かれても、こういう至福感を表す形容詞はない。どこで取れたのか聞くと、トルコ沖だという。

 「値段はマグロの3倍くらいしますけどね。いいものはいいから」

 ふつうはバターで香味焼きにして出すそうだ。妻が思わず「火を通すなんて、もったいない感じですね」というと、青木さんは「いや、それがまたいけるんですよ」という。

 ベルリン・リッツにいたとき、青木さんは国際料理コンクールで4回も金メダルを取っている。

 「第2の父」と仰ぐ師匠ベルナーフィッシャーさんから「料理人は常に新しいものに挑戦しろ」と教えられたという。受賞作のひとつはこうだ。

 日本から持ち込んだ旬のタケノコをミキサーでムース状にして生クリームをまぜ、それで煮たヒラメの周りを飾りつけた。

 どんな味、どんな舌触りかイメージが浮かばないが、西洋の料理人をびっくりさせたことは想像できる。

 「日本人で得をしました。ヨーロッパにない食材を知っているし、魚や野菜の鮮度も見分けられる」

 作る方も超一流のプロだが、食べる方、飲む方も相当の道楽者らしい。奥さんの和子さんとオーストラリアまでカンガルーを食べに行き、ドイツやイタリアのワイン醸造元に何度も足を運んで、門外不出の秘蔵ワインを味わったりしてきたという。

 アフリカの動物もかなり食べたそうだ。ぼくが、「在日コリアンの人がやっている御徒町の焼肉屋で、牛の脳味噌の刺身を食べたことがありますよ」というと、身を乗り出して「それは知らないなぁ。日本でもそんなもの食べれるんですねぇ」と、ちょっと悔しそうに言った。

 ベルリンの壁が崩れてまもないころ、雇われシェフをしていた西ベルリンのイタリア料理店に、東側から若い母親が幼い子どもを連れてやってきた。わずかの西ドイツマルクを差し出して「これで何か食べさせて欲しい」と言う。

 やっと手にいれたお金のはずだった。金額分よりちょっとサービスし、ピザにエビを乗せて焼いて出すと「こんなにおいしいものは食べたことがない」と喜んだ。

 そのころ、あるイタリア人に腕を見込まれ、イタリア料理店の共同経営を持ちかけられていた。母子のことが心に残り「どうせなら、安くてうまい料理を東の人たちにも」と、旧東ベルリンに店を構えた。

 イタリア料理は「70歳くらいのおばあさんに教わった」という。雇われシェフとしてスカウトされた時、経営者から「うちのお袋のところで勉強してきたら」と言われ、夏季休暇の5週間、トリノへ行った。

 「毎朝、そのお袋さんについて市場へ行って、庭先にあるローズマリーやオレガノの生の香辛料なんかを使って料理を作るんです。普通の主婦なのに料理の腕や知識はすごかった」

 青木さんにそんな話を聞きながら、ぼくはやっと気づいたことがあった。イタリア人ウェーターが、前菜をサービスするとき、「サミシー、サミシー」と訳のわからないことを口走っていたのだ。

 優士は首をかしげて「どういう意味?」とぼくに聞く。「あんなのドイツ語でもイタリア語でもないんじゃない」

 その意味がやっとわかったのだ。ウェーター君は、ぼくたち日本人に気を使って「刺身、刺身!」と言っていたのだ。うろ覚えというのは、時に人を困惑させる。

 それにしても、サミシー天然ブリは最高だった。

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(30)【風に揺られて=後編】

      96年夏

 セザンヌやルノワール、マチスは、森の中で全裸でくつろぐ人びとの姿を繰り返し描いている。絵画の世界が、目前にあった。これが日本ならなどと思わなければ、べつにどうということもない。子どもたちがヌーディストたちに何の反応も示さなかったのが、それを物語っている。

 「裸で日光浴――どんな場所ならいいか、いけないか」。大衆向けの全国紙ビルトが、ある猛暑の日、実例の特集をした。

 銀行員のライナー・ガイスさんがハンブルクの公園の屋外プール脇で全裸で横たわっていると、警官が飛んできた。屋外プールでの全裸行為は「家宅不可侵権」により禁じることができるとされる。違反した場合、「反秩序法第108条」により罰金刑となる。

 フランクフルト大学の学生クリスティーネ・シュナイダー嬢(23)は、アパートのバルコニーで上も下もなしで講義ノートを読んでいいると、隣のおばさんに「警察を呼ぶわよ」と文句を言われた。この場合、法的に問題はなく警察は関与しない。文句があるなら、アパートの持ち主から言ってもらうしかない。

 デュッセルドルフに住むミハエラ・フィルメニッヒ嬢(22)は自宅の庭で全裸で日光浴していた。隣人がバルコニーから「ふしだら娘。うちの子どもたちをだめにする!」とののしった。警察は「自分の庭なら問題はない」と取り合わなかった。

 ベルント・ディットヒッヒ君(25)は、ハノーファーのプールで恋人のベアーテ嬢の胸にクリームを塗っていた。彼女がうめき声を出したため、周りから文句がでた。警察の見解はこうだ。性的行為は「刑法典183条a項」の「公序良俗違反」で最高1,000マルクの罰金。人前でいちゃつきすぎると、7万円以上を取られたうえ、前科がついていまう。

 記事は外国での例もあげている。

 秘書のエレンさん(32)がイタリア中部トスカーナ地方で全裸日光浴をしていると、カービン銃を持った騎兵隊が現れ、「反倫理的行為」として約400マルク、ざっと3万円の罰金を払わされた。

 北アフリカ・チュニジアの地中海岸で全裸でいたドイツ人カップルは、土地の人間に石を投げられ、さんざんに殴られて大けがをし病院に運ばれた。

 特集は、「他の危険な国」として、ギリシャ、エジプト、モロッコ、マレーシアをあげる。「アメリカ(フロリダ、ハワイ)もおつにすましており、胸をさらすのはだめ」としている。

 どぎまぎさせられるのは、露出度とは関係ない。ボンにいたとき、オフィスが同じフロアにあるフランスの高級紙ル・モンドから、いらなくなった電話の権利をもらい受けることになった。名義変更のため、ヘミ・ド・ブレソン特派員とドイツ電話公社(テレコム)の支店へいった。ベートーベンの銅像が立つミュンスター広場の脇にあった。

 やはり7月初めの暑い日のことで、担当の20代半ばの女性はノースリーブを着ていた。その腕の付け根からは、黒いものが伸び放題に自生している。ブレソン特派員は気にとめるようすもないが、こちらは「異文化の溝」に転落して、電話の手続きどころではなかった。

 そのころ、土曜日の日本語補習校で優士と同級のM君のママがこんなことを言っていた。

 「水泳の時間に若い女の先生が子どもたちをプールサイドに整列させるでしょ。子どもたちの視線は、ちょうど先生の水着のVラインあたりにいくんだけど、そこから雑草みたいにえんりょなく伸びてるものがあるわけよ。息子の教育にどんな影響があるかなあと心配になっちゃう」

 ミニスカートの下に伸びた足がふさふさしているのを見かけることもある。体毛をそのままにするのは、ドイツの女性にとってそれなりの歴史があった。

 事情通によれば、戦後、アメリカから体毛を処理する文化が入ってきた。ところが、1968年、反米を叫ぶ学生運動や女権拡張主義(フェミニズム)の活動が燃え上がり、「アメリカ人のまねをすることはない」と自然に任せる風潮がいっきに広がったという。

 ドイツ語には、自由肉体文化(フライケルパークルトゥーァ)という言葉がある。略語のFKKもよく使われる。ビルト紙の特集記事は「トップレスでも問題ないところ」として、スペイン・マジョルカ島、クロアチア、モルジブなどのほか「もちろん、北海、バルト海のFKK海岸」と書いていた。

 夏の終わり、ベルリンのわが友人宅でのホームパーティでは、この話題で盛り上がった。
 「ヌーディスト・スポットなら、同じ緑の森(グルーネヴァルト)の中でも、もっとすごいところがあるよ」

 日本の大手家電メーカーの駐在員Nさんは、ビールを飲み干し得意そうに言った。妻がババロアをすくったスプーンを空中に止めたまま聞き入った。

 「そうなの、この人、家から遠いのに、わざわざ自転車で見に行ったのよ」

 N夫人はそう言いながらも、事情にかなり詳しいようだった。その場所はわが家からならすぐという。

 「今年はもうシーズン終了か。来年の夏、異文化研究のためみんなで行こう」

 Nさんと固く誓いあった。しかし、両家族とも、次の夏を待たず帰国することになった。

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インどイツ物語ドイツ編(29)【風に揺られて=前編】

      96年夏

 森の中を心地よくサイクリングしていた。青葉を映す湖が現れ、湖岸の遊歩道を家族づれがおしゃべりしながら散歩している。自転車もときたま行き交っていた。

 「あ、あれ見て」

 荷台に優士を乗せて走っていた妻が、ずっと前の方を顎で示した。まさか、といった表情をしている。

 若い女性がスッポンポンで、遊歩道をゆっくりこちらへ向かって歩いていた。肩まで流した細いブロンドの髪が、7月の風に揺れている。下のヘアも、木漏れ日の中で、金色にきらめいていた。

 ――ブロンド娘といっても染めてるのがかなりいるけど、さすがに下は染められない。色ちがいの上下を同時に見ると変なもんだよ。

 ずっと前、モスクワへ行ったとき、夜の事情に詳しい知人が、したり顔で話していた。

 すると、目の前の女性は、本物のブロンドということになる。よたよたと歩く2歳くらいの子を追いかけていた。ヤング・ミセスなのだろうが、体の線はまったく崩れていなかった。子どももブロンドの巻き毛で、かわいいおちんちんをつけている。ドレスデンのツヴィンガー宮殿絵画館で鑑たラファエロの傑作『システィーナのマドンナ』に描かれた天使のようだ。

 「ねえ、見て。あのおじさんの揺れてる」

 自転車から下り、妻は遊歩道脇の雑木林をちらちらながめている。同じ観察者でも、男女でおのずと注目点がちがう。妻は信州の露天風呂でも連想しているのだろう。

 辺りには20人ほどのヌーディストがいた。ヤングより中年のおじさん、おばさんの数が多そうだった。シートに寝そべったり、動き回っておしゃべりをしたりしている。

 優士は、妻の自転車の荷台で、この珍しい光景をぼんやりながめていた。舞も、いつもならキンキン声で質問を浴びせるところだが、木の根っこが浮き上がっていたりするでこぼこ道で、子ども自転車を操るのにけんめいだった。

 ベルリンへきて半年、一家でサイクリングなどとしゃれこむのは初めてだった。外は軽井沢の夏のようなすがすがしい日曜日なのに、わが家の朝は大荒れだった。例によって早くからテレビゲームに熱中していた優士は、みんなが起きてくるころには眠気がピークにたっしていた。

 ゲームのじゃまをしたと舞に八つ当たりし、物差しで思いきりひっぱたいた。左頬にあざを作った舞は泣きわめき、優士をしかる妻の声が家じゅうに響きわたる。

 少し嵐がおさまってブランチにありついたら、優士はわけもなく暴れだし、コーンフレークの皿を舞に向かって放り投げた。

 「もお、なんてことすんの!!」

 妻は目に涙をためている。以前知り合いだった酒乱の人は、血液中のアルコール濃度が一定のレベルを越すと、自動的にわけがわからなくなり暴れだした。優士の場合は、「眠気度」が一線を越すと必ず半狂乱になる。ふだんは優しくて物わかりもいい方だから、その落差には製造責任者も愕然とさせられる。

 嵐はいったん通り過ぎればうそのように静かになる。気分転換のため、子どもたちを外へ連れ出すことにした。地下倉庫には、もらいものの日本製自転車2台と子ども用1台がほこりをかぶっていた。引っ張り出して空気を入れ、雑巾でざっと拭いた。

 「野生の鹿を見に行こうよ」

 舞が言った。どうせアニメの世界と現実とをごちゃまぜにしゃべっていると思えば、そうではないらしい。優士が前に、通学の車の中から鹿を見つけたという。わが家はその名も「緑の森(グルーネヴァルト)」という地区にあった。鹿はその一画の「緑の森湖(グルーネヴァルト・ゼー)」あたりにいるという。

 ふたりはどっちが子ども自転車に乗るかでもめたが、朝の事件の加害者が折れて話がついた。

 湖まで10分もかからなかった。鹿はたしかにいた。2頭の姿が見え、大きな方は立派な角をはやしていた。

 湖岸には、それよりもすごい「金色の毛」をなびかせた群れがいて、妻もぼくも朝の嵐のことなどすっかり忘れてしまったのだった。

 前の夏、ボンに住んでいたころ、ケルン方面に向かってあてもなくドライブし、アウグスティス城の広大な庭園を散策した。その後、ハイデルベルク湖という田舎の保養地にたどり着いた。

 たまたま、ものすごく暑い日で、小さな森に囲まれた湖岸には人があふれていた。ボートを漕いだり水の中に入って遊んでいるのは一部だけで、ほとんどはトドのように寝そべっている。たいていの人は水着を着けているが、あるところだけトップレスが集まっていた。ここでは、おじさんやおばさんは見あたらず、ボディラインに自信のありそうな女性たちだけが、ブラジャーをはずして太陽にさらしていた。

 「なぜ、あんなところまで焼く必要があるの」

 妻の疑問はある意味でもっともだった。でも、答えようがない。服を着たままのぼくたちのほうが恥ずかったが、子どもたちを連れ、その中を歩いて通り抜けた。ただ見て歩くのも変なので、売店でアイスクリームを買って引き返した。

 ベルリン緑の森のヌーディスト・スポットは、湖水浴客だけが訪れる限られた空間ではなく、ふつうの散歩コースだった。混浴の銭湯の壁を取り払って、その脇を通行人が行き来していると思えばいい。

 「やってみる?」

 妻に聞いてみた。

 「10年前なら」

 強気の言葉が返ってきたが、顔はトンデモナイと言っていた。

 ――つづく

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(28)【香り高きスニーカー】

      96年春

 日本に一時帰国する日がきた。2年ぶりの日本だった。「何といっても温泉よ」と妻が言えば、舞は「おいしいお肉が楽しみーっ」と叫んでいる。

 ヨーロッパの国々では、今や、それなりにうまい寿司や刺身は食べられる。だが、牛肉、豚肉のたぐいは質より量といったところか、たいてい硬いかぱさぱさでうまみに欠ける。高級和牛の霜降り肉など、夢のまた夢だった。

 ベルリン・テーゲル空港へ向かおうと、自宅にタクシーを呼んだ。おみやげや着替えを詰めたふたつのスーツケースを運び、「早く、早く」と子どもたちをせかして乗り込もうとしたときだった。

 「フンを踏んじゃったぁ」

 優士が泣きそうな声をあげた。タクシーの後部ドアを開けたちょうどその場所に、立派なモノが落ちていた。それをスニーカーでまともにつぶしてしまった。

 「こんな時にどうすんのよぉ」。

 妻は時計を見ながらあせっている。ティッシュペーパーでふいても、臭いまで落ちそうにない。ハンチング帽をかぶった運転手さんは「そのまま乗るなんてじょーだんじゃない」といった顔をしている。

 家の外に洗い流せるような水道はない。妻は、優士の靴を脱がせると、わが家のあるメゾネット・マンションに飛び込んでいった。

 なかなか出てこない。じりじりと、霜降り牛の夢が夢のままになりそうな絶望感におそわれる。

 「優士、いつもフンには気をつけろと言ってるだろ」

 「お父さんだって、この間、踏んじゃって、車の中が何日も臭かったじゃない」

 そう言われれば、返す言葉がない。

 犬のフン害は、ドイツ7不思議の筆頭格にあげられる。

 ほんらい、ドイツは、マナーや社会のルールを守ることについて、信じられないほどきびしいお国柄だ。

 たとえば、車で一方通行を逆から入ったりすれば、大通りを走るトラックがわざわざ止まり、運ちゃんが窓をあけて注意する。「関係ないでしょ、よけいなお世話!」と言いたくなる。

 ボンに住むようになって間もないころ、マンションのオーナー会社から正式な手紙がきた。

 「貴宅の洗濯物は近隣の景観を損なうため、すみやかに善処されることを望みます」

 馬鹿ていねいに堅苦しいドイツ語で書いてあった。5階建ての屋根裏部屋の窓ガラスの内側に干していたのに、だれがそんなところを見上げて文句をつけたのだろう。

 そんな国なのに、お犬さまは「たれ流し後免」だった。犬を散歩させている人が、持ち帰り用の袋を持っている姿など見たこともない。

 優士に音楽や体育を教えてくれる日本人学校の美人のS先生も「1日に続けて2回も踏んじゃいましたよ」とフンガイしていたことがある。

 ドイツでは猫はめったに見かけないのに、こと犬に関しては博覧会場のようだ。毎日毎日、ドイツ全土で人間より多いかもしれないという数のお犬さまが散歩に連れ出され、たれ流しているさまを想像すると、ぞっとさせられる。

 300万頭いるとされるロンドンでは、外で飼い犬にふんをさせると最高500ポンド、ざっと7万円の罰金を取られる。公園の近くなどには、始末用のビニール袋の自動販売機があり、10ペンス(10数円)硬貨を入れると2枚入りの小箱がでてくる。それ専用のごみ箱もあり、専門業者が処理する。

 パリではオートバイにバキューム式装置を積んだ犬のフン処理部隊がいるそうだ。総勢75人いて、毎日ひとり平均50キロくらいを吸い取って回るという。

 ベルリンでも小型車に積んだフン収集機が導入されると新聞に出ていたが、一度も見かけたことはない。

 ドイツでは、たばこのポイ捨てもひどい。歩道を歩いていて、車の窓から火のついたままのたばこを足元に投げ捨てられ、頭にくることもしょっちゅうある。わが家のある地区「緑の森(グルーネヴァルト)」は街路樹が繁り、落ち葉の季節などよく火事にならないものだと思っていた。

 1995年の夏、デュッセルドルフに近いレムシャイトでアパートが燃え、トルコ人など20人ほどがけがをして4人の子どもが入院する事件があった。この市は2年前、トルコ人一家5人がネオナチの放火で焼け死んだゾーリンゲンの隣にあり、一時は「またもネオナチの外国人攻撃か」と騒ぎになった。

 火元は玄関前にあったベビーカーで、車の窓から投げられた吸いがらで燃え上がったことがわかった。良識派はネオナチの動きには敏感でも、ぽい捨てを法律で禁止しようとの声はあげない。

 タクシーの中で数世紀にも感じられるほど時間がすぎたころ、妻がやっともどってきた。手に別のスニーカーを持っている。

 「あんなの簡単に洗い流せないわよ」

 「じゃあ、あれ、どうしたの」

 「玄関わきの階段のところへ置いてきたわ」

 わが家の玄関わきといえば、お隣の玄関の真正面でもある。内階段だから臭いがこもって大変かもしれない。

 「だって、外に出しておいたら、だれか持っていっちゃうかもしれないでしょ」

 はき古しのフンつきが取られるとも思えないが。

 2週間後、日本から帰ってくると、スニーカーはそのままあった。お隣のクルップさん一家には、ささやかなおみやげを渡した。妻の実家でもらった香りの高い信州りんご2個だった。

 〔短期集中連載〕

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